第伍拾玖話:婚姻
天文十四年(1545年)、ここから数年の間、まるで見計らったかのように時代を彩る英傑たちの転機が訪れる。良くも悪くも、彼らは様々な経験を積み、力を蓄え、より高く、強く、羽ばたくことになる。
先陣を切るは信濃守護、小笠原の支援を取り付けた高遠ら連合軍と衝突した甲斐武田。野心と力に満ちた若き俊英を古豪、高遠はどう捌くか。
また俄かに暗雲立ち込め始める北条を中心とした関東の情勢。未だ手元を見せぬ今川義元の策略が水面下にて、ゆるりと進行していた。
畿内もまた争いは絶えない。その中心に立つはこれまた若き野心家、三好範長。仇敵を討ち滅ぼしたばかりだが、彼の歩みは留まるところを知らない。当然、畿内の実力者たちが黙っているわけもなく、敵味方入り乱れ政争と戦争を繰り返す日々。そんな薄氷を軽妙に渡るバランス感覚こそ、この怪物の真骨頂。
誰が滅び、誰が生きるか、まるで先行きの見えぬ状況。
そんな状況下だが、越後の状況は小康状態、と言ったところであった。先年、栃尾城主長尾景虎を若輩と侮った長尾平六が仕掛け、見事に返り討ち。敵対した豪族全てを打ち倒し、長尾本家への恭順を誓わせた若き俊英の名は越後に轟いた。
為景を失い、長尾家を揺さぶるならここしかない、と思っていた者たちも二の足を踏むほど、長尾景虎の戦は苛烈であり嫌でもあの男を彷彿とさせた。
怪物、長尾為景。若き日の彼、豪腕でねじ伏せ続けた圧倒的力。
説明できぬ、勢い。
「寝た虎を起こす馬鹿はおらん」
「古志長尾で収まってくれるなら、それが一番良いのだ」
「またかつての三家並び立つ世が来るかもしれぬぞ」
「二家、であろう?」
「くく、確かに」
本家とされる三条長尾、景虎が継ぐであろう古志長尾、そして力はあれど日増しに影響力を失いつつある上田長尾。特に景虎が名を馳せたことで、古志長尾の存在感が増し、相対的に上田長尾が陰る。
一時は守護上杉の野心に呼応し、昇って来るのでは、と思われていたが、たった一年、古志長尾の景虎が実力を示したことで、その話自体薄れ始めている。
結局は三条長尾、そしてそれを支える古志長尾。
誰だって容赦のない相手と戦うなど嫌なもの。結果として景虎の戦は抑止力となる。本人にその狙いがあるのかどうかはわからないが。
とにかく今は、小康状態。
となればやるべきことは――
「すまぬな、綾。私の力不足で随分長引かせてしまった」
「いえ。私はこの、春日山が好きですので」
「……そうか」
長尾晴景と長尾綾、二人が向き合って話をしていた。
「何の話か、わかるね?」
「はい。私も、武家の女ですので」
「……上田長尾。こちらに嫁いでもらおうと思う。長尾新五郎政景、歳は綾とは二つ違い。若く才気あふれる上田長尾の次期当主だ」
綾の頭の中で記憶がふわふわと浮かび上がる。父の葬列に参加していた、どうにもいけ好かない男。上田長尾と言えば、たぶんあれである。
「……わ、わかりました」
「ん、そう言ってくれるとありがたい。先方にはすでに話を通してある。あちらも喜んで綾を迎えたいとのことだ。時期はまだ確定していないが、近い内に、と言う話になっている。心の準備だけはしておいてくれ」
「……はい」
長尾綾、数え年で十八歳となる。現代で言えばまだ早く思えるが、当時としては若干、と言うかかなり行き遅れている。本人が乗り気でないこともあるし、幼き頃のやんちゃっぷりが広まっていたこともあったが、最大の理由はここ数年の長尾家自体にある。婚姻を結ぶとなれば家同士、かなり強く繋がることになる。本来、守護代である長尾家との繋がりは歓迎すべきだが、昨今は当主交代のごたごたがあり、皆長尾家との付き合い方を模索していたのだ。
婚姻を結ぶと言う明確な立場表明をしたくなかったのだろう。
結果としてここまで長引いてしまったのだが――
「綾がいなくなるとここも随分寂しくなるね」
「…………」
もはやこれまで。年貢の納め時、である。
○
「嫌だ嫌だ嫌だ! 結婚したくなーい!」
先ほどまで殊勝な感じで結婚を了承していた綾であったが、少し経った今、安住の地である金津館に転がり込むと一転、凄まじい勢いで転がりながら駄々をこね始めたのだ。数え年で十八、現代でもそれなりの年齢であるというのに。
「はしたないですよ、綾様」
「ねえねえ、金津は私が嫁ぐの、寂しいでしょ?」
「それはもちろんです。でも――」
「兄上もそう言ったのに、それなのに、なんで上田長尾なのよ! あんちきしょう、虎千代に対して嫌味言ってたし、顔はそこそこだけど性格に難あり。なんかこう、もやっとする感じなの。わかる?」
「御屋形様が決められたことですよ」
「うがぁぁぁあああ!」
綾、抗議の意を全身で表す。まあ表す相手が金津の女房では何の意味もないのだが、だからこそ見せられるという側面もある。
さすがに晴景の決めたことを無下にするような姿、彼女以外に見せられるわけがない。今の春日山は中々難しい状況が続いているのだ。
綾もそれぐらいの分別はある。
「私さ、この前大熊殿の首根っこ引っ捕まえて、稽古をつけてもらったの」
「初耳ですが、またとんでもないことをされて」
「いいのいいの。あの人はほら、虎千代派だしすっきりした武人だから、困った顔をしていたけどね。強引だったけど、真摯に向き合ってくれたんだ」
「それは良かったですね」
その言葉を聞き、綾は顔をくしゃりと歪める。
「あの人、嘘つけないから……褒めてくれてたんだけど、全部女性にしては、だって。で、虎千代と比べてどう、って聞いた」
「……それは」
「難しい顔をして、でも、嘘は付けないから……最初にお会いした平三殿よりも少し、劣る、だってさ。結構自信あったのに、七歳か八歳の虎千代にも、私は劣っていたの。全部私が教えてあげたのにね。弓なら、まだ負けないつもりだけど」
悔しそうに手で顔を覆う綾。
「あいつも悪いよね。チビの頃から口も悪いし態度も最悪なのに、妙に気が回る奴でさ。林泉寺に入る前から、剣は一緒に稽古しようとしなかった。弓の気分だって。今更、それが気遣いだったって、気づかされた」
「根は優しい子ですから」
「……本当に、姉上思いの愛い奴よ。泣いちゃいそう」
金津は綾の頭を膝の上に置いてやる。
「女は損ですね。私も、よく思いますよ」
「うん」
「虎千代、平三殿もいなくなって、ここも随分寂しくなりました。もう久しく琵琶も弾いていません」
「うん」
「私も昔は、金津に嫁がされると聞いて嫌だ、と思ったものですよ。家格は高いと言っても城は持っていませんし、所詮は客将、なんて」
「うん」
「でも、嫁いでみたらいい人でね。惚気になってしまいますけど、とても幸せでしたよ。息子も立派に育ってくれましたし、もう一人のやんちゃ坊主も、いつの間にか大きくなって今じゃ城主様、ですものね」
「うん」
「最後の一人がいなくなるのは、とても寂しいわ。だけど、それと同じくらい嬉しいの。大丈夫、綾様は強い子だから、何処でも幸せになれますよ。嫌なことがあれば尻に敷いてやればよいのです。綾様は長尾本家の出、強気で行きましょう。耐えられなければ離縁するだけのこと。大したことではありません」
「うん」
頭を撫でられ、涙を滲ませながら綾は微笑む。
「ご結婚、おめでとうございます」
「うん」
虎千代の乳母、最初はそれだけの繋がりだった。虎千代とは母も違うし、彼女との関係性は希薄だったが、虎千代を介してここまで長く、本当に長く、彼女はここに在ってくれた。虎千代の、そして自分の逃げ場として。
「そう言えばこの前、平三殿から文が来ましたよ。あと文様からも」
「なんて?」
「田植をしたこと。稲刈りをしたこと。持之介で遊んだこと。あれだけ戦で活躍したのに、ふふ、そんなことは一行も書いてありませんでした」
「あはは、変わらないなぁ」
「文様は田植をさせられたこと。稲刈りもさせられたこと。持之介が中々懐いてくれないこと、など暗い感じの文面でしたね」
「うわぁ、惚気だ惚気。もう結婚しちゃえばいいのに」
「ふふ、そうであれば、とてもいいですね」
「うん。世の中私みたいに政略結婚ばかりだし、たまには、そういうのもあっていいと思うんだよね。好きな者同士がくっつく、みたいな」
「そうですねえ」
「あ、また泣きそう。頭撫でて」
「はいはい」
綾は母を早くに亡くしている。元々、兄晴景と同じ母であり少し高齢であった。綾を生んだことが理由かはわからないが、母の記憶などほとんど残っていない。乳母のことは覚えているが、あまり近しい関係ではなかった。
ここまで近しい関係の女性はいない。
母のように、思っていた。
「上田荘にも遊びに来てね」
「あの人に頼んでみますね」
「絶対だよ」
「はい、約束です」
なかなかこのご時世、女性が動くのは難しいだろうけど、それでもいつか会えると思えば少しは気が楽になる。文も送ろう。
虎千代たちにも――そうすれば少しは紛れるだろうから。
何があっても、大丈夫。彼女は母の膝の上で、心の準備を終えた。
○
「守護殿には悪いが、景虎がいる以上、無駄な野心を抱かぬ方が良かろう」
上田長尾家当主、長尾房長と嫡男、長尾政景が向かい合う。
「……はい」
「まさか末弟が、あの男の血を色濃く継ごうとはな。今は三条の血を入れ、順番待ちをするしかあるまい。なに、悪くない順番であるぞ。三条、古志、上田、これで次世代、血の上では並び立つことになる。都合良し、だ」
房長はかつて、関東管領上杉顕定が越後に侵攻してきた際、為景に反旗を翻し敵についたことがある。その時は関東管領の力もあり、打ち破ることが出来たのだが、為景が復権、圧倒的な力の前に関東管領は潰され、房長も降伏した。
あれ以来、思い出すたびに震えが止まらなくなるのだ。
如何なる危機も乗り越え、その度に力を高める怪物の姿が、焼き付いて消えない。
「要らぬことを考えるでないぞ」
「……はい」
不服げな息子を見て、房長はため息をつく。無駄に器量よしであったため、政景は妙にプライドが高過ぎるきらいがある。
実際に親の欲目か、優秀であるとは思うが――
(為景のような怪物では、無い)
それでも房長は断言する。息子があの怪物と比肩することはない、と。どちらにせよあの手の輩は黙っていても時勢が引き上げる。
証明は時間の問題。
目下の分岐点は景虎が伊達か、そうでないか、である。
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