第弐拾漆話:駿府に座す二つ星
駿河国(現在の静岡県東部)、駿府。
「「……っ」」
己の想像を超える景色を眺めた時、人は言葉を失うのだとこの時虎千代は思った。山内上杉が本拠地板鼻も素晴らしかった。北条が支配する鎌倉、小田原もまた見事であった。だが、この景色の前ではそれら全てが色褪せる。
ここは東の都、駿府。今川氏が歴代賭して心血を注いだ京を模した都市造り。それは在りし日の栄華極めた京の姿を映し出す。
もはやその姿、落ちぶれた京など遥かに超越していた。
清流安部川が複数の川筋となって都を走り、天然の物流網が形成されていた。そこを利用して、京に似た縦横に整然と区分けされた路と、統一感溢れる街並みが広がっていた。板鼻も、鎌倉も、小田原も、大きさだけならば近いものがある。
だが、この計算され尽くした街の機能美、美しさの前では勝負にもならないだろう。虎千代の中で最高が更新された瞬間である。
「……他の街と、根が違うな」
「今川家は公家とも繋がりが深い。北条も伊勢氏の時代で培った伝手はあるが、駿府には京を脱した公家たちが皆、集まっている。武家が君臨しつつも、ここは公家の街でもあるんだ。目指したのも京の都、武家のそれと異なるのも無理はない」
街を構成する人間が他とは異なる。ゆえにこの街は、東の都は名前負けせぬ姿となっているのだろう。京と同じ、公家の血が流れているから。
「なるほど。これを皆は雅と思うのだな」
「ああ。私も今、理解することが出来たよ。ここには京が失った、君臨すべき都の姿がある。今の京とは比べるまでもない」
駿府よりも大きな街はある。日明貿易などで発展する街は駿府より豊かなところもあるだろう。だが、それらは都にあらず。
都足るのは駿府のみ。
「これ以上の景色を、ぬしは見たことがあるか?」
「ない。あるとすれば、海の向こうだろうな」
「ぶは」
東国の都、駿府が二人を圧倒していた。
○
駿府の中心地よりも少し北側に賤機山があった。小高い山の麓、そこにはかつて今川氏親が出家した『息子』のために用意した善得院という寺院があった。その後、急逝した兄を偲び、その寺院で兄の亡骸を葬った。
その兄の法名(臨済寺殿用山玄公)から、この寺院を臨済寺と改めた。
そしてその寺院の住職が――
「よくぞ参られましたな、覚明殿」
「ご無沙汰しております、九英承菊和尚」
九英承菊、後に大原雪斎と名乗ることとなる男である。今川義元の右腕であり、僧籍に身を置きながらも今川家での序列は主に次ぐ二番手。
誰もが認める今川家の柱、その一人である。
「噂では京を出て、林泉寺に移ったとか」
「さすがは承菊殿、相変わらず何でもご存じですな」
「駿府に居を構えれば、嫌でも情報は集まってきますので」
「なるほど、さすがは東国の都、と言うことですか」
「天下の、ですな」
承菊の言葉、冗談めかしているが本気なのは覚明にも理解できた。この時代、天下とは畿内を指す言葉であり、東国である駿府はその言葉に含まれていない。だが、彼はあえてその言葉を、天下を用いた。
この駿府こそが、この地こそが、中心なのだと言わんばかりに。
「ご用件は?」
「今川家当主にご挨拶がしたく、その橋渡しをお頼み申す」
少しだけ承菊は眉をひそめた。
「拙僧の伝手など必要ありますまい。この駿府には覚明殿の知己も大勢おりますぞ。拙僧よりも親しかった友も――」
「拙僧は世俗を、彼らの生き方を捨てた身です」
かつての、公家であった時の伝手は用いたくない。その様子を見て承菊はため息をついた。時が経っても癒えぬ傷もある。彼が守りたかった者はすでに亡く、その絶望から救いを求めたモノにも光を見失った。
最後に会った時、垣間見えた『それ』は今も拭えていない。承菊にはそう見えた。それと同時に、そんな状態で何故、自らの傷に塩を塗るが如く、彼が忌避する京の血が色濃い、この駿府へ訪れたのか。
何故、今川義元と会いたいと思ったのか――
「構いませぬよ。どちらにせよ、拙僧の言葉なくとも当代殿は面会を断ったりはしませぬ。京を捨て、越後に至り、この駿府へやって来た、兄弟子ですから」
「拙僧の知る、承芳殿であれば、そうだとは思っています」
「あはは、その名も懐かしい。変わりありませんよ、あの御方は。幼少期から変わらずに、あのまま大きくなっております。それでも、お会いしますか?」
承菊は覚明の背後に立つ、虎千代に視線を向けていた。
何があっても知らぬぞ、とばかりに。
「お願いいたします。拙僧らは、そのために駿府へ参りましたので」
「……ほう。それはそれは」
頭を下げる覚明を見て、承菊は薄い笑みを浮かべた。この男、迂闊な発言をする者ではない。公家の出ゆえ、かなり繊細に言葉を選ぶ男であったはず。
その男があえて『拙僧ら』、つまり後ろの女人も交え、この駿府に会いに来たと断言したのだ。嫌でも色々と深読みしそうになる匂わせ。
自分も、そして何よりも承芳、今川義元が最も好むやり取りである。
差し出された『情報』を前に、あの男は絶対に我慢出来ないし、しない。
「では、招待致しましょう。駿府が中枢、今川館へ」
「感謝いたします」
しかも、よりにもよってこの時期に、このタイミングで、彼らが現れた。運があるのかないのか、それは今の承菊にもわからない。
だが、今あの館には怪物が二人いる。
一人は駿府を、駿河を、遠江を統べる怪物。もう一人は――
果たしてこの運、引き寄せたは誰ぞ。
○
今川館、駿府における政の中枢であり、いくつかの建屋からなる複合施設でもあった。蔵も廓も奥座敷も、湯殿も含めて必要な機能は当然すべて詰め込まれているし、その上で全てが塗装、彫り物を含め見事な調和を果たしていた。
極めつけは――
「この時間であればおそらく、こちらにいるはずです」
承菊が彼らを招いたのは今川館に造られていた大きな池であった。橋がかけられた池の周辺にはきちんと丁寧に剪定された色とりどりの植物が生い茂り、さながら楽園のような景色であった。まあ、雅としか言いようがないだろう。
そして、その橋の真ん中に――
「ん、どうした、承菊和尚」
得も言われぬ雰囲気をまとう男が一人、池の鯉に餌をやっていた。
「御屋形様、懐かしき知己をお連れ致しました」
そう言って承菊は後ろにいた二人を指し示す。
御屋形様、と呼ばれた男はその内の一人を見て顔を輝かせ、もう一人を見て「ほう」と小さく零した。そして、丁度餌やりが終わったのか、橋を渡ってこちらに近づいてくる。虎千代は何とも言えぬ空気感に、珍しく緊張していた。
読めないのだ。歩き方一つとっても、武士であれば練達の者は黙っていても際立つものである。歩かずとも、大熊や上泉ほどの者であれば立っていても、座っていてでさえ、その優を隠すことなど出来ない。
それなのにこの男は読めない。立ち姿、歩き姿、全てが武家の匂いを感じさせず、公家のような空気感をまとっている。だが、同時に体躯を見れば嫌でも『使える』ことは見て取れた。その齟齬が気持ち悪いのだ、と虎千代は思う。
おそらく、間違いなく、武芸に精通している。氏康や五色備えらと張り合えるような実力はあるはずなのだ。だが、匂いがしない。武士として見れば平平凡凡に見えてしまう。手の内が見えない。見せない。
何も読み取れない。
「ご無沙汰しております、覚明殿」
「ご立派になられましたな、御屋形様」
「あはは、承菊もそうだが、兄弟子や師にそう言われるとくすぐったい。以前のように承芳と呼んでくれても構わぬのだがね」
「そう言うわけにも参りますまい」
「相変わらず堅苦しい御人だ。さて、そちらの美しい女性を紹介して頂けますかな? まさか、覚明殿の好い人、と言うわけではありますまい」
虎千代は一歩進み出て、頭を下げる。女装をして初めて、見抜かれるのではないかという怖れを抱いた。ここまでの旅路、完璧に化けてきたにもかかわらず、何故かそう思ったのだ。この男の前には、化粧など通じぬのでは、と。
「越後より参りました。とら、と申します」
「これはこれは。私は駿河と遠江の守護、今川第十一代当主です。彦五郎、と気軽にお呼びください」
「私如きがそのような呼び方、恐れ多くございます」
如何に虎千代とて、この場で彦五郎や義元などと呼べるわけがない。そもそも、相手が読めぬ以上、距離感が掴めぬ以上、踏み込む気にもなれないのだ。越後での傍若無人の振舞いは、距離感が掴めているからこそである。
それがわからぬ内は、道理に沿うまでのこと。
「承菊、越後と言えば確か……長尾家や直江家に彼女ぐらいの歳頃の子女がいらしたかな? 遠方ゆえ、少々自信がないのだが」
びくり、かすかに――
「そうでしたか。拙僧も抜けておりますな」
ほんのかすかに――
「確か、長尾綾、直江文、だったか」
揺れてしまった。気取られてはいないはず。それこそ注視しているでもなければ、気づけるわけがない。もし気付いたとすれば――
最初から『そのつもり』で揺さぶってきた、と言うこと。
「いえ、綾様も文様も存じておりますが、私は別の家の者です」
「おお、それは失礼を。いけませんな。何事も深読みし過ぎて、的を外してしまう性質なのです。正さねばならぬとは思っているのですが」
そう言って今川義元、仮名彦五郎は近くに咲いていた花を手折り、優雅な所作で虎千代の髪に一輪の花を挿した。
「非礼を謝罪いたします。こちらは非礼に対する謝罪の気持ちと思って頂ければ。しかし、美しい女性には、美しい花が似合いますね」
「勿体無きお言葉、感謝いたします」
「ふふ、堅いですな。立ち話もなんでしょうし、続きは館の中で話すとしましょう。丁度今、面白い客人がおりまして是非――」
義元の眼は覚明に向いている。それなのに、何故か虎千代は見られている気がした。この言葉は、自分に向けられている、そう思った。
「お二人に紹介させて頂きたい」
何も読めない。その上で、怖い相手なのは嫌でも理解できた。普通、男児であればともかく女児など遠方の国に住まう者が把握しているはずがないのだ。この時代、女児の名など書面にも残さないのに、婚姻を結ぶでもない他国の者が女児の名を、歳の頃まで把握しているのは異常である。
情報網と記憶力、そして真実に近づく嗅覚。少し話しただけ。与えた情報は女装した姿と越後出身ということのみ。それだけなのに、何故だろうか――
「きっと、良い出会いになりますよ」
この男にはもう、全て見抜かれているような気がしてしまうのは。
長尾虎千代は困惑していた。今まで会ったことのない手合いである。強き者には大勢出会って来た。単独の武力、武将としての総合力、様々な観点から強いと思った者は大勢いたのだ。だが、わからないと思った者は彼が初めてである。
未知数、何も気取らせぬ男は微笑みを浮かべていた。
それの真偽すら――読めない。
○
そして今川義元に案内され、彼らは奥座敷に通された。
戸の前に立つ二人は急に、何か見えない壁がそびえているような感覚に陥る。何もないはずの空間なのに、足が前に進んでくれない。
「さすがは覚明殿、気づきましたか」
「……何者ですか、この先におわす御方は」
「立ち入れば、嫌でもわかりますとも」
二人が絶句する中、悠々と義元は戸を開ける。
「失礼いたします」
「あア?」
開け放たれた戸の先に、一匹の虎が背を向け横たわっていた。別に何か威圧しているわけではない。ただそこに在るだけ。
ただそこで寝そべっているだけなのに――
「何だァ、彦五郎よ」
「客人をお連れしました。きっと、気に入るかと」
「……坊主と、女だァ?」
のそりと、虎が立ち上がる。圧が、強まっていく。背中から汗が止まらない。虎千代は今、自分が何処に立っているのかわからなくなってしまう。眼前の怪物、それが放つ圧を前に、死よりも濃い何かを感じた。
「今川の女か?」
「いえ。越後より駿府に来られたとか」
「そうか」
幾百、幾千、幾万、この男からは死が、戦場が香る。
「どう思われますか?」
「貌が良い」
「ふっ、同感です」
染み付いた、染み付き過ぎた、匂い。隠す気もない。威風堂々、戦こそが、戦場こそが、自分たちの存在する場所だと全身が語っている。
その姿はどこか、父と似ていた。
「こちら先代の甲斐武田家当主――」
「武田左京大夫信虎、だったァ。今は、出家して無人斎道有と名乗っている」
空気が軋む。怪物は舞台を退いてなお、怪物なのだ。
長尾虎千代は駿府にて二人の怪物と邂逅する。一人は未知数なる男、今川義元。もう一人は現役を退くも未だ精強極まる男、武田信虎。
傑物は惹かれ合うもの。
なれば、この出会いもまた――必然であったのかもしれない。
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