第陸拾玖話:春日山城
「ええい! どこの誰だ⁉」
これほどの急襲は黒田にとって完全に予想外の出来事であった。長尾晴景を追い出した時点で、上田に退くにしろ栖吉に退くにしろ、軍勢を集めまとめるにはそれなりの時間が必要となる。揚北衆にしろそれなりの力の在る勢力は春日山の近くにはいない。大熊らも含めた近郊の城を任されている奉行職の者たちも、晴景と共に撤退している。用心しろと言う方が難しいだろう。
ましてまだ、攻め取った春日山の状況確認すら終わっていないのだ。
こんなに早く攻めてこられるとは誰も思うまい。
「琵琶島の宇佐美か? それとも栖吉の長尾か? どちらにせよ、早過ぎる。計算が合わぬではないか!」
黒田は大いに焦り、顔を歪めていた。誰かが攻めてくること自体は想定内であるが、それがこれほどに早いのでは話が違い過ぎる。城下、周辺の確認などで多くの兵を外に出しているのもまた彼にとっては最悪の状況と言える。
いずれは春日山城に籠り、守りを固めるつもりであったが、そうする前に謎の敵が春日山城下に雪崩れ込んできたのだ。元々春日山全域を守れるほどの戦力はない。山城である春日山城の地の利を生かすつもりだった。
それがこのままでは御破算となってしまう。
「敵方、栖吉及び古志郡の勢力と判明いたしました!」
「総大将は?」
「栃尾城城主、長尾景虎です! 軍の先頭に立ち、真っ直ぐ城へ向かってくる模様。その勢い凄まじく一向に足を緩める気配すら……如何いたしますか?」
「長尾、景虎ァ」
黒田は唇を噛み、屈辱に身震いしていた。全てが御膳立てされていた古志郡で活躍していたとは聞いていたが、所詮相手は三流どころばかり。
己には届かぬ、ただの若造だと思っていた。
だが、今の彼は誰よりも先んじてこの春日山に現れ、盤面を覆さんとしている。盤石であったはずの絵図に、黒い染みが浮かび始めていた。
ここで自分が負けたなら――
「……あっては、ならぬ」
「殿?」
「城におる兵だけで固めよ。春日山城は絶対に死守する!」
「……外にいる兵は?」
「今は捨て置く」
「……承知」
黒田は絶対に負けられぬ状況下で、即座に損切をした。欲をかき野戦をして負けたなら、それこそすべてが終わる。逆に今城内に残存している兵力でも、しっかり固めたならば容易に突破できるほど、山を切り拓いて造られた城は甘くない。
城には籠城のための食糧は充分貯蔵されている。
「小僧が。今に見ておれ」
黒田の選択は、籠城。彼にとっては屈辱の選択であろう。誇りを傷つけられ、怒りで顔を真っ赤にしていた。それでもこの男は黒田秀忠。
越後の実力者であり、海千山千を超えてきた実績がある。
固めた山城は何倍の戦力で攻められようとも、落ちない。城が落ちる最大の理由は後詰、つまり援軍が来ないことが判明した場合にある。籠城自体は備え次第だがかなり少ない兵力でも何とかやりくりできるもの。しかしそれらは後詰があってこそ我慢する理由が出来る。そして今回、耐え忍べば必ず後詰は到来する。
上杉定実の軍勢、である。建前上は敵方の後詰だが、実態としては黒田方と言ってもいい。彼らが到来し、上杉が総大将と成ったところで白旗を上げる。
それで黒田は勝つのだ。上杉と共に。
彼らにとっての増援が、黒田にとっての勝利の合図。それぐらいは持たせて見せる。勢いで城は落ちない。それを若造に教えてやらねばならぬ。
黒田は怒りながらも冷静であった。
○
長尾景虎は春日山に視線を向け、黒田の動きを察知する。当然そうする、と微笑むが、無論その当然をされるのが一番厄介なのであった。
最も楽だったのはこちらを若造と侮り、野戦で雌雄を決さんとしてくれること。それならば勝てた。持続力はないだろうが、勢い極まる今の軍勢は強い。
だが、城を固められると途端に手詰まりとなる。何しろ今回は移動速度を重視するために食料は持参させた分しかない。まあ国内の、しかも栖吉、春日山間での戦なら規模がよほど大きくない限り、配給と言う形は取らないだろうが、城攻めともなればその辺りが響いてくる。補給の用意もない。
そもそもドンと構えて城を落とす暇も、無い。
「秀綱ァ!」
「ここに!」
「事前に話した通りよ。ここで賭けに出るぞ」
「……承知」
「すまぬな。本来であれば俺がやるべきだが」
「いえ。殿がこの場から消えたなら、軍の勢いはたちまち萎むでしょう。殿あっての軍勢、この狂気を持続させるためには、先頭にいて頂かねば」
「頼む」
「……はい!」
あの長尾景虎が、自分に頼むと言った。それだけで本庄秀綱の気持ちが上がる。この男はどうでも良い状況や、日常生活ではいくらでも人を頼るが、こういう局面で人を頼ることなど滅多にない。それは短くとも共に戦った者ならば知っていること。
その彼が頼むと言ったのだ。今、この局面で。
「必ずや、役割を果たして見せます!」
燃えぬはずがない。
本庄秀綱は部隊を率い、戦線を離脱する。それを尻目に長尾景虎は敵味方に見せるよう派手に敵方を薙ぎ払い、力を示す。
これが長尾景虎だ、と言わんばかりに。
○
春日山城にはいくつかの城門が存在する。御舘川から引き込んだ堀を渡る橋や、谷から駆け上がるような低地や、尾根伝いの高地など、巨大な山城に相応しい雄々しき見た目を誇る。もちろん、入り口が多い分、攻め筋も多いわけで、守りに割く人員はそれなりに必要なのだが、それぐらいは用意しているようであった。
どちらにせよ容易く抜けるようには出来ていない。
案の定、橋を挟んで軍勢は停滞する。
「臆病者どもが!」
「引きこもってないで顔を出せェ!」
そうなると出来ることが挑発目的の悪口しかなくなる。兵士たちは思い思いの悪口を投げかけるも、当然城門の奥から敵が動く気配はない。
他の入り口に戦力を割いてはいないが、同じような状況であろう。
景虎は堂々と腕を組み、仁王立つ。
この門に景虎がいることも相まって、城門の奥には大勢が詰めかけていた。力攻めをするならば迎え撃ってやる、と言わんばかりの布陣。
弓手は高所に配置され、橋を渡れば矢が飛んでくるだろう。堅牢な門は固く閉ざされており、その周囲には高い柵が設けられていた。
こうなってしまうとどうしようもない。
景虎は軍の半分以上に指示を飛ばし、城下に残る敵兵を殲滅せよと命じる。
だが、城には手を伸ばさない。
「軍を割きましたな。今なら数の上でこちらが優位では?」
「ならぬ。黒田様より死守との命だ」
門を死守するための兵たちは命令に従い、動く様子が無い。景虎が隙を作っても関係がないとばかりに無視を決め込む。
手詰まり、長尾景虎もまた不動。
動かないのか、動けないのか、若き怪物の胸中は不明である。
○
景虎停滞の報せを聞き、黒田はほくそ笑む。当然、こうなるのだ。如何に勢いづいた者であっても、山城を前にすればこうなる。ましてやこれだけ急ぎで現れた軍勢なら、城攻めの用意など簡単にできることではない。
春日山に来れば何とかなると思ったのだろうが、そんなに世の中は甘くないと黒田は笑う。手勢はさほど多くない。だが、門を固めるぐらいは出来る。
入り口を押さえればあとは待つばかり。
「他の入り口もきっちり押さえよ。相手に数が無いからとて油断するな。外側を固めていれば勝てるのだ。ありとあらゆる可能性を潰せぃ」
油断はない。
「殿! 二の丸の裏手、山側に人の動きあり、です」
「ふは、涙ぐましいのぉ。本丸の兵を二十ほど回せぃ。追う必要はないぞ。ネズミが入らぬよう固めるだけでよい」
「はっ!」
「くく、好きなだけ策を弄すがいい。俺はそれをきっちり受ければ勝つのだ。わざわざ急ぎ来てもらって悪いが、ここ止まりよ、若造」
慢心も、隙も無い。堅守最大の隙は人の心にある、と黒田は思っていた。相手の動きに惑わされ、最善の行動を取れぬ者から崩れていくものなのだ。
この黒田は違う。
如何なる動きをしてこようと最善の行動を徹底し、目標を完遂する。
若造の浅知恵などで崩れぬ、黒田はニヤリと笑う。
○
長尾景虎は、幼少の頃から城郭模型でよく遊んでいた。宇佐美らが驚愕したほどの本格的な攻城戦を、あらゆる状況を模索しながらああでもないこうでもないと一人、あの離れで遊び尽くしていたのだ。
結論から言おう。
春日山城は落ちない。
春日山城を力押しで攻め落とすには、兵の数が足りないのだ。そもそも城と言うのは一朝一夕で落ちるものではない。そういう記録があったとしても、大半は後詰の当てがない、食料の備えが無い、抗う意味が無い、その辺りの理由であろう。
もしくは攻め手の名が、積み上げた実績が現実よりも大きく見せ、何もせずとも降参させる、ようなこともあるかもしれない。
だが、今の景虎の名ではそこまでの力はない。
例え兵の数が足りていたとして、それでも力で押し切るには時間が足りない可能性もある。それが城攻めの、山城の難しさ。
こればかりは勢いで押し切れるものではない。
「山城を落とすのは難儀よな、黒田よ」
そんなことはこの景虎、最初から承知している。
「誰もがそう思う。俺も、兄も、父上も、誰であっても城攻めは難しい。だからこそぬしは攻め取るのではなく、奸計によって奪い取った。俺でもそうする。ぬしでもなくとも、そうするだろう。なあ、黒田よ――」
長尾景虎は、嗤う。
「この城を再構築したのは、誰と心得る?」
先代当主、長尾為景の手によって大改修された春日山城。特に城下の利便性は格段に向上し、道も含めてとても使いやすくなったと評判である。
大きく、見栄えのする城と成った。
「俺だけではここまで。だがのォ」
周囲が異変に気付き、ざわつき始める。
「ぬしは父を、兄を、見極められなかった。そこが敗因よ、黒田ァ」
長尾景虎の視線の先、春日山城本丸から、火の手が上がる。
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