第弐拾陸話:虎、追放

 甲州往還、駿河と甲斐を結ぶ街道。その駿河側にて、一匹の虎が笑っていた。笑えるような状況ではない。怒り狂ってもおかしくない状況。

 彼らもそれなりの覚悟を以てここにいたのだが――

「太郎の命か、板垣ィ」

 大笑いする虎が問う。板垣と呼ばれた男は複雑な胸中を抑えつつ、

「はい。若の、いえ、『御屋形様』の命でございます」

 そう答えた。迷いがなかったわけではない。散々熟考して、惑い、悩み、それでも甲斐のためにはこうすべきと結論付けたからこそ、ここにいる。

「はっは! 言うのォ!」

 その苦悩を、虎は笑い飛ばす。相変わらずだと板垣は思った。自分の方が少し年上なのに、ずっと圧倒され続けた人生であった。まさに虎としか言いようのない男であった。家督争いから端を発した騒乱の果て、荒廃した甲斐をただ一人、豪腕にて制圧し、一つにまとめた怪物である。

 誰に聞いても今の甲斐を築いたのは彼、と答えるだろう。

 恩義がある。忠義もあった。尊敬もしている。今もなお、色褪せぬ。

「何故、御屋形様、太郎殿ではなく、典厩殿を選ばれたのですか⁉」

 ゆえにこそ、出過ぎた真似でも、板垣は問うた。

 彼がそんなことをしなければ、正しく嫡男を立ててさえいれば、このような無礼を働く必要はなかった。敬愛したままで、いられたのに。

 彼とてその眼で見て来たではないか。あらゆるところに撒き散らされた火の粉が燃え盛り、惨憺たる姿と化した甲斐を。共に見て来たのに、その愚を彼は――

「俺はどっちとも言っておらぬ。早合点だな、ぬしらは」

「御冗談を、明らかに贔屓されていたではありませぬか!」

「当たり前だろうが。太郎の顔を見ろ、俺に似過ぎだ。その点次郎(典厩、次男武田信繁の幼名)は俺ではなく妻に似ておる。好いた女の面と自分の面、どちらを可愛がるかなど明白であろう?」

 何を言っているのだ、と小首を傾げる虎を見て、板垣は呆然と、呆気に取られていた。何か言い訳があると思っていたのに、返ってきたのは『顔』。それを臆面もなく、当然の理とばかりに言い切って来たのだ。

 思えばいつもこの男は一言も二言も三言も足りない。自分の中には結論があって、周りを振り回しながら突き進んできた。

「だが、俺に決める気がなかったのもまた事実だ」

 しかして虎も愚にあらず。こうなることはわかっていた。

「どちらも甲乙つけがたい。俺が好きに選んで良いと言うなら、やはりぬしらの想像通り、次郎を選んだだろう。あれの方が少しだけ弱く、聡いからな」

「やはり、そう言うことではありませぬか」

「されど序列を覆すほどではない。ゆえに俺は選ばせてやったのだ。ぬしらに、太郎に、次郎に、その結果が太郎と言うのなら文句はない。次郎も従属を決意したのだろう。俺を使えば覆す道もあったが、使わなかった。それが答えだ」

 まるで全てを見通していたとでも言わんばかりに、虎は笑う。

 負け惜しみだ、と若き武士たちは思う。しかし、板垣や甘利など、虎に仕え続けてきた者たちは息を呑んだ。この男には、説得力がある。

 勝ち続けてきたモノにのみ備わるそれが――

「クソガキどもが一丁前にこの俺を、信濃を磨り潰す前に引き摺り下ろしたのだ。そこまで引き延ばせば、俺も見込みなしと暴れたかもしれんが、まあ、そこそこ早い決断だ。今川の小僧にケツを叩かれてなくば、優を与えたやもしれぬ」

 全てを、未来すら見通すような眼が、足る者たちを貫く。

「好きにせよ!」

 身を翻し、虎は甲斐に背を向ける。その背は誰の眼にも追放されゆく姿には映らなかった。悠々と、怪物は今、戦いの舞台を退く。

 自らの足で、自らの意志で――

「ああ、そうだ。伝える伝えぬは好きにして良いが、言伝だけはしておこう」

「何でしょうか?」

「負けろ。失え」

 板垣は絶句する。それを家臣の口から言えなどと、正気の沙汰ではないだろう。言えるはずがない。そもそも言ったところで、受け取るはずもない。

 あの虎はそこまでわかった上で、あえて遺したのだ。

「さすればぬしは、俺を超える怪物となるだろう、となァ」

 それはただの答え合わせ。板垣はそれを伝えはしなかった。甘利もしないだろう。と言うよりも出来ない、が正しい。そもそもどんな言葉であれ、父からの言葉を今の太郎、武田晴信が受け取ることは難しい。彼の原動力の一つは、自分ではなく弟を愛した父への反骨心なのだ。もし、それが届くとすれば、反骨心が消えた時。

 父の幻影を振り払い、超越した時であろう。

 そして、その時には言われずともすべてが理解できているはず。莫大な経験と相応の犠牲、それらを踏みしめ、喰らい、人は虎と成る。

「ではなァ」

 天文10年(1541年)6月14日、甲斐国の守護、武田信虎、嫡男である武田晴信の命により甲斐国を追放。甲斐に繋がる道を板垣、甘利らに封鎖させ、締め出すことに成功する。そこから淀みなく、駿河への受け入れが果たされる。

 家督を簒奪し、甲斐の守護となった武田晴信と駿河、遠江、二つの国を統べる守護今川義元との間で仕組まれた追放劇、であった。


     ○


 そんなことがあったことなど露知らず――

「おー、富士だぞ富士。でっかいのぉ、おっきいのぉ」

 天候も良く、晴れ晴れと蒼空に突き立つ富士山を見て、虎千代ははしゃいでいた。彼はとにかく大きなものが好きだった。ちょっと前までは春日山も良いぞ、などと言っていたのだが、今はもう富士山に夢中である。

 形が良い。貌が良い。とは彼の弁。

「かなり前からちらちらと見えていただろうに。そんなにはしゃぐことか?」

「この馬鹿! 阿呆! 破戒僧!」

「最後の一つは訂正してもらおう。拙僧の戒律に酒の文言は存在せぬだけ」

 そんな覚明を無視して、虎千代を眺めていた。とにかくデカい。今まで見たものの中で最大と言って差し支えないだろう。これが最強だな、と虎千代は一人納得していた。霊峰富士、最近は山伏のみならず庶民にも登山が流行っているらしいが、生憎現在、この河東地域一帯は北条が奪い取った関係で荒れている。

 こんな状況下、断交している北条と今川の国境を跨ぐのも多少の危険が伴うもの。さすがに富士登山など悠長なことはできない。

 本来であれば関所を通るのも多少緊張するものだが、そこは僧籍の強み。身元がはっきりしており、光育らの書状を持つ覚明がいれば大体どうにかなる。取り調べを受けたこともあるが、ものの半刻もせぬ内に解放されるのが常であった。

「のお、覚明。ぬしならほれ、入山させられるのではないか? ん?」

「何度も言っているが登らんぞ。危ないからな」

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だァ! あれ見たら登りたくなったァ!」

「絶対ダメ。さっさと今川領に入ってしまおう」

「クソハゲがァ!」

「あ、あそこに人影が!」

 覚明が道の先に指をさした瞬間、虎千代はとらへと変貌した。気品ある立ち居振る舞い、怒鳴ることなどありえない楚々とした雰囲気。

 あっという間に美少女の完成、である。

「さ、行くぞ」

「あら、覚明様……人影が見当たりませぬが?」

「ははは、狐にでも化かされたのかもしれぬな」

「殺すぞハゲェ!」

「と言っても街道だぞ。何処に人目があるのかわからぬのだから、少しは演じる努力をしろ。何度かやらかしているだろうに」

「案ずるな、普通の者が俺を見てもこう思うだけだ。小姓に女装させ愛でる破戒僧なのだろう、と。生暖かい目で見てくれるだろうよ」

「……この、クソガキがァ」

「ぶはは!」

 まあ、結局こんな感じになってしまうのだが。

「富士川を渡れば今川領、すぐに駿府であろう?」

「ああ、そうだな」

 虎千代は妙に熱っぽい目で覚明を見る。それなりの付き合いである覚明は言わずとも虎千代の考えが読めた。これは大体、おねだりする時のものである。

 例えば先ほどのような富士登山、ああやって駄々をこねるケースは、実は遊んでいるだけでそこまで本気ではない。無理筋を、暇だから押しているだけに過ぎないのだ。もちろん通れば嬉しいし喜ぶのだが。

 しかし、本当のおねだりをする時はこれである。子どもらしさ全開、自分が可愛らしい顔をしていることも織り込み済みで、落としに来る。

 わかっていても揺らぎそうになる顔つきなのだが、そこは既に幾度も経験したこと。とうの昔に慣れた。

「俺は氏康めと話をしてな、どうしても会わねばならぬ相手がいることを知ったのだ。名を今川義元、駿府を、二ヵ国を統べる守護だ。わかっておる。北条よりも、山内上杉よりも、今川家は実質的に巨大な東の王、難しさは充分理解している。若くして家督を継ぎ、難しい時期であることも充分理解した上で――」

「会えるぞ」

「――俺は頼みたいのだ、何とかならぬか、と……え?」

「たぶん、会える」

「なんで?」

「還俗したが栴岳承芳とは建仁寺での知己だ。一応、共に修行をした身、今はあの頃と違い立場も変わったが、挨拶を拒否されることはないだろう」

「栴岳承芳って?」

「還俗前、今川芳菊丸(幼名)の法号だ」

「……え、今川義元と知り合いなの?」

「建仁寺でな」

「……初めて建仁寺の覚明が役に立つのぉ」

「うるさい!」

 あまりの出来事に現実感がないのか虎千代の反応は薄い。

 ちなみに還俗とは出家した者が世俗に戻ることを指す。つまり、多くの諸大名の子息に見られる寺に通っていた、勉学を学んでいたのとは違い、今川義元は一度出家し完全に世俗を離れていたのだ。

 彼が還俗し、名を義元と改めたのはつい数年前のこと。『偶然』、継承権を持つ兄二人が『同日』に急死し、急遽出家していた義元にお鉢が回ってきたのだ。偶然か必然かは不明だが、本来継承するはずのなかった男が家督を継いだのは間違いない。そして覚明もまた、初めから『彼』には会わせる気であった。

 あの底知れぬ雰囲気を持つ男に――

「まずは善得院改め、臨済寺へ向かうか。そこにおそらく、もう一人の知人がいる。彼ならば、上手く繋げてくれるだろう」

「え、本当に会えるの?」

「……建仁寺の覚明だったからな」

「建仁寺すげェ」

「まあ、彼らはその後、妙心寺に移ったけどな」

「……凄いのか凄くないのかわからん」

「昔は凄かった。今はそうでもない。それだけだ。いずれ、わかる」

 ぽんぽん、と虎千代の頭を撫でて、覚明は「行くか」と歩き始める。

 少し間を置いた後、

「やったぜ!」

 虎千代は女装していることも忘れて飛び回りながら喜んでいた。

 一行は富士川を渡り、今川領に至る。

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