第漆拾話:為景が築き、晴景が残し、景虎が喰らう

 突如、本丸を急襲された黒田は愕然とした後、わなわなと震え出した。

 考えていなかったわけではない。あの長尾為景が作った城である。そういう抜け道があってもおかしくはないと思っていた。だが、その懸念は長尾晴景が正面から堂々と逃げ出したことで、薄れ消えていたのだ。

 本丸に抜ける道があることを今の当主である晴景が知らぬわけがない。ならば、あの時、あの危機的状況で彼はあえて使わなかったのだ。

 全てはこの時のため。城攻めの手札として残しておくために。

「……クソがァ」

 敵の侵入を防ぐために、兵力の大半は城の外側を塞ぐために割いている。何人でやって来たのかは知らないが、弾き返せると思うほど黒田は楽観的ではない。

 そう考えたなら、先ほどの人影とやらも本丸から人を割かせるための、ちょっとした策であったのだろう。結果、さらに手薄と成った本陣に切り込む隙が出来た。それが無くても成功はしただろうが、より確実性は高まる。

「殿、どうされますか⁉」

「……ぐ、ぬ」

 選択肢は撤退一択。わざわざ景虎が一つの出入り口に陣取ってくれているのだから、それとは別の道から逃げ出せばいい。黒田が惑うのはその合理的な判断とは別の部分、若造にしてやられたことと、何か直感めいたこと。

 己の征く道が、何かに敷かれているような、そんな感覚が過ぎる。

 まあ、大半はここで退けば黒田の勝ちがほぼ消える部分にある。居城である黒滝城まで退くことが出来れば、負けはなくなるのだが勝ち筋は失われる。それは上杉も同様、ほぼ趨勢の決した戦場を仲裁したとて、彼の対外的な評価が上がるわけではない。下がるのは長尾晴景、上がるのは――長尾景虎。

 この時点で上杉は蚊帳の外。むしろ置物の印象を強くするだけ。今回の一件は黒田が景虎に春日山を追い落とされた時点で、長尾景虎のためのものとなる。

 穴はなかった。古志郡にいる彼らが動くことは充分警戒出来ていたが、それにしても早過ぎたのだ。態勢を整える時間すら与えられなかった。

 無いはずの穴が、疾風迅雷の攻めで空けられたのだ。

「このままでは済まさぬぞ、景虎ァ」

 黒田は立ち上がり、

「尾根伝いに、退く」

「……はっ」

 苦渋の決断を、下す。


     ○


 長尾景虎は本丸より立ち上る火の手を見つめながら、元服した日に交わされた兄との会話を思い出していた。

 あの日、兄は神妙な面持ちであった。当然、二人きりの場所。

『この春日山城には当主のみが知り得る抜け道がある。いや、厳密には抜けた先、林泉寺の住職も知るのだが……知るのはその二人のみ、だ』

『まあ、あるであろうな。ない方がおかしい』

『これを何のためと心得る?』

 あの時、少しだけ考え込んだ。この春日山を築いたのが長尾為景でなければ通り一遍の答えしか出来なかっただろう。

 長尾為景、あの父上であればこそ――

『攻め取るための手札、か』

『左様。危機を抜けるための道ではなく、面倒な手間を抜くための道だ。ゆえにこの道を知るのは、春日山を奪い返せる者でなければならない』

『他の兄たちには?』

『伝えておらぬよ。綾にも、だ。だが、虎千代、いや、景虎には伝えた。意味は、わかるな?』

『……おう』

『ならば良し。父上はかつて、関東管領が越後に襲来した時に国を追われ越中まで退けられた。その経験が今の春日山を構築したのだ』

『少し気になってはおった。確かに春日山は山城で大きく、見栄えもする。だが、機能面で見た時に、思ったよりも堅い印象はなかった。特に、様々な城を見てきた後だと、大きさはともかく機能面では見劣りするとまで、思っていた』

『その辺りが父上と他の大名たちの違いなのだろう。堅牢な城は奪い辛いが、奪われたなら相手に大きな力を与えることとなる。逆に柔い城は奪われやすいが、奪い返しやすいのもまた道理。もちろんあまりに露骨では長尾家の面子も立たぬが、幾ばくかの隙を残すことで攻め取りやすくしたのは父の思惑だと思う』

 奪われたなら奪い返す。そのための築城。見栄えばかり気にしていると思っていた城は、その大きさも含めて奪い返すことを考えられた戦うための城であったのだ。堅いだけが城ではない。どれだけ堅牢であろうとも、結局攻城戦では後詰(援軍)を用意出来なければ緩やかに死ぬだけなのだ。

 心臓部である春日山にまで至られた時点で、それが用意できる可能性は低い。ならばいっそ、堅さを捨てると言うのも戦馬鹿らしい選択であろう。

 それが長尾為景の考え。

 そして、

『私の次は景虎、ぬしの番だ。望まぬ地位だとはわかっているが、それでも他の者では務まらぬ。それに、私が落ちると言うことはおそらく、私の考えもまた否定された時なのだろう。であれば、やはりぬししかおらぬ』

 長尾晴景の覚悟。自分が落ちることまで考え、あの時点で景虎に覚悟を促していた。放り投げようとしていたわけではない。

 それは今日、あの道が無事であったことで証明された。

「……使わぬよ、兄上は。例え己が死のうとも」

 長尾為景が築いた取り返せる城を、長尾晴景が引き継ぎ命がけで仕掛けを残し、景虎へと繋げた。彼が道を使っていれば黒田も馬鹿ではない。必ず探し、見出していただろう。そうであればこの速攻、成ることはなかった。

 黒田は安く見た。越後の支配者、長尾家の連なりを。

 黒田は甘く見た。長尾晴景を、長尾景虎を。

 ゆえにこの結果は必然でしかない。

「この程度では済まぬぞ、黒田よ」

 愛する者たちを傷つけ、敬愛する兄の顔に泥を塗り、自分を引きずり出した。一つだけでも許せぬのに、あの男はいくつもの逆鱗を刺激したのだ。

 長尾景虎は嗤う。今、黒田秀忠は顔を歪めていることであろう。絶対に許さぬと鼻息荒くしているかもしれない。だが、これはただの始まりでしかない。

 この程度で済むと思うな。景虎は顔に笑みを張りつけているが、

「…………」

 眼の奥にはどす黒い感情が渦巻いていた。


     ○


 景虎の言伝を以て林泉寺の天室光育に抜け道を教えてもらった本庄秀綱は、本丸を急襲した接敵の瞬間、勝利を確信した。思った以上に少ない手応え、表で堂々陣を張る景虎の存在感あってのことかもしれぬが、またも大当たりした景虎の策、勝利を引き寄せる力に彼らは胸を高鳴らせる。

 だが、それでも飲み込めぬことは、あった。

「清七郎殿、黒田が逃げるぞ! これで良いのだな⁉」

「ああ。それが殿の命だ。本丸を急襲し、黒田を春日山から叩き出す。その上で、絶対に生かせ、と。理由はわからぬが、今はこれでいい」

「飲み込み辛いが、承服するしかない、か」

 長尾景虎の不可解な命令。おそらく仕留められぬだろうが、もし手が届いたとしても殺すな、と本庄秀綱には伝えられていた。ここで殺さねばいつ殺す、と誰もが思う局面だが、何故か景虎はそれを否定し、逃がせと言う。

 何かがあるのだろう。あの怪物には何かが見えている。

 それでも何とも言えぬ後味の悪さがあった。


     ○


 本丸を急襲する部隊の陽動として、林泉寺の僧たちは山の中を移動し敵の一部を引き付けていた。まあ、今は本丸から火の手が上がり、こちらを見ている者たちなど何処にもいない。彼らはただ手を重ね、祈った。

「……虎千代」

 覚明は深く、祈る。今回の蛮行、誰が一番激怒するかなど林泉寺の僧であれば誰もが理解していた。口ではボロクソに言いながら、彼はこの春日山をそれなりに愛していたし、付き合いのある者たちに関しては深い愛情を抱いていたのだ。

 争いの元である己から離れることを喜んでいた節すらあった。その結果が、この戦禍では嘆くことも出来ぬだろう。行き場のない感情は荒れ狂い、戦場に向けられることとなる。黒田一人で留まるはずがないのだ。

「……南無」

 無力と知りつつ、彼らは祈る。

 かつて共に修業した、近しき友のために。

 彼がこの後やらかすであろう蛮行、その一部でも背負わせて欲しいと仏に祈る。あの子がそれを望まぬことは知りつつも、ただただ、祈り続ける。


     ○


 黒田秀忠は春日山から脱出し、自らの居城である黒滝城を目指す。

 長尾景虎は春日山城、その城下にて残存勢力を根こそぎ殲滅し、皆の弔いを済ませた後、悠々と春日山から黒田を追う。

 まさかあれほど足の速かった景虎の軍勢が、ここまでのんびりするとは思わなかった黒田らは、死に物狂いで居城までの道程を駆け抜けたと言う。

 数を減らし、春日山を放棄したことで失った勝利の権利を悔いながら、それでも黒田はこれで負けはない、と笑みを浮かべたという。所詮は青二才、詰めが甘い、と。あとは黒滝城に籠り、上杉の到着を待つばかり。

「……この定実直筆の書面があればなァ、あの男も俺を切り捨てることは出来ぬ。此度の件は治めてもらうぞ、守護殿の手で、のォ」

 黒滝城であれば己の庭。春日山のような見落としはない。ここもまた山城、あの程度の戦力で揺らぐことはない。泰然と受け止め、待てばいい。

 それから三日後、長尾景虎が黒滝城へ現れる。予想よりもずっと遅い到着に黒田は苛立つが、詰め切れなかった若造の限界と心の中で誹る。

 長尾景虎が完全なる勝利を望むなら、何としてでも黒田を春日山で仕留めるべきだったのだ。ここから先、詰みなどない。

 そのはずなのだ。

「ぶはァ」

 そんなものあるはずが――無い。

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