第弐拾伍話:寄る辺

 小田原を旅立った虎千代と覚明は現在、箱根にいた。

 虎千代、もといとらは背筋を正し、岩に腰掛けながら穏やかな表情をしていたのだが、生憎薄皮一枚下では暇、退屈、眠い、などありとあらゆる雑言が渦巻いていた。理由は箱根の民を前に仏の教えを説く覚明にある。

 これはここまでの旅でもよくあった光景なのだが、現代とは異なり信仰心が篤いこの時代において、仏への感情同様に僧侶にも同様のまなざしが向けられる。しかも、この覚明、ハゲにしては顔が良い、と顔鑑定に一家言を持つ虎千代をしてそう言わしめる程度にはかなりイケメンの部類であった。

 僧侶で、見た目爽やかなイケメンの僧。語り口も軽妙と来た。そりゃあもう、世のおばさまが放っておくわけがない。

(相変わらず、ババアばかり集まっとるのぉ)

 クソみたいな内心とは裏腹に、こちらもアルカイックスマイルを張りつけるとら。『彼女』目当てで説法を聞きに来る男も結構いる。

 もちろん、ここからほど近い北条家菩提寺、早雲寺に話を通した上で、であるが。これを怠ると後が怖い、とは覚明の弁。する前、した後、民から乞われたとしてもやるべきことをやらねば角が立つ。一度角が立てば、野火のように情報は拡散し、瞬く間に居場所を失うらしい。嘘か真かは知らぬが。

「お坊様、こちらを」

「いえ、こうして皆様の笑顔を頂いただけで結構。今、拙僧は困窮しておりませぬので、必要とする者にその御心を分け与えてくだされ」

(……路銀がかつかつと毎日言っておるだろうがよ。貰えるもん貰って、銭に替えたら少しは豪遊できるだろうに。クソ真面目よなァ、酒飲みのくせに)

 布施を断るのは逆に失礼である、と普通の僧は思うだろう。覚明自身、要らぬではなく、それを他に回してくれと伝えている。

 他の僧の邪魔にならぬためか、それとも別の理由があるのか――

「待たせたな、とら」

「いいえ。いつもながら、とても有意義なお時間でした」

 対外的にはとても仲が良い二人。

「……目の奥が笑ってないぞ」

「……当たり前だろーが」

 ふたを開け、こそこそ話すとこんな感じである。しっかり人前では猫を被り続ける虎千代こととら、最近ではこちらが真の姿なのでは、と思うこともしばしば。

 そんなこんなで移動し、人目のつかぬ所で腰を下ろす。

「ぬしは毎度毎度、ようもまあ口が回るものだな」

「そうか?」

「一度として話を使い回しておるまい。その土地、その時、風説などを交え、しかも御仏の教えに絡めて着地するのだから見事なものだ」

「それが仕事だからな、我々の」

「ふは、仕事か」

「ああ。そうして教えを説き、必要とする者が仏教を柱としてくれたなら、それで良いのだ。虎千代のように必要とせぬ者にまで押し付けようとは思わぬ」

「俺のような相手では布施も供物も得られんからなァ」

「それは重要ではない」

「ん?」

 覚明は苦笑しながらも、

「宗教のあるべき姿とは、即ち光だ。絶望の底に沈む中、一筋の光としてそこに在ればいい。もちろん、教えを説き続けるにも、寺を維持するにも銭は必要だ。全てが善意で、無償で、と言うわけにいかぬのもまた現実」

 訥々と語り始める。先ほどまでの澱みなく、清涼感すら帯びている話し方ではなく、少し影があり、どこか深さを感じる語り口であった。

「私の本音を言えばな、宗派も作法も、それほど重要ではないのだ。そこに価値を見出す者を否定する気はないし、あくまで私がこう思っている、と言うだけだが……よく槍玉にあがる真宗も私個人としては嫌いではないよ」

「あの念仏教がか? あれは仏教ではなかろうが」

「くく、意外と頭が固いのだな、虎千代は」

「おん?」

 幼い頃から林泉寺、天室光育に育てられた虎千代からすると、真宗の気楽さ、念仏に重きを置き作法も簡潔、僧侶の肉食妻帯を許す様などを見て、同じ仏教だとは思えなかったし、林泉寺の僧も口にせぬだけでほとんどがそう思っているはず。

 だが、覚明はそれも同じこと、だと言っているのだ。

「作法が厳しければ、戒律があれば偉いと言うわけではあるまい。それこそあまりに俗な話だ。その者が出来る範囲で、やりたいよう御仏に寄り添えばよい。それが念仏であればそれで良し、禅であればそれも良し。それだけのこと」

「ジジイが聞いたら激怒するぞ、たぶん」

「ふはは、あくまで私の考えだ。厳しい修行をする僧を否定はしない。私もこう見えて昔は荒行に没頭したこともある。その厳しさに救われたことも、ある」

 懐かしむような貌、それは虎千代が初めて見る彼の一面であった。とても美しい思い出を浮かべながらも、どこか虚ろにも見える。

 光育も彼も、あまり過去を語りたがらない。

「その者が、その時必要な教えに沿えば良い。押し付けるものではないよ。何事も。他所は他所、ウチはウチ、だ」

「ふは、急に矮小な話となったな」

「矮小で結構。別に偉大さも高級さも求めてはおらぬ」

 基本的には真面目で堅物。だが、時折こうして風変わりな一面も見せるのだ。改めて難物、普通の僧ではない、と虎千代は苦笑する。

 覚明は立ち上がり、一歩前に出る。貌が、自然と見えぬ形で。

「それに……どれだけ厳しい戒律を、作法を設けていようと……屁理屈をこねて抜け道を征く者たちがいれば、台無し。驕り、理屈すら放棄した者たち……それならば、最初から設けておらぬ真宗の方がよほど潔い。私はね、そう思うのだよ」

 虎千代の苦笑は露と消えた。途方もなく、夥しいほどの何かが溢れ、消える。怒り、絶望、失望、虚無、それなりの付き合いになるが、未だ虎千代は彼らを理解していない。彼らが必死で、自分にその一面を隠しているから。

「ぬしは……何を知る? 何を、見た?」

「百聞は一見に如かず。焦るな虎千代……いずれ、嫌でも知る」

 振り向いた彼はいつもの笑みで、

「さて、箱根と言えば?」

「……知らぬ」

「周りを見よ。そしてかぐわしき匂いを嗅げばおのずと理解できよう」

「……はいはい」

「いざ、温泉!」

 虎千代と並び、歩む。征く道を、間違えぬように気を配りながら。


     ○


「いい湯だなぁ」

「こんなところ猿しか来ねえよ!」

「……仕方なかろう。整備されたところは北条氏の印判状が必要らしいから」

「ちィ、貰って来ればよかった。強請れば絶対くれたね、俺の色香で」

「そなたは本当にあれだな、気恥ずかしさと言うものがないのだな」

「あるわけなかろうが! 俺の器量は一番、んん、ほぼ、一番だ」

「歯切れが悪いなぁ」

「煩い!」

 二人は今、箱根の山中に入り込み、温泉がわき出す天然の岩風呂に浸かっていた。実はこの時代、箱根は全国的には無名な温泉地であった。名が広がるのは豊臣秀吉の小田原征伐による副産物であり、現状はご近所に本拠地を構える北条家の菩提寺、早雲寺に行くついでに湯治する、ぐらいの使われ方。

 大きく手が加えられているのも北条によるもの、そしてその湯に浸かるためには北条家の印判状が必要とのこと。持っていない二人は山中に乗り込み、見事お猿さん御用達であろう天然温泉を発見し、飛び込んだと言うわけである。

 まあ、飛び込んだのは覚明だけであるが。この僧侶、意外と温泉が好きらしい。ここまでの旅路でも山中に入り、温泉を見出すだけで浮かれ始める始末。しかし、逆に虎千代は温泉の良さが全然理解できなかった。

 まだお子様の彼には少々、温泉巡りは早過ぎたのだ。

「熱い。もう良いか?」

「百を数えるまで待ちなさい。これも修行だ」

「押し付けるな。さっきと言っとることが違うだろうが!」

「それはそれ、これはこれ」

「クソ坊主がァ」

 温泉奉行、覚明の指揮によって温泉を強要される虎千代は拗ねていた。さっきと言っていることが違うは、そもそも温泉自体が好きではないはで、まあとにかくご機嫌斜めであった。なので、とりあえず泳ぐ。

「こら、虎千代、温泉に失礼だぞ!」

「バーカ、死ねハゲ」

「そ、それは線を越えておるだろうが!」

 すいー、と泳ぐ虎千代。実はこの虎千代、こっそり春日山を抜け出したりして海で遊んだりするぐらいには泳げる男である。ちなみにこの時代、泳げると言うだけで徴用されたり書に名前が記されたりするぐらいには貴重な能力であった。

 まあ、無駄遣いしているだけなのだが――

「ふは、湯に足を取られ、追いかけることも出来ぬか。所詮は泳げぬ坊主、泳げる天才、この虎千代様には遠く及ばんのだ」

「な⁉ 虎千代、前を向け、前を!」

「ふん、その手には乗らぬぞ!」

 次の瞬間、

「危ないですよ」

 虎千代の頭を優しく、柔らかな手が支えていた。

「む?」

「それ見たことか。申し訳ない。まさかこのようなところに――」

 覚明は謝罪の最中、言葉を失う。

「私から離れてください」

「ん、おお。済まぬな」

 虎千代は岩場にぶつかるところを受け止めてくれた相手に感謝しつつ、そちらに視線を向けた。何故かその女性は、温泉に入っていると言うのに布を目深に被り、貌が見え辛い。それでも、目を凝らせば、見えてくる。

「……其の方、癩か」

 その顔の一部に皮疹があり、丘疹などに覆われている。おそらく、その部分は失明しているようで、片目の焦点が合っていない。

 癩病、古来より伝わる感染症の一種である。エジプトのミイラに症状が見受けられたり、世界中で症例が残されている。感染力は極めて低く、症状も麻痺など重篤になるケースはあれど、死に至ることはほとんどない。ただ、外見の変化は、残る。

 それゆえにこの病は、ある意味で死よりも恐ろしい災いと化すのだ。人の業、理解の及ばぬものを忌避し、遠ざけ、迫害する。この世の地獄。

 人がこの病を恐ろしいモノとするのだ。

「ええ。なので、近づいてはなりませんよ」

 とても優しい声色であった。虎千代を気遣い、善意で遠ざけようとしているのが声でわかる。だからだろうか、虎千代は――

「ん、何故だ?」

「へ?」

 そう言って彼女の隣に腰を下ろした。

「……あの、聞いていましたか?」

「おう。聞いておるぞ。春日山の祭りにもよう出没しておったな。お手軽に徳を積みたい連中がわらわらと群がっておったわ。若干遠巻きにな」

「お、お手軽。……あ、あの、とにかく離れた方が」

「それは移るのか? 俺は子々孫々に連なるものと聞いておるぞ」

「私は、家で一人だけ、癩にかかりました。先祖にも記録が残っている限りは……ですので、私には近づかぬ方が良いのです」

「なるほど。それならば、確かに離れた方が良いかもしれん。だが、そうなるとどの群れも大体敷いておる決まりごとに、疑問が生まれるのぉ、覚明よ」

 虎千代は笑みを浮かべ、覚明を見つめる。

「……虎千代」

 癩病は感染症である。だが、その感染力の弱さから爆発的に広まることはない。感染ルートはいまだ明らかにされていないが、大きな要因としては飛沫感染などがあげられ、接する回数が必然的に多くなる家人に発症するケースが多く、それゆえにこの病をかつては遺伝の病気と見る者も多かった。

 その結果、発症者が出た家は村八分や役職などを失うこともあり、家人のみならず親戚筋にも疎まれるようになってしまう。なので、彼女のように迷惑が掛からぬよう家を出て、各地を彷徨う放浪癩がかつての日本にはたくさんいたのだ。

 しかし、この病の真に恐ろしきところは――

「これは御仏の与えたもうた罰、それだけのこと」

 感染力が低く、同じ接触者であってもほとんどが感染しない、と言うことにあった。彼女はきっと、何処かでもらってしまったのだろう。癩菌の潜伏期間は長く、その間家人もまた菌には触れているはずである。

 だが、彼らは感染しなかった。それもそのはず、感染する方が稀なのだ。もちろん免疫状況や、衛生面での時代背景もあるだろうが、それでも感染する者、しない者でまちまち、規則性がなかった。近くにいる者が比較的多い、と言うだけ。

 だからこそ、彼女が口にした罰、こういった考えが生まれてしまう。悪いことをしたから罰が下った。自分だけ感染したのはそう言う理屈、と飲み込めてしまう。それが差別を助長し、長く大勢を苦しめてきた。当事者も、当事者以外も。

 その原因の一つが、宗教にある。

「ふは、其の方が何をしたのだ? 人でも殺したか?」

「いいえ。そのような恐ろしいこと。ただ、以前、虫を潰してしまったことがあって、きっと、それが見咎められたのでしょう。無用な殺生だと」

「阿呆らしい! それならば俺の方が――」

「虎千代、黙れ」

 覚明の凍れるような眼が、虎千代を射貫く。普段であれば何を言われても黙らぬ虎千代が、一言も発せなくなるほどに、その言葉は強く、有無を言わせなかった。

 彼の眼が言っている。それ以上、踏み込むな、と。

「女人、拙僧は林泉寺の覚明と申す」

「まあ、お坊様でしたのね。このような姿で失礼いたします」

「構いませぬよ。拙僧もこのようなナリですので。いやはやお恥ずかしい。されど、ここで会ったのも何かの縁、湯上りにでも曹洞宗における禅の作法や御仏の教えを語らせてはくれませぬか? お時間があれば、ですが」

「喜んで! ありがたいです!」

 虎千代には理解できなかった。ここで仏の教えとやらを切り出す覚明も、それを聞いて満面の笑みを浮かべる彼女も、何一つ、理解できなかった。

 道理の伴わぬ光景が、ひどく歪んで見えたから。


     ○


 覚明が先ほどと同じように軽妙に、されど威厳を以て彼女に作法を、教えを説く。それを虎千代は顔を歪めて見ていた。季節は夏、虎千代は半裸で涼んでいるふりをする。と言うよりも、全て着替えてしまえば女性の格好になってしまうため、着替えられないと言うのが正しいが。ゆえに彼女が去るのを待つしかない。

 まあ、苛立っているのはそれが理由ではないが。

「感謝いたします。覚明様」

「いえ。そなたに許しが与えられますよう、祈っております」

「重ねて、感謝いたします」

 歪んでいる。気色悪い光景であろう。何が罰か、そんな証拠が何処にある。神や仏が公平ならば、罪を探したあげく虫が出て来る彼女が対象となるわけがないのだ。ここに虫も殺せば、動物も殺す、ついでに人も殺す男がいる。

 ならば、自分がそうなるはずであろう。自分だけではない。武士などみんな全員が癩病にかかっていなければおかしい話である。遺伝の話とて彼女の弁を聞けば眉唾、ありえない話を取り除き、残った真実を語るべきなのだ。

 罰だとか虚飾に塗れたものではなく、目に見えるモノを――

「怖がらせてしまって申し訳ありませんでしたね、虎千代殿」

 覚明との話を終え、少し距離を取りながらも謝罪しに来る彼女を見て、虎千代の胸はまたもざわめいた。先ほどは気づかなかったが、己に似て艶やかな黒髪である。かつての面影を残す軽度な部分を見れば、おそらく相当の美人だったのだろう。

 だからと言うわけではないが、やはり、心が軋む。

「む、俺が何故怖がらねばならんのだ?」

「醜いでしょう?」

「ふは、世の人間の大半は俺よりも不細工で醜いのだ。醜い者を見るたびに恐がっていれば、俺は人のおるところなど歩けん」

「ふふ、あはは、虎千代殿はまこと、面白い殿方ですね」

「ふん。何も面白くないわい」

「感謝いたします」

「感謝される謂れもない」

「ふふ。では、失礼いたします」

 そう言って彼女は去っていく。帰る場所も、当て所もなく――

 ただ、運悪く感染してしまったばかりに。

「虎千代。宗教が、彼女を傷つけていると思うか?」

「ああ。そうだろうが! 何が罰だ、何が御仏の教えだ。道理を伴わぬことばかりくっちゃべりよって。正しい禅をすればあれが治ると言うのか? 救われると言うのか? ぬしらの教えが、法華経に載っておる一文が、苦しめているのだろうがよ! 教えを守らぬ者が癩になる? 笑わせるな!」

「ならば罰でないと証明できるか?」

「俺が証明だ!」

「……そうだな、その通りだ。で、それを示したとて、何が変わる? 真実を見出したところで、彼女たちはどうやって、救われるのだ?」

「……あ」

 珍しく、虎千代は頭が回っていなかった。そうなのだ。如何なる理屈をこねくり回したところで、真実はただ一つしかない。

 それは癩病がこの時代において、原因不明、対処不能の病であると言うこと。よしんば原因を見出したとしても、やはり対処法はわからない。

 ならば、真実を見出しても無意味なのだ。少なくともこの時代において、その真実は誰も救わない。改めて救いがないと、示すだけ。

 だが、もしそれが罰であれば――

「彼女を支えているのは薄弱な信仰心だ。帰る場所も、当て所もない彼女にとって、唯一の寄る辺が宗教なのだ。自分は罪を犯した、ゆえに罰を受けているのだ、と。神に祈ることで、仏に乞い続けることで、許される日が来るかもしれないのだ、と」

「それは、まやかしだ」

「そうだ。それの何が悪い? 救いがないと飲み込めば良いのか? どうしようもないと諦めたら良いのか? そうなれば彼女は立てぬぞ。旅立つこともせず、もっと早くに死を選んでいたかもしれない。それが今回における、真実だ」

 どうしようもない。貴女は運が悪かった。それは、救いの欠片もない真実であろう。今この時において真実など無力。どうしようもない現実が横たわるだけ。

 癩病の差別を助長したのも宗教ならば、そこにまやかしでも救いを与えたのもまた宗教である。虎千代は、飲み込めない。飲み込みたくない。

 だけど、彼女を、覚明の振舞いを、理解することは出来た。

 縋るしかないのだ。例えそれが、まやかしでしかなくとも。現代とは異なり、今この時において癩病は原因不明で対処不能な病なのだから。

 数百年後、それが菌であることを発見し、さらに数十年の時を経て薬が誕生し、治る病気となるまでは――いや、治る病気となってなお、人は彼らを差別し、隔離していた歴史がある。わかっているのに、それでも人は、違いを受け止められない。

 人の業であり、人の弱さ。本当の醜さは、心に在る。

「彼女は言っていたよ。虎千代の振舞いに救われた、と。同じ人間のように接してもらえたのは、とても、久しぶりだったと、言っていたから」

「……何の救いにも、なってなかろうが」

「それを決めるのは他人じゃない。彼女自身だ」

 今までまやかしだ、と寺にいながら、仏教に関して、神仏に関して彼は懐疑的であった。そもそも神や仏がいるならば何故、世が荒れるのか。殺生がどうこう言うのなら、何故武士などと言う罪の塊のような存在がいるのか。

 証明できず、見えず、くだらぬとすら思っていた。だけど、違うのだ。証明できず、見えぬからこそ、それを支えとする者がいる。自分一人では立てぬ所を、宗教が支えてくれる。それを不健全だ、愚かだと言うのは容易い。

 虎千代も今日までは、そうだった。

 だが、こうして、それにしか寄る辺無き者を知ってしまうと、知識としてではなく実際に触れ、話し、交わってしまうと、もう――言えない。

 彼女たちからそれを奪うは、死ねと言うのと同義だから。

「……寄る辺として、か」

 虎千代は自らの浅慮を悔いる。神仏を好きにはなれぬが、その存在理由は、人の世における役割は、この一件で理解することが出来た。弱き者たちの、寄る辺無き者たちの、活路であるのなら、存在する意義は、意味はある。

 この先、今日と言う日を、名も知れぬ彼女を、長尾虎千代は幾度となく思い出すこととなる。これが、今日と言う日が前提なのだ。

 この日、自分のような人間にとっては無価値に等しいが、そこに価値を見出す者を知った。その理由を、苦しみながらも飲み込んだ。

 そして、今日があったからこそ――

「…………」

 真実を見た時、長尾虎千代は龍と化すことになる。

 それはもう少しだけ、先のお話。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る