第弐拾捌話:すったもんだ

 ただただ、圧倒された。

 今川館にて武田信虎、もとい無人斎道有を交えて会食をしたのだが、何故か女性を演じる虎千代も別室ではなく同席させられ、酌などを依頼されることもなくただ箸を進めた。食事内容は贅を凝らしたもので、公家と武家の良い所を取ったような内容であったのだが、錚々たる顔ぶれゆえに味がしなかった。

 女を見ると鼻を伸ばし、お尻に手を出してしまう信虎などは、父に似ていると思っていたがそうでもなさそうで、それでもただそこに在るだけで空気を圧する雰囲気はあった。似ているようで似ていない、似ていないようで似ている。

 何とも言えぬ心地であった。

 そんな彼らは今、九英承菊の勧めもあり臨済寺で部屋を二つ都合してもらっていた。さすがに今川氏が築いた寺院、栄えている街並みを映すかのように、外側も内側も権勢を誇示するかのように圧倒的なものであった。

 そんな中、虎千代は覚明の部屋に訪れる。

 いつもの雰囲気とは少し異なる様相で――

「……今川義元とは、どういう男だ?」

 開口一番、それを問うた。

「難しい質問だな。正直言えば、私にもわからん。ただ、承芳は常にあのような雰囲気であった。決して他者を威圧せず、力を誇示しない」

「……武士らしくないな」

「ああ。私もそう思ったよ。だがね、それは公家文化の中で必要な素養でもある。力をまき散らすのは好まれないからね。私は最初、公家に合わせるためにそう躾けられたのだろう、と思っていた」

「……思っていた、ね」

 覚明は虎千代の指摘に苦笑する。

「そうだ。武家の中では力がモノを言う。公家の中ではそうさな、教養がそれに当たるか。しかし、あの子はそれも誇示することをしなかった。抜けがあり、隙があり、当時の私には優秀に見えなかった。人好きのする笑みを浮かべ、抜けを指摘される度、隙を見出される度に、他者へ教えを乞う姿は才人のそれではなかった」

 そう、虎千代の違和感は全て其処に帰結する。彼が、彼のまとい持つ雰囲気が、彼が才人であることを否定しているように感じたのだ。

 だが、同時に虎千代の感性があれを怪物だと確信している。

 その齟齬が、気持ち悪くて仕方がない。

「そんな彼の周りには常に人がいた。武家、公家、隔てなく……適度に武芸を、教養を備える彼は、誰にとっても付き合っていて心地よい存在だったのだ」

「……おい、まさか」

 覚明は笑みを深めた。

「そうだ。私も気づいた時は怖気が走ったよ。あの子は、幼少の頃から周囲を安定させるため、あえて適度に抜いていたのだ。敵を作らずに、全てを味方とするために。優秀な者がその優れたる所を誇示すれば、尊敬と同時に妬みや嫉みも買う。力は同時に敵を作るのだ。ゆえに彼は、自らを抑えた」

 信じられない話である。誰だって人から侮られたくなどない。力を示し、尊敬され、称賛されたい、そう思ってしまうはずである。だが、それは同時に敵を作ることにもなる。妬み嫉み、力に対する恐怖もそうだろう。

「あの子は自ら、家のために出家をしたいと願い出たそうだ」

「何故、出家が家のためになる?」

「簡単なことだ。継承権を持たぬ身だが……寺の中に入り修行を積み、高名な僧と成れば嫌でも寺の中で力を持つことになる。寺社の力が全国に根付いているのは虎千代も旅の中で感じていると思う。下手な国よりも、寺社勢力は強い」

 ただでさえ全国各地に散らばる寺社勢力だが、彼らは自前の戦力も保持していたりもする。金だけではなく力をも彼らは持つのだ。

 それはもう、国を超えた巨大勢力である。

「なるほどな。そこに今川の血を入れて、寺社勢力をも利用する腹か」

「と、あの子は家人に零したそうだ。直接言うのではなく、間接的に父や兄弟に届くように。出家した後にそれを知った父や兄たちは皆、感動したそうだよ。内心がどうあれ、あの子と父兄の間は極めて良好だった」

「そう言う、ことかよ」

 周囲のみならず、家人すらも安定させ、調和させんとする立ち回り。その時々で彼自身が損をすることは多々あっただろう。意に添わぬことも少なくないはず。だが、それによって彼は家人の、周囲の、信を得たのだ。

 一時の損を経て、彼は絶大な『力』を得ていた。

「継承権を持つ二人の兄の死、あまりにも出来過ぎた状況であっても、今川家の中枢があの子を当主として推したのは、そういう土台があったからだ。外から見て不審な点が見受けられても、あの子が、承芳がそのようなことするはずがない、と思わせるぐらいには信頼があったのだろう。本来ならばもっと、血みどろになる」

 俗に言う花倉の乱。今より五年ほど前に起きた今川家のお家騒動である。発端は当主であった兄、今川氏輝、そして義元よりも継承権が上であった今川彦五郎が同日に亡くなってしまう、というところから始まった。

 結果として福島氏が立てた庶兄を下し、今川家当主、今川義元が誕生した。

 ちなみに福島氏は北条綱成「勝った!」の家であったが、二十年ほど前に起きた甲斐武田との戦で当主らを討ち取られ、分裂していた。その分裂した一部は北条を頼り、残りは遠江国に残っていたそうな。庶兄を立てたのも、かつての立場を取り戻そうと躍起になったのかもしれない。

「普通なら、もっと割れるか」

「今川氏ほどの名家ともなれば、傍流も含め立てるべき人材は少なくない。それが出来なかった。しようとする者が福島氏以外現れず、それも一年経たずして鎮圧し、しかも不満を持った家をあぶり出すことにも成功している」

「……偶然ならば神がかっているし、偶然でなければ――」

「怪物だろう?」

「ぶは、なるほど。よくわかった」

 北条氏康の言っていたことを虎千代はようやく飲み込むことが出来た。今の話と直接会ったことで、未知なる男の輪郭がつかめた気がする。

 あれだけの男が恐れる理由もわかった。

「俺には絶対に真似の出来んやり方だな」

「あはは、確かに」

 長尾虎千代という男と今川義元、おそらく彼らの道が重なることはないのだろう。あまりにも生き方が、考え方が違い過ぎる。この時代においては今川義元が異質すぎるだけかもしれないが。

「面白い男であった」

「ならば良かった。武田殿、いや、道有殿にも会えたしな」

「好色なところ以外は父上に似ていたな。あと、目力が強過ぎる」

「はは、あれで睨みつけられたらひとたまりもない。眉毛も逆立つほどの剛毛、まさに虎の一字を掲げるにふさわしい御方だった」

「……あんな激眉には成りとおないわ」

「あっはっはっはっは! た、確かに。似合わんな、あはは!」

「笑い過ぎであろうが!」

 あとは数日、駿府を見て回って船に乗る。それで伊勢に着けばいよいよ、旅の目的地、京へ辿り着くことが出来る。今ならば日程に余裕があるため、建前であった熊野詣をすることも出来るだろう。虎千代としてはさほど興味もないのだが、二度と行けぬ場所と思えば多少は興味も出て来るもの。

 それに、今は昔ほど神仏について否定的ではなくなっていた。あの箱根で出会った女性のことを思えば、機能としてあっても良い、そう思えるようにはなった。彼女のような人が寄りかかるための場所だと思えば――

「さて、明日は駿府を見て回るとしよう」

「おうよ。夜はあれがしたいぞ。舟遊び」

「駄目だ。路銀が心もとないからな」

「け、ケチな男だな、相変わらず。あんなに雅なこと、早々出来んぞ」

「我、清貧の僧ゆえ」

「はン、笑わせる」

 彼らは笑っていた。この先に待ち受ける、苦難を知る由もなく。

 そう、それは――


     ○


「ない、ない⁉ 何故だ、いったい、どこで⁉」

「何を騒いでいるのですか?」

「路銀が、なくなった」

「……ハ?」

 駿府見学を楽しんでいる中、突如発生した未曽有の大事件。旅先で、路銀を失うという痛恨の失態。覚明は額に汗をかき、懐などを探る。

 だが、無いものは無い。

「じょ、冗談であろう?」

「そんな、馬鹿な。す、少し道を遡ってみる。虎千代、いや、とらも探してくれ」

「こ、心得ました」

 しかして、無いものは、無い。


     ○


「実にけしからぬことですな。我が駿府にてスリが横行しようとは……実に嘆かわしいことです。私は、悲しい」

 路銀を失ったことを世話になっている九英承菊に伝えると、すぐさま今川義元にまで話が及び、彼は今、見ての通り悲しみに打ち震えていた。

 正直、覚明も虎千代も油断していた節はある。何しろ今川領に入ってから露骨に治安が良くなったのだ。人の往来、そこに何の警戒も存在しない点から見ても、この駿府のみならず今川の支配全体が、今の時代では異質なほど素晴らしいものであったのだ。それで少しばかり気が緩んでしまった、のかもしれない。

 それにしても、それなりに心得のある自分がこのような失態などしてしまうとは、と覚明は顔を歪めっ放しであった。

「承菊、すぐに犯人の捜索を」

「心得ました」

 義元はすぐさま、腹心である承菊に命令する。守護とその腹心自らが動いてくれるとは大変心強いのだが、同時に少しばかり虎千代は顔をしかめていた。

 どうにもこの流れ、出来過ぎている気がするのだ。

「路銀をこちらで立て替えても良いのですが……兄弟子の心根を思えば避けたいところ。要らぬ借りを作りたがらぬことは、私も覚えておりますとも」

「……面目ない」

 義元は少し考えこむ。

 そして――

「では、こうしませぬか? 今、今川家も北条や織田の動きに少々忙しくしており、承菊和尚も手が回っておらぬのです。特に寺のことが。ただ、駿府の性質上、下手な僧に勉学を教えさせるのも難しい。相手は武家だけでなく、公家も多いので」

 今川義元は二人に提案する。

「そこで我が兄弟子であり、公家とも関わり深い覚明殿に手伝って頂ければ、と思うのです。もちろん、その分の報酬はお支払い致しましょう。最悪、スリが見つからぬとしてもこれならば労働の対価、と言うことで借りなく路銀を工面することが出来るはず。私としても是非、そうして頂けると嬉しいのですが」

 選択肢などあってないようなもの。

「心遣い、感謝いたします」

「なんの。そもそもが私の至らなさが招いたこと。未熟な当主で申し訳ない。必ずやスリを捕まえて、路銀を取り戻して見せましょう。それまではしばし、御辛抱いただきたい。お約束いたします。今川の名に懸けて」

 頼りになる笑みを浮かべ、今川義元は虎千代に視線を移す。

「それで、おとら殿にはお願いがあるのです」

「何でしょうか?」

「寺に女人が出入りするのはあまり好ましく見られません。特に、公家はそう言う部分に目聡くて、ですな。私としては問題ないのですが、長期間ともなると少し策を講じる必要がございます。それゆえに――」

 真っ直ぐと、

「おとら殿には男装をお願いしたい」

 視線を絡めてきた。まさかの提案に虎千代は必死で平静を装う。まさか女装した状態で男装を請われるなど、さしもの虎千代にとっても理外のこと。

 だが、

「承知いたしました」

 断る理由などない。むしろ若干女装に飽きてきた虎千代にとっては男の姿で動き回ることのできる言い訳が出来たも同然。

「ああ、よかった。服などはこちらで手配致しますので、ご心配なく」

 ありがたく男の姿で遊んでやろう、と思っていた。

 そんな中――

「…………」

 覚明は険しい表情で、義元を睨んでいた。虎千代は、気づいていないが。


     ○


「いつ気付いた?」

 覚明はとりあえず臨済寺に戻る途中、今川義元に話しておきたいことがある、と虎千代と別れ、今川館に戻っていた。

 そして今、かつての弟弟子と対峙する。

「何のことですか?」

「とぼけるなよ、承芳。男装まで御膳立てされていれば、私でなくとも気付くぞ。どういうつもりだ? 何故、私たちの旅の邪魔をする?」

「その物言いは少々無礼でしょうに。私はもう還俗した身、承芳ではありません。今川家当主、駿河国と遠江国の守護、ですよ」

「出過ぎているのは承知の上、だ」

 覚明の眼を見て、義元は「くっく」と笑う。兄弟子も随分と変わったものだ、と。かつての彼ならば、ここまで他者に心を動かさなかっただろう。

 怒りは全て己に向けていたから。

「長尾虎千代、それほどに大事ですか?」

 その名が出た瞬間、覚明は懐に忍ばせていた手刀を抜き放つ。殺生を禁ずる己が持つべきではないが、もしものために用意だけはしていた。

 しかし、その一撃は――

「らしくありませんね、覚明殿」

 義元が近くに『置いて』あった軍配を以て受け止める。

「私がどこの誰なのか、もう忘れていらっしゃるようだ」

 空気が、張り詰める。

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