第陸拾陸話:逆鱗

 時は遡り、古志郡の栃尾の館では夜半、長尾景虎と甘粕持之介は就寝前の碁に興じていた。まあ景虎が嗜みだと言って教えたがり、本人は眠たいのに引きずり回されている構図である。文が嗜めるも聞く耳を持たないのはさすが唯我独尊男。

「九子でも弱いのぉ」

「もう集中力が途切れているのよ。半分寝てるでしょ」

「これ、起きんか持の字」

「やめんか!」

 スパン、と文に頭を叩かれ、不満な様子の景虎。その間にも持之介は睡魔に飲み込まれ、首はかくかくよだれもたらーんと垂れ始める。

 どう見ても限界であった。

「毎晩持之介を無理して付き合わせて。子どもは寝るのも仕事でしょ」

「むぅ。しかし俺は日中忙しいから夜しか遊べんぞ」

「遊ばなくていいでしょ。いい大人なんだから」

「……寺暮らしが恋しいのぉ」

「寺で夜遅くまで起きているのはあんたぐらいよ」

「ぶはは、確かに」

 景虎は意識を喪失した持之介を見て、おもむろに手を伸ばした。だらんと垂れた首、其処に垂れ下がる頭に二つ実るはつきたての餅が如しほっぺ、である。

 それをつまむ。そして弄繰り回す。

「……俺は持之介の名は餅から来とると思うぞ」

「普通に考えて甘粕家の通字でしょ」

「いーや、餅だ。触ってみよ。このモチモチ具合、たまらんぞ」

「……いいわよ、別に」

「遠慮するでない。と言うか持の字から聞いとるぞ。碁で負けると頬を撫でまわされる、と。不快げであったのぉ。可哀そうな持の字よ」

「ご、合意の上だから。そもそも告げ口自体が武士の風上にも置けないわ」

「……ろくな大人ではないの」

「お互い様でしょ」

 そう言って二人して睡魔に敗れ去った持之介の頬を撫でまわす。男のくせにけしからんほっぺだ、と景虎は思う。文も思う。

 こんなもの触らない方が難しいだろう。

「絹より手触りが良いぞ。これで一儲けできるのではないか?」

「させません」

「商才のない女め」

 少し前、稲刈りの前までは春夏は古志郡の内乱鎮圧に八面六臂の活躍。連戦連勝の武将として頭角を現している男、景虎。

 されど、こうして持之介のほっぺを楽しそうに弄り回す一面も持っていた。文は思う。時代が違えばきっと、戦場での鬼気迫る男はいなかったのではないか、と。平穏の中、普通に女房をこさえて、普通に自分の子どもを愛する。

 只人として生きていたような、気がするのだ。

「ぶはは、餅はこうしてくれる」

「むぎゅ」

「やめなさいって」

 戦が無ければ、こんなにも穏やかなのだから。

 だから、このまま世が治まれば――

「……?」

「どうしたの?」

「ふん、客だ。表で気配がする」

「こんな時間に?」

「招かれざる、だ。野伏か、それとも乱破か」

 こんな貌する必要もなくなるのに、と文は思う。

 争いが近づけば豹変する顔つき、気配。あれだけ安心し、睡魔に飲まれていた持之介も、その獰猛な気配だけで目を覚ましてしまう。

 景虎は笑みを浮かべながら太刀を持ち、館の玄関に向かう。

「この俺の館に忍び込もうとは。ぶはは、男気は買ってやるぞぉ」

 栃尾、いや、栖吉も含めた古志郡に住む者であれば、長尾景虎の力を怖れぬはずがない。余所者なのだろうか、それにしても不運なこと。

 一番手を出してはならぬ者の巣に手を伸ばしてしまったのだから。

「さて、誰、ぞ……」

 『掃除』が大変だ、と文は首を振りながら追従する。さほどかからぬ内に決着はつくだろう。彼が負けることなど想像もできない。

 彼が迷い、斬らぬことも想像できない。

 嬉々として狼藉者を斬り伏せ、それで御仕舞。だから、逆に何事かと思ってしまう。景虎がその人物を見て、斬らずに手を止め、あろうことか狼狽えている。

 文もまた景虎と対峙する男を視認する。

 男は血や泥にまみれていた。着物履き物はボロボロ、若干異臭が漂うのは小便することを厭わず、ただただここまで駆け抜けてきたためか。

 息を切らせ、今にも死にそうな表情。

 文にはわからなかった。

 その男が――

「何をしておる、義旧」

 自分も面識がある金津新兵衛義旧であることが。

 それほどに変わり果てていたのだ。髪は乱れ、抜け落ち、眼は落ちくぼみ、以前挨拶した時よりもずっと痩せ、老けこんで見えた。

 金津自体、それなりの歳ではあるが、これではただの老人であろう。

「へ、いぞ、う、様」

 息も絶え絶え、満身創痍の彼はひざを折り、額を地面に叩きつける。

「何をしておる⁉ まずは息を整え落ち着かんか!」

「か、すが山が、落ち、ました」

「ッ⁉」

 突然、信じ難い報せを聞き、景虎は息を呑む。

「実行は、黒田。されど、裏には、上杉が、おりまする」

「……そういうことか」

 黒田はともかく、上杉が絡んでいるのであれば絵図もわかりやすい。その時点で景虎は大体も構図を掴んだ。兄上の危機であり、越後が荒れると言うこと。

 今更ではあるが、何処も戦が大好きなようである。

「状況は理解した。ぬしのおかげで早くに知れたのだ。明日には動き出し、栖吉の爺様にも頼み、兵を出そう。しかし、それでこの有様か。ぬしはほんに忠義者であるのぉ。そんなに慌てずとも何とかなるであろうに」

「違い、ます。私は、不忠者で、あります」

「……何を言って――」

「私は、許せぬのです! このまま、彼らの思惑通りとなれば、黒田は生きる。それが、許せぬから、御屋形様の申しつけを捨て、今、ここにおります」

 黒田が生きる。この戦自体が長尾家の面子を潰すためのモノであれば、確かにそうなるだろう。仕掛けさせた時点で、そういう密約はしているはず。

 問題なのは――

「……ババアは、どうした?」

「……ッ」

 それで彼がここまで狂乱することに、ある。

「答えぬか、義旧」

「……私が館へ赴いた時には、すでに」

 そして景虎は、狂乱の理由を知る。ふらり、父を失った時と同じくらいの、自分の中で大きな何かが欠けた、感覚。

 心が、張り裂け、その分、研ぎ澄まされる。

「私は、武士です。自分が死ぬことは、いい。覚悟しておる、つもりでした。ただ、どうにも覚悟が、足りなかったようです。女房を、息子を、失ったぐらいで、私は、耐えられなかった。武士失格です。あまりに、無様。笑って下され、虎千代様」

 自分に武士の生き方を教えた男が、捨てた幼名で己を呼ぶ。

 狂い、惑い、ただ一心不乱にここまで来たのだろう。

「俺がぬしを笑うかよ」

 汚い格好の義旧を慈愛に満ちた所作で抱きしめる。

 俺がいるぞ、と伝えるように。

「願いを申せ」

「黒田を、殺して、くだされ」

「承知した」

 景虎は優しく金津の、幼き頃より良くしてくれた恩人の肩を叩く。案ずるな、其の方の気持ち、この景虎が十全に汲み取った、と。

 そして景虎は、二人に背を向けたまま、

「文、着物の用意と湯を沸かしてやれ。持之介は湯で体を洗ってやってくれぬか? 眠たいだろうが、頼む」

「承知しました!」

「助かる」

 二人に表情は見せない。見せられない。

「しばし、留守にする」

「……御武運を」

「おう」

 そう言って長尾景虎は一人、夜闇の中飛び出して行った。

 玄関では、金津義旧の慟哭が響き渡る。恥ずべきことだとわかっている。幼き日より世話をしてきた相手にこの醜態を晒すのは、武士として長年生きてきた彼には、それこそ自らの死よりも苦しいことであっただろう。

 彼にとってはそれだけのことであったのだ。

 失って初めてわかる、重さ。

「申し訳、ございませぬ。申し訳ございま、せぬ」

 武士としての生き方に反した、愚行であった。御屋形様、晴景の命令は古志郡全体の戦力を整え、あちら側と協調し春日山を奪還すること、であっただろう。その意に反し、景虎を泣き落とし、激情を駆り立て、我が意を通す。

 まさに不忠者、武士の風上にも置けぬ存在。

 わかっていても、気づけば駆け出していた。わかっていても、この場で頭を下げ願ってしまった。わかっていたのだ、自分がそうすれば彼は絶対に断らぬと。

 そこに付け込む、己の醜悪さが、憎い。

「お、おおお、おおおお」

 全てがない交ぜになり、男はただ慟哭する。


     ○


 鐘の音が鳴り響く。炎がメラメラと天を衝く。

 田んぼの近くに休憩所代わりの木陰として残されていた大きな木。それに火をつけた男は巨木の下で座す。殺気を漲らせた眼が、闇夜に輝く。

 何事かと本庄親子が駆けつけてくる。

「殿⁉ これは、いったい」

「実乃、栃尾の戦力を集め、すぐに栖吉へ向かわせよ。目標は春日山だ。栃尾の戦力を率いるは秀綱に任せ、ぬしは栃尾城の留守居として働け」

「春日山、ですか? 何故?」

「黒田めが春日山を襲ったそうだ。詳しいことは明日、俺の館におる金津新兵衛より話を聞け。ことは一刻を争う。真偽を確かめる暇もない」

「黒田、黒田秀忠殿ですか? そのようなこと、あり得るのでしょうか?」

「金津を疑うか?」

「そ、それは」

 実乃、そして息子の秀綱、二人は自身の主、景虎の雰囲気に気圧されてしまう。いつも、戦場では確かに怖いぐらいの圧があった。

 だが、今のこれは、その比ではない。

「今から戦力をまとめ、早朝栃尾を出ろ」

「それはさすがに、いくら何でも難しいかと」

 もう夜も更け、ほとんどの者が寝ている時間である。それを叩き起こし、戦場に向かわせる準備をしろ、など無茶ぶり以外の何物でもなかった。

「出来るかどうかは問うておらん。俺はやれと命じておる」

 しかし、景虎は有無を言わせない。

 実乃は対峙する男の圧に、長尾為景を思い出してしまう。ただ、それはかつての若輩であった己と円熟した為景の差がもたらしたもの。

 それと同じ感覚を今の己が感じるとは、どういうことか。

「俺は今から栖吉に向かう。爺様から戦力を引き出し、明日の昼時には栖吉を発つ。当然合流はその前だ。急げよ、遅れは許さん」

「承知、致しました」

「父上⁉」

 承知せねばこの男、何をするかわからない。実乃は抜かれてすらない太刀に目をやり、額に脂汗を浮かべる。戦場での活躍は知っている。息子から初陣の、そして長尾平六討伐の際、圧倒的であったことも聞き及んでいた。

 だが、違う。今のこれはもう、実乃すら未体験の領域。

「任せる」

「はっ!」

 今のこの男を前にして、肯定以外の言葉が発せられる者がいるのなら、お目にかかりたいと実乃は思う。その瞬間、首と胴は分かたれているだろうが。

 抜き身の長尾景虎。

 何故ここまで荒れ狂っているのかはわからない。だが、一つだけわかることがあった。普段自由奔放に、横柄に振る舞い、好き放題しているように見える男だが、その実しかと『己』を鞘に納めていたのだ。

 彼らは今日、初めて、抜き身の景虎を知った。

 栖吉に向かい、一人去っていく景虎の背中を見て二人はようやく息を吐く。

 呼吸を忘れてしまいそうなほどの怒気。まともに顔を見ることも出来なかった。ただただ、彼らは圧倒されてしまった。

 齢十六の若輩相手に、である。

「……父上。相手は春日山を奪った戦力です。栃尾、栖吉を合わせたところで、届き得るでしょうか?」

「わからん。だが、私には春日山で、今の殿が敗れる姿を想像出来ぬ」

「……そう、ですね」

 まだ越後の誰も知らぬ春日山陥落の報せ。それこそ春日山近郊の者しか知り得ぬ情報である。それが期せずして長尾景虎の下へ入った。

 恥も外聞も捨て、人相が変わるほどに全力で、栃尾まで駆け抜けた金津義旧。彼の願いに呼応して、誰よりも先んずると動き出した長尾景虎。

 全てが噛み合い、歴史が動き出す。

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