第陸拾漆話:景虎の覚悟
日も昇らぬ内から現れた孫に栖吉城主長尾房景は困った顔をしていた。彼から伝えられた情報は当然、房景も知らぬものであった。おそらく、民が流れ込むような近郊以外では最速の情報伝達であろう。金津義旧の行動には大きな意義がある。
栖吉はおそらく、どこよりも早く備えられる。
「……のお、景虎や。わしらは古志長尾よ。そこはわかっておるな?」
「はい」
「であれば、ここで静観すべきと言うのも、理解出来よう」
頭を下げる孫を前に、房景は道理を説く。ここで古志長尾が単独で動くことはリスクが大きく、メリットは少ない。黒田の背後には上杉がいる、この情報が正であるとすれば必ず、上杉は体勢を立て直し、彼の名の下に兵を募るだろう。
そして、まともに仕合うことなく、黒田が降りて上杉の評価が上がる。いや、それ以上にしてやられた長尾晴景の、三条長尾の評判が落ちる、か。
「わしは上田長尾同様、関東管領が越後へ訪れた際、管領側についた。その後の立ち回りが良かったから上田ほどには言われぬが、本来の考え方は上田と変わらぬ。三条、古志、上田、この三家が並び立つが越後長尾家、よ。あの男は強かったの。関東管領、山内上杉が相手、関東の雄ぞ。誰もあれが勝つとは思わなかった。国を追いやられ、それでも巻き返せるのがあの男の地力であったのぉ」
「今、父上の話は関係ありませぬ」
「あれがおらぬなら、三条が落ち込み古志、上田と並ぶも悪くは無かろう、と言う話だ。今の当主、六郎が器でないとは思わぬ、だが、あの男が持つ力は、継がなかった。暴力的な、局面を引っ繰り返す力。それなくば、どうせ越後はまとまらぬ」
「兄上は使わぬだけかと。力で支配するは、最も容易く、そして先のない道だと考えておるのです。それは俺も、道理と思うております」
「越後では、今の世では、通じぬ道理ぞ」
房景の言葉は正しい。結局、兄を引き摺り下ろしたのはこの国そのものなのだ。黒田が、上杉がやらずとも、誰かが同じことをしたはず。
隙あらば、弱きを見れば、突かずにはいられぬ。
「ならば、俺が立つまで」
「……なんと、申した?」
「俺が、父と同じように、力で支配いたします」
真っ直ぐとした眼で景虎は言い切る。その意味を、わからぬほど孫が愚かでないことは充分理解している房景は、静かに息を呑む。
「元より俺の立場は、兄の次、でありましょう。古志長尾として立つは出来ぬかもしれませぬが、三条と古志の血を分ける俺が守護代なれば、当家にとっても利がある。その道筋であれば、逆に今、俺が動くことに意味が生まれる」
「……兄を、追い落とす気か?」
景虎は小さく首を振る。そして哀しげに微笑み、
「もう落とされておるのです」
そう断言した。
房景はあまりにも大きな分水嶺に――考え込む。確かに景虎の言う通り、彼自身が立つのであればここで動き、名を轟かせることは大いに意味があるだろう。黒田は先代から仕える越後で知らぬ者はいないほどの実力者である。彼を下せば、長尾平六の時とは比較にならぬほどの名声を得ることになるだろう。
しかし守護代ともなれば、少し若過ぎる。
かわいい孫の欲目ではないが、器はある。されど、この若さを越後の国衆、特に揚北衆たちが素直に従うかどうか。
ここでの勝ち方によるだろう。
つまり――
「勝てるか、黒田に?」
「そのつもりで参りました」
「戦力は詳しくわからぬのであろう? 確かに北の、揚北衆の抑えとして栖吉はそれなりの戦力を抱えておる。だが、黒田も有力国衆が一人、あれが一世一代の勝負に出たのであれば、かなりの戦力を集めたと見るのが自然であろう。しかも、あちらは山城、春日山城を手にしておる。普通であれば、三倍、いや、五倍の戦力が必要であろう。城を囲うための戦力も、兵糧も足りぬぞ」
房景の言葉を要約すれば、
「春日山は俺の庭です。必ず勝ちます。例え連中が、一万の戦力を持とうとも」
勝てるか、という問い。
それに景虎は勝てると答えた。迷いなく、澱みなく。
「……吼えたな、小僧」
「この強気は、両親譲りです」
「ぶは、半分はわしのせいだと申すか。この悪たれが」
景虎は微笑んだ後、再度深々と頭を下げる。
自らの判断、その誤りから可愛い娘を三条へ、長尾為景にやる羽目になった。それを悔いたこともあったが、その結果生まれた孫を見て房景は思う。
これでよかったのだ、と。
「最後に一つ問う。わしの腹の内に仕舞う故、虚言なく答えよ」
「はっ」
「ぬしはさほど権力に執着せぬ性質であろう。むしろ、出来ればやりたくないはず。それなのに何故、今こうして頭を下げてまでその地位を取りに行く?」
ここで彼が動くことで情勢は大きく変わる。この後、上杉と三条長尾で越後が分かれ、大きな騒乱が発生するはずだった。上り調子の上杉と下り坂の三条長尾、ある意味勝負は始まる前に、この状況になった時点でついていたのかもしれない。
だが、ここでもし、長尾景虎が黒田ごと上杉の絵図を吹き飛ばせば、構図はがらりと変わる。三条長尾の御家騒動、晴景と景虎の対立となる。これは避けられない。避けられないが、双方が織り込み済みであればある程度状況を制御し、緩やかな着地をすることも可能。争いと呼べるほどのものが発生するかもわからない。
もちろん、晴景がしがみ付こうとすれば泥沼化するだろうが。
(せんな。あの男は)
それぐらいの見極めは房景とて出来ている。おそらくこうなった時点で、晴景は失態の全てを背負い、景虎へ移行する流れを考えているはず。景虎もその気になったのであれば、問題なく当主交代は成る。もちろん、ここで勝てば、だが。
ただ、そうなった理由だけは聞いておきたかったのだ。
彼が望まぬ道へ手を伸ばすに至った、理由を。
「金津は、俺に良くしてくれました。新兵衛の女房は、俺の乳母です」
「……そうか」
ありえない早さで、何故あの金津新兵衛義旧が情報を伝えたのか。何故、その報せを聞きこんなにも非常識な時間に現れたのか。
何故、望まぬ道を征く覚悟が出来たのか。
「出立は昼時と申したな?」
「はい」
「長尾筑前守房景の名に懸け、必ず集めて見せよう」
「ありがとうございまする!」
「ただし、必ず勝て。負けは、許されぬぞ」
「承知の上です」
全てを房景は飲み込んだ。上に立つ者が一番、取り除かねばならぬ情での行動。普通ならば問題外の回答であったが、房景は自然と飲み込んだ。
苛烈なれど心優しい愛娘の息子なのだ。
『……ぬしほどの男が、何故頭を下げる⁉』
『俺では、殺せぬ。ゆえに、古志長尾で引き取って欲しい。それが、越後を治める者として、俺に出来る唯一の……頼む!』
そして、息子一人殺せぬ百戦錬磨の怪物の息子、でもある。
ならば、情で動くも仕方がない。
その情に道理を設けただけ、マシと言えるだろう。
「……無情よな、この世は」
長尾景虎は情によって、最後の一線を踏み越えた。
この選択が、彼の明日を完全に定める。
○
栃尾を父と共に駆け回り、何とか集めた戦力を何とか昼時までに栖吉へ送り届けた本庄秀綱は、其処に広がる栖吉の、いや、古志長尾の戦力に圧倒される。
いち城主が出せる戦力など、本来たかが知れている。二百で上等、百も出せばそれなりの扱いを受ける世界。もちろん防衛戦ではより多くの百姓を農兵として働かせるため、その場での数も増えるが、他の地域へ運ぶなら当然減る。
実際に栃尾程度では防衛戦でもない以上、百が限界。これとて本庄実乃が駆け回り、何とか引き出した戦力である。
それなのに今、栖吉にはおよそ八百近い戦力が集まっていた。
まだ少しずつ増えている所を見ると、栃尾も合わせれば最終的に千近くになるだろう。黒田がどれだけの戦力を用意しているのか定かではないが、野戦であればおそらく充分に渡り合える戦力と言える。
相手がきっちり準備をしての攻城戦となれば、話は異なるだろうが。
「よう集まってくれた。俺は古志郡司、栃尾城主長尾平三である! 皆は知らぬと思うが、先日春日山が奸族、黒田秀忠に奪われた。あの男は卑怯にも守護上杉、そして守護代長尾を大義なく引き摺り下ろしたのである。これ明確な謀反であり、守護への、ひいては任じた公方さまへの叛意と言えるだろう!」
かつて並んだ三家、古志長尾の当主の意地で集めた戦力を前に、長尾平三景虎は朗々と語る。この場において真実などどうでも良い。
重要なのは、
「我々はすぐさま、あの無法者より春日山の地を取り返さねばならぬ。それが同じ越後国に住まう我らの責務であり、使命と言えるだろう。御仏は言った。正しき行いをせよ、と。神は言った。正義を成せ、と」
彼らに今から行うことがどれだけ正しく、成さねばならぬかを伝えること。事実を曲げても、今この瞬間彼らの士気がぶち上がればいい。
「これは正義の戦、聖戦であるッ!」
「ウォォォォオオオッ!」
栖吉で、いや、古志郡で長尾平三景虎の名を知らぬ者はいない。短い期間だが一度も土つかずの戦歴は、嫌でも父であるあの男を彷彿とさせる。
積み上げた実績と、信心深いとの噂。
その上で掲げるは正義、である。
「悪を討つぞ! この俺に、長尾平三について来いッ!」
大歓声が上がる。初陣の頃よりも実績が増した分、声の通りも良くなった。正義や大義は耳障りが良く、何よりもその立ち振る舞いが彼らを奮い立たせる。
ただ立つだけで漲る力。己が勝つことを微塵も疑わぬ眼。
元々存在した実力に実績が重なり、一年前よりもさらに手が付けられなくなった。彼を知る者でその実力を疑う者はもういないだろう。
そして本庄秀綱は今の長尾景虎を見て確信した。
この戦の後、長尾景虎の名は越後全体に深く刻まれることになる、と。
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