第伍拾漆話:景虎の戦

 本庄清七郎秀綱は眼前の光景に驚愕していた。

 決して栃尾の民は弱いわけではない。あれだけ士気を高めればある程度働きもするだろう。ただ、それでも本庄らは宣戦を維持させるのは困難だと思っていた。第一に指揮を執る武士の比率、景虎側はそのほとんどを本庄に預けた。相手はよその土地を襲いに来た以上、それなりの武士を揃えてきているはず。

 事前にどれだけ士気を高めたところで、戦線が崩れたならそんなもの簡単にへし折れる。さらに数の上でも不利を背負い、総大将も初陣とくれば、期待しろと言うのが無理な話。あまりの惨状であれば景虎だけを救い出し、撤退することも彼らは視野に入れていた。だが、結果として――

「殺せェ!」

 その景虎が先陣を切り、中央を支え戦線を維持していた。いち武将が鼓舞するため最前線に立つことはこの時代でもままあるが、それが次期古志長尾家当主ともなれば話は別。ましてや初陣、普通なら戦のイロハもわからぬはず。

「我らも続くぞ!」

「応ッ!」

 本庄は先んじて景虎から武士団を率い、戦場を迂回しながら敵後背より奇襲せよ、という指示を受け取っていた。数に劣る方が戦力を分散するのは愚策だと本庄は思っていたが、結果を見れば景虎がそうした理由など一目瞭然。

 あそこに自分たちがいれば、二十人ほど戦線を支える兵士が増えただけであっただろう。多少戦線の維持は楽になるが、それだけ。

 景虎に煽られ、鬼気迫る表情の百姓らほどに働けたかもわからない。

 しかしこうして切り離し、飛び道具として扱えば――

「後ろだ!」

「なんだと⁉」

 本来劣るはずの相手に善戦され、面食らっている彼らを揺さぶる最上の一手となる。全ては己が矢面に立てば、戦線を維持できると踏んだ景虎の目算。

 勢いだけであの場にいるわけではない。短い期間だが常日頃から準備を重ね、その上で己の力を十全に振るい、驚異的な力を引き出しているのだ。

「殿に後れを取るな!」

 本庄らは馬から降りて、槍を、太刀を構えて敵後方、少し斜めから突っ込む。景虎の圧倒的な個人技とて、見慣れてしまえば人間一人。冷静さを取り戻してしまえば何とかならないこともない。古今、戦場で剣豪と呼ばれる人種が活躍したことなど無いのだ。独力には限界がある。それは彼も重々理解している。

 だからこそ、

「我が名は本庄清七郎、推して参る!」

 自分たちを彼は用意した。

「押せ押せ押せ!」

 敵に冷静さを取り戻させぬための奇襲。その上でそれを武士で固めたのは百姓らに比べ実力があり、敵深く切り込んでもある程度生存が可能だから、であろう。撃ち込んだ楔があっさりと逸したのでは逆に相手を勢いづけることになる。

 そして、実状がどうであれ旗色が悪いと敵方の末端に思わせたなら、

「も、もうやってられん!」

 その戦場は勝つのだ。

 この戦場の構図は侵略者対守護者。守る側は後に退けぬが、攻める側には退き先があるのだ。ここに戦場の綾がある。

『後ろを塞ぐ形は避けろ』

『何故ですか?』

『逃げ場を失えば覚悟が定まる者も出て来るだろう。そうなればこちらの地の利は失われる。常に敵方の思考を誘導することで、俺たちが敵方を動かすのだ。逃げ道を作り、敵方の退路を設けておいてやれば――』

 全ては景虎の掌の上。

「……自然と敵は逃げ出し、数の利は失われる、か」

 本庄は笑うしかない。自分とほとんど変わらぬ、それどころか一つ、二つ下の人間が、こうも巧みに戦場を支配して見せたのだ。

 それも初陣で。

 敗走しだした者を咎める声が響く。だが、こうなればそれすら逆効果。戦場全体に不利を告げるようなもの。前線を想像以上に持たせた手腕と、寡兵による奇襲、俯瞰して見ればなんてことはない。

 立て直せば敵方の方が依然、優勢なはずなのだ。

 全員が冷静で、全員が戦場を俯瞰できるとするならば、だが。

「追撃せよ!」

 景虎の声が戦場に轟く。まだ、追撃するような段階ではない。それほど大きな人の移動は起きていないにもかかわらず、あえて今、この機に景虎は叫んだ。自分たちが勝った、と。あとは逃げる者を追うだけだ、と。

 勝負は決したと、言い切った。

「こ、小僧が!」

 堰を切ったように敵方が敗走を始める。こうなってしまえばよほど皆からの信頼を集め、強さを示し続けた者でなければ立て直せない。

「か、景虎ァ!」

 せめてこの男の首だけは、と槍を握り突っ込んでくる武士を一瞥し、槍の突きを半身になって脇に抱えこみ、力ずくで引っ張り槍を奪い取る。相手を蹴って、距離が開いたところで槍を放り投げ、突き立った頃にはもう視線は他所に向く。

 太刀は片手操法、槍で突かれようとも刀で斬りかかられようとも、全てに対応するための技術である。成長し、力も備えたからこそ、武士の戦いが出来る。

「蹴散らせェ!」

「ウォォォォオオオオ!」

 力強い声が敵に畏怖を与え、味方に力を与える。

 緻密な思考を下敷きとしながらも、先陣を切って士気を高めるという立場からすると考えられない戦術を採用する二面性。

 初陣の時点で長尾景虎の戦は完成していた。と、後に重臣となった本庄清七郎秀綱は言い残す。知恵と矛盾に塗れた、彼にしか出来ない戦。

 これぞ、長尾景虎の戦である。


     ○


 本庄実乃らが栖吉の兵を率いて戻った頃には全ての片がついていた。敗走が始まった敵方を可能な限り追撃し、より多くの命を奪った。

 逃がすように仕向けたが、追わぬとは言っていない。想定よりも人員の損耗が少なければ立て直すかもしれぬし、その行動自体は称賛されてしかるべきであろう。ただ、敵方の死体を薪にくべ、その炎を囲み民と宴に興じている様は、さすがの実乃も息を呑むしかなかった。行動の苛烈さもあるが――

「……秀綱」

「開戦前から文殿らに準備をさせていたそうです。初めから絶対に勝利するという確信が無ければ、やれぬ芸当でしょう。大した御方ですよ、殿は」

「そうか」

 息子の彼を見る眼を見れば、この場の空気を見れば、嫌でもわかる。

 今回、長尾景虎は敵も倒したが、味方も支配してのけたのだ。土地を守り百姓の心を掴み、武威を示して武士の心も掴んだ。

「御屋形様のおっしゃられていたことが、ようやく骨身に染みた」

 実乃はあらかじめ、御屋形様である晴景から景虎の下に付くに当たり、色々と言い含められてきた。その多くは取り扱いの難儀さ、問題な所ばかりであったのだが、何故重用されるのかと問うた時、彼は大笑いして、

『見た方が早い』

 と悪戯っぽい表情をしていたのだ。

 おそらく大勢が知らぬだけで、近しい者には幼少期から才覚を示していたのだろう。自分で言うのもあれだが、重臣であり実力者の本庄実乃を下に付けると当主が判断した時点で、彼らの眼にはこの光景が映っていたのかもしれない。

「おう、実乃。遅かったな」

 息子と話していると、瓢箪で酒を飲みながら上機嫌の景虎が近づいてきた。

「これでも飛ばして参りました。見事な勝ちっぷりだったそうで」

「ぶはは。ジジイも慌てたことだろう。これだけ早く戻って来れるなら、くく、城に籠っても面白かったかもしれんが、籠城は好かんのでな。許せよ」

「結果を示した殿に小言は言えませぬ」

「たまには素直よな」

 ぶははと大笑いする景虎。そしてぎゅるんと視線を移し、

「おい、秀綱も飲んでおるか? あにぃ、そんなに強くないだと? それでもぬしは武士か? おおん? ついて来い、俺が酒飲みの何たるかを教えてやる」

 至って平静な秀綱を睨む。

「は、はい」

 現代であれば重大なコンプラ違反、アルハラだが、当然この時代にそんな言葉は無いし、上司よりも力が強い城主に勧められては断ることなど出来ない。

 哀れ、本庄秀綱はアルハラ城主に引っ張られていく。

「おお、そうだ。言い忘れておった」

 そんな景虎が本庄に視線を向け、

「敵方は長尾平六。上田長尾に滅ぼされかけた見附らへんの小さな長尾だ」

 捕らえた兵から吐かせた情報を告げる。

「……それが何故、こちらに」

 ならば栖吉の古志長尾に、三条と古志の血を継ぐ景虎に牙を剥けるのは筋道が立たない、と実乃はいぶかしむ。

 その様子を見て景虎はケタケタと笑い、

「つまり、裏に誰かおると言うことであろう? 私怨ではない以上、のぉ」

 意味深なことを言い残し、秀綱を引きずって酒宴に戻る。

「……今はまだ断定できぬが」

 取り急ぎ、実乃がやるべきは栖吉に無事を報告すること。そして御屋形様である晴景にことの経緯を伝え、対応を仰ぐこと。

「雲行きは怪しくなってきたが、こんな状況下でもこれだけの御方が生まれ出でるのだ。越後も捨てたものではない、のかもしれぬな」

 あとは民衆が勝手に広めてくれるだろう。噂話は千里を駆ける。長尾景虎が初陣を飾り、敵方の死体を焼いて酒宴を開いた。

 その逸話は民へ、そしてそれ以上に越後の武士たちへ、大きな衝撃を与えることであろう。揺らぐ長尾家にとって、これは久方ぶりの吉報である。

 栃尾に長尾景虎あり、と。


     ○


 春日山の晴景は本庄実乃から報せを受け、小さく拳を握った。今の長尾家の状況を想えば、籠城して臆病者と誹られるのもきつかったところで、景虎が見事野戦にて数で勝る相手を下したのだ。ここ春日山にもすでに風の噂は届いており、敵方の兵力が五百から千、千から万に膨れ上がっている所である。

 あの小鬼が成長し、大鬼に化けた、などと言う者も出てくる始末。

「長尾平六。彼らだけで五百は動員できまい。周辺豪族も手伝っているのであれば、必ず裏に何かが潜んでいる。守護殿、もしくは……上田長尾」

 むしろ後者の方があり得る、とまで晴景は見ていた。あえて彼らを選ぶことで、上田長尾は無関係だと言っているように見える。

 少し露骨であるし、確証はない。

「下郡への警告も兼ねて、景虎には働いてもらうか」

 実績を積むには丁度いい相手である。もちろん腐っても長尾家、落ちぶれたとしてもそれなりの実力はあるだろうが、栖吉とも良好な関係を築いている以上、まず負けることはない。懸念すべきはやり過ぎることぐらいだが――

「無用な心配だな」

 晴景は頭に過ぎった考えを一蹴する。景虎は幼少期から言動や行動すべてがぶっ飛んでいるように見えて、裏ではきちんと考えて行動している子であった。

 今回の件も、長尾に対し弓を引けばどうなるか、を示すための行動であろうし、やり方は父に似て好ましくないが、効果的なこともまた事実。

 自分に足りぬ所を補おうとしてくれているのだろう。

「頼りない兄ですまぬな」

 今は自由に動ける景虎に働いてもらう。

 その間、自分が裏を探る。


     ○


 晴景からの命を受け、長尾平六討伐の任に就いた景虎であったが、まずは田植が大事と女装して甘粕共々田植に従事した。今回は長尾家重臣、直江のお嬢様である文も引き連れ、ついでに秀綱にもやらせる横暴っぷりを極める。

 そんなこんなでえっちらおっちら田植をした後、

「では参るか」

「はっ」

 栖吉、長尾房景協力の下、長尾平六討伐に向かう。

 そして、当たり前のようにいくつもの勝利を重ね、

「我ら本家に永劫従属するか、そっ首叩き落されるか、好きな方を、選べェ」

「……お、お許し下され!」

「わかればよい。わかれば、の」

 長尾平六及び、近隣の不穏分子である豪族らを平定してのけた。

「栃尾に戻ったら稲刈りぞ」

「は、はい」

 それら全てを稲刈りの前に終わらせた、と言う。

 長尾景虎強し。その報せは、瞬く間に越後中に広まることとなる。

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