第拾伍話:田植
さっさと出て行こう、そう思っていたのだが――
「……南無」
「南無、じゃねえよクソ坊主。二日酔いとはご機嫌な僧侶だな、おい」
「実は酒には滅法弱くてな」
「その割にはぐびぐび飲んでいたけどな」
「好きだけど、弱いのだ」
「一番質が悪い奴じゃねえか、クソ坊主が」
まさかの覚明、二日酔いによりダウン。どう見ても旅立てる様子ではないし、采女にもこの状態で放り出すなど家の恥、とがっつり引き留められてしまった。
昨日の一件があり、虎千代としてはさっさと旅立ちたいのだが、こうなってしまえば足踏みするしかない。見所もないこの片田舎で一日無駄にするしかないのは癪であるし、あの女と顔を合わせるのは何とも言い難きもやもやがあるのだが――
(そもそも、何故この俺様が気遣わねばならんのだ? 確かに俺にも悪いところはあった。そこは認めよう。しかし、そもそも獲物を奪い、あまつさえこの俺を蹴り飛ばした方が悪いのは明白。どう考えても大義は俺にあるはずだ)
理屈、と言うよりも屁理屈をこねて、虎千代は頷く。
悪いのはあっち。俺は悪くない、と。
「外に出て来るぞ」
「……隙を見せぬようにな」
「今のぬしにだけは言われたくない」
「……面目ない」
もう一日の滞在を余儀なくされ、虎千代は心を入れ替える。何か悪い気がしたが、一晩経って彼は屁理屈での理論武装をし、自分の大義を、正義を固める。
ちなみにこの屁理屈での理論武装、この時代で正義を騙るには実は結構重要なスキルだったりする。屁理屈も理屈、言ったもん勝ちの世の中でもあるのだ。
まあ、今回に関しては、ちょっと違う気もするが。
○
虎千代扮するとらは、とりあえず己が道理に則り敵を監視しようと思い至った。冷静に考えれば自分が男だと知る者を野放しになど出来ない。せめて今日一日動向を観察し、理性的に処断を決めるべきだと、心の中のリトル虎千代が囁く。
その声に従いやって来たのは――
「ヤーハノ 穂摘めば」
「穂摘めば」
視界一杯の田んぼ。不規則な段々になっているそこで、百姓が歌いながら田植えをしていた。皆で並んで足首ほどに水を張った田んぼの中を、後退しながら苗を植えていく。時期は随分早い気もするが、田んぼの枚数と田植の人数を見ると何となく背景が透けてくるだろう。人手不足、田植の中心は女性であるとはいえ、明らかに男衆が少ない。少な過ぎる。
昨日の北条への敵対心、嫉妬だけではないのかもしれない。
まあ、そこはさておき――
「……何をしておるのだ、あやつは」
田植をしている者の中に、なんと地侍の娘千葉小梅が混じっていたのだ。髪をかき上げ、邪魔にならぬようにまとめ、せっせと苗を植えている。
実はこの時代、こういった光景は珍しいことではない。武士もピンキリ、下へ行けば行くほどに百姓との境界線は曖昧になっていく。何しろ米が無ければ生きていくことが出来ないのだ。百姓にも気を遣うし、こうしてともに汗をかくこともある。
そうやって武士は土地に根付いていくのだ。
だが、この虎千代、守護代の息子である。地侍と比べれば生まれは天地の差、農作業などやったことはない。遠目で見たことぐらいはある、程度。
こうしてマジマジと目を向けた経験すらなかった。
「結構面白そうだな」
そんな彼の眼には田植、どうにも新鮮に映る。田植歌、少しでも飽きが来ないように、合いの手を入れ込んでいるのだろう。単調かつ気の長い作業を少しでも楽しく、体感速度を早めるための工夫である。一見非合理に見えるが、全国どこでも歌詞は違えど似たような光景はどこにでもあるのだ。
合理なだけでは動かぬ人を、動かすための工夫。実に面白い。
そんな中――
「……しかし、仏頂面よな、あの女」
カラ元気も混じっているだろうが、皆が笑顔で田植えをこなしている傍ら、小さな声でぽつぽつ呟くように歌い、黙々と苗を植える姿は何とも浮いて見えた。
まあ、周囲も慣れているのか特に気する様子もないが。
「昨日の夕餉といい、しようのない女だな」
とらは髪をまとめ、邪魔にならぬよう結い上げる。
そして袖をまくり、
「どれ、俺が手本を見せてやろう」
守護代が四男、長尾虎千代、田んぼへの初陣を果たす。
根拠のない自信、漲る。
○
千葉小梅は汗をぬぐいながら苗を植える。狩りとは違って皆との共同作業、あまり得意ではなかった。身体を動かすことは好きである。水を張った田んぼの、このぬちゃりとした独特の感覚も、鼻腔をくすぐる土の匂いも、好きなのだ。
それでも、こうやって皆で並びながら周囲を気にして動くのは――
「あ、腰折れ穂実り」
「ッ⁉」
そんなことを考えていると、突如隣で伸びやかな、清涼で突き抜けるような、大きくて美しい声が高らかに轟く。
「ハァ、マダマダ」
普通は節を歌う者、その間に囃子(合いの手)を入れる者、別々なのだが、隣で腰を折る女、いや、男はどちらも歌う。笑顔で、実に楽しそうに。
そんな様子に、周囲は驚きつつもけらけらと笑う。
「どうした、声が小さいのお」
「……煩い」
「ぬしは周りを気にし過ぎよ。こんなもんはな、自分のやりたいようにやればいい。びくびくと気を遣うようなものではなかろう」
「腰が高い。それじゃあ苗が浅くなる」
「おお、すまぬな」
「……素人?」
「田植は初めてだ。なかなか楽しいではないか」
「本当に高貴だった」
「おうよ。高貴な生まれだ。皆には内緒にせよ」
「別にいいけど、隣にいられると邪魔」
「待て待て。田植は素人だが、歌は天才だと自負しておる。まあ見ておれ、要は田植歌とは気を紛らわせるためのもの。なればな――」
とらは誰よりも声を張る。ちょっと見ていただけ、ここの土地の歌詞を網羅出来ているわけではない。しかし、どんどん周りを巻き込んでいく。
周囲が囃子を入れたくなる間を設け、節を誰よりも大きく透き通るような声で歌い上げる。気持ちが良い。周りも最初は戸惑っていたが、気づけば誰もがとらの、虎千代の後に続いていた。
「声が小さいぞ」
「……アァ ソウトモソウトモ!」
小梅の、やけくそのような囃子、それを聞いて皆どっと笑う。小梅はいつもの仏頂面で、ほんのりと頬を赤らめていた。
「くは、それでいい」
「そっちは深く差し込み過ぎ」
「あいわかった」
とらが好き勝手歌い、皆が好き勝手囃し立てる。いつもの田植とは全然違う景色が広がっていく。怖いほどの影響力であろう。
本来、彼ら百姓は余所者を、輪を乱す者を厭うものである。この地に根付いた田植歌、節の端々までしっかりと揃わねば対外的にはどうあれ、内心はどろりとした濃い何かが溢れ出てしまう。それが地に根差すと言うこと。
村社会の怖さであり、だからこそ彼らの足並みは揃うのだ。
だが、このとらの、虎千代の前では彼らの不文律など、嵐の前の痩せた木も同然。へし折れ、巻き上がり、天高く舞う。
悪い気分ではない。むしろ清々しくもある。
「ほれ、これで楽しくなっただろう? 俺のおかげだぞ、感謝せよ」
にしし、と笑うとら。その貌を見て小梅は少し言葉に詰まった。
「……黙って手を動かす」
すぐに、何とか切り返したが――
「ふん、ぬしは声を出せ、声を」
歌う彼が、集団の先頭に立つ彼が、おぞましいほど美しく、強く映るのは何故だろうか。たかが田植、それでも余所者がどかどかとやって来て、好き放題してまかり通る力は、明らかに普通ではない。普通には見えない。
小梅は初めて見た。
危ういほどの魅力を、引力を持つ少年を。
その時初めて彼女は、他人を美しいと思った。
○
「疲れたのぉ。もう飽きた」
「まだ昼と夕方が残っている。明日以降もずっと続く」
「うへえ、百姓とは化け物よな。俺には真似出来ん。大したものだ」
昼の休憩に入り、各々好き好きに昼食を取っていた。
とらは腰をさすりながら地面に座り込み、もう無理とばかりに木陰に籠る。
「小梅様、そちらさんは?」
「おとら殿。長野殿のお客様」
「あれま、そりゃあどうもぉ。お手伝い頂いて助かりましたぁ」
百姓の女性がとらに頭を下げる。当然、
「いえ、お気になさらず。むしろ勝手に入り込んでしまい申し訳ありません。郷里でも少しやっていたので、つい懐かしく思いまして、身体が勝手に」
小梅は「……」と押し黙る。この場でとらが男であると知っているのは自分だけで、この男が農作業を今日初めてやったと知っているのも自分だけ。
一応黙っておく。面倒だから。
「あれま⁉ 道理でいい歌だと思ったよ」
「わたくしの故郷ではああ歌っておりまして、つい出てしまいました。和を乱しご迷惑をおかけしたこと、深くお詫びいたします」
「いいのよぉ。久しぶりに楽しかったわぁ」
田植えをやっていた、と言う嘘の経歴で心の距離を詰め、相手の警戒心を解く小賢しい対人技。ニコニコと手を振りながらも、
「こんなもんよ」
小梅にだけ聞こえる大きさでつぶやいた言葉は悪童そのものである。
「猫被り」
「ぶはは、見抜けぬ馬鹿が悪い」
「私は見抜いた」
「俺を蹴ってな。忘れておらんからな、俺は」
ぷんすかと怒るとらを見て、小梅は先ほどの印象は勘違いだったと思った。猫被りが上手いだけ、中身は年相応のクソガキでしかない。
「しつこい」
「あの兎も俺の獲物だ」
「驚くほどしつこい。その話は昨日終わった」
「終わってない!」
本当に何故、自分がほんの僅かにでも見惚れたのかわからなくなってしまう。容姿も自分の方が上、もうそれは田んぼの水面を見れば明らかな事実。
「しかし、仲が良いのお。百姓と普通に話すのか」
「当たり前」
「地侍の当たり前と俺の当たり前は違う。まあ、いい勉強になった。田植がこれほど重労働なのも驚いたしな。皆、当たり前のようにやっておるからのぉ」
「やらないと飢え死にするだけ」
「そりゃ尤も」
生きてきた場所が違う。こうやって軽く話しているだけでも、ここまで認識が異なるのだ。きっと、とらと自分は天地ほどの差があるのだろう。
本当ならこうして会話することすらままならぬほどに。
「昼は?」
「俺は客だぞ。ぬしが用意せよ」
「……勝手に田植に入り込んだだけ。義理はない」
「采女にチクるぞ」
「そしたら男だって言いふらす」
「なっ、それは禁じ手であろうが!」
だけど、こうして隣にいると、本当にただの年の近い同じ人間でしかない。
笑わないけど、笑えるほど子どもっぽくて――
「はい」
「お、握り飯か。ふがふが、おお、混ぜ物なしときた」
独特な匂いの嗅ぎ方で麦などの混ぜ物が入ってないことを察知するとら。この男、時折よくわからない特技を披露する。
「籾摺りはほとんどしてない」
「要らぬ。俺は儘の方が好きだ。白米なんぞな、公家どもが見栄で食っておるだけ。武士ならば茶色い米を喰う。それが武家の倣いよ」
「……私は白米の方が好き」
「公家気取りめ。ぺっぺ」
悪態をつきつつも、貰ったものを返す気はなくとらは握り飯に食らいつく。何度かかぶりつき、そしてはたと眉をひそめる。
「……中身は、梅干しか」
「そう。私が漬けた」
「……俺、嫌いだ。しょっぱいのはの、好きなんだが、酸っぱいのが苦手なのだ。こう、キュッとなる感じがのぉ。どうにも気に食わぬ」
「私が漬けた」
「おう。だがな、それと好き嫌いは別であろう?」
「食え」
「……なっ、め、命令したのか? この俺に、たかが地侍の娘風情が」
「食え」
無表情で、見下ろすような視線。そもそも立っても彼女は自分よりも頭一つ大きい。座っている身からすると、天を衝くほど大きく見えた。
まるでこの威容、天室光育のようで――
「……はい」
珍しくとらが折れる。顔を歪めながら、しょぼくれた様子で口を付けた。
すると――
「ぬっ⁉」
とら、目を見開く。確かに梅干しは酸っぱい。酸っぱい所が嫌いであった。だが、何故か今食べるとそれがやみつきになってしまう。
目をぱちくりさせながら、怒涛の勢いで梅干し入りの握り飯を喰らい尽くす。苦手であったものが、ここまで感じ方が変わるとは思わなかった。
「ぬし、さては梅干しの名手だな?」
「得意ではあるけど、たぶん関係ない。田植をして汗をかくと、美味しく感じる。私も昔は苦手だったけど、田んぼを手伝うようになってから好きになった」
「ははぁ、なるほどのお。おかわり」
「ない」
「な、なんだと⁉ 俺は育ち盛りの男だぞ、握り飯一つで足りるか!」
「今は女装。それに贅沢は敵」
「じゃあ梅干しだけで手を打ってやろう。我ながら謙虚であるな」
「何処が謙虚? ダメ」
「そこを何とか。この俺が頭を下げることなど滅多にないぞ」
「知らない」
そう言いつつ小梅はため息をつき、握り飯をとらに放る。
「ふはは! 感謝してやろう!」
先ほどあれほどに拒絶していた梅干しを、むしろすぐさま掘り当て舐めるように食べるとらの姿は、貴人と呼ぶにはあまりにもみすぼらしかった。
晴景や綾が見たら泣くかもしれない。
「美味いのお」
至福、晴れやかなとらの顔を見ると、小梅も何も言えなくなる。まあ、多少は礼の気持ちもあった。姉たちが嫁いでしまい、緩衝役がいなくなったことで田植の時も多少百姓たちとぎくしゃくしてしまっていた。
だが、とらが滅茶苦茶にしてくれたおかげで、少しだけ距離が縮まった。明日からはきっと、今日ほどでなくとも声を出すことはできるだろう。
だから、これはお礼である。言わないが。
「じゃあ、私は用があるから」
「用とはなんぞ?」
「狩り。私は朝だけの約束。昼からは兄が加わる」
「……女だけではなく男もかよ。火の車だな、ぬしら」
「否定はしない。館でゆっくり休んでて」
そう言って小梅は去っていく。握り飯を舐めるように食べながら、とらは少し考えこむ。ここに残って田植をする。疲れるから嫌だ。館に戻って休む。覚明の復調次第だが最悪の場合、自分が采女らの相手をしなければならない。
などと様々な状況を鑑みて、
「決まりだな」
虎千代扮するとらは邪悪な笑みを浮かべた。
そしてばくりと握り飯を喰らう。
「ごちそうさま」
田植を体験したことで、米のありがたみを知った虎千代は生れて始めて真面目に祈った。全ての田んぼに、米に、感謝を、と。
初陣を終えたとらの、虎千代の貌は少しだけ大人びていたそうな。
まあ、田植だけど。
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