第拾肆話:息苦しさ

 虎千代は日が落ちる寸前で、何とか目的地と思しき場所に辿り着いた。思しき、と思ったのは今まで見てきた城の中でもひと際貧相であったから。

 小高い山の上にポツンと立つ、名ばかりの平山城。戦時ともなれば人を収容するはずの城が、ああも安普請では開戦即降参したくなるだろう。その下にある館も敷地こそ広く取っているが、建物自体はこれまた安普請。城下、と言いたくない館周辺には田園風景が広がっており、建物自体が少ない。

「……業正め。成り上がりゆえ、存外信のおける者は少ないと見える。それにしてももう少しどうにか出来ただろう、とは思うがな」

 貧相、虎千代はこの地をそう評した。

「おお、とらよ。随分遅かったではないか」

「……覚明がおると言うことは、やはりここが目的地、か。もう一つの城にしておけばよかった。戦場での築城ならばまだわかるが、平時でこれは、のぉ」

 とぼとぼと力なく歩く虎千代を見て、覚明はにやりと微笑んだ。

「これもまた城だ。珍しい景色ではないぞ」

「……戦ともなれば秒速で落ちるぞ」

「戦うだけが城の、武士の役割ではないのだ。民に近い景色も悪くないものぞ」

「ふん。笑わせてくれる」

 もう良いから館で休ませてもらおう、と歩く虎千代を見て、

「おや、兎ではなく鴈だったのだな」

「……こっちの方が美味そうだったのでな」

「千葉殿も喜ばれるだろうな」

「……千葉?」

「言ってなかったか? こちらの城主は千葉采女殿だぞ」

「……千葉、采女、また随分珍妙な受領名だな」

「……采女司の略であろうし、無い話ではない」

「そんなもので箔が付くのかのぉ。俺には理解できん」

 采女に気を取られ、虎千代は失念していた。

 何故、千葉で引っ掛かったのかを。

「ようこそ千葉館へ。歓迎いたしますぞ、おとら殿」

「お世話になります、千葉様。こちら、先ほど何か土産を、と思っていたところ、たまたま捕ることが出来ましたので、お渡しいたしますわ」

「ほほ、これは立派な鴈ですな。どのように捕られたので?」

「石で」

「石?」

「いえ、神仏に祈りを捧げておりましたところ、近くまで来ましたので、こう、キュッと、仕留めさせて頂きました。全ては御仏の導きでしょう」

 覚明が凄絶な表情で睨みつけるも、虎千代はどこ吹く風。

「いやはや、実に聡明でお美しい方だ。しかも所作まで華麗ときた。さぞ立派な家に生まれたのでしょうな。私の娘にも爪の垢を煎じて飲ませたいものです、ガハハ!」

「おほほ、そのようなことありませんわ」

 謙遜しつつ当たり前だろうがクソ田舎地侍風情が、とは思っていた。長尾虎千代、性根から腐っている所もあるのだ。少々、いや、多々、であろうか。

「ささ、こちらへ。夕餉を用意してありますゆえ」

「では、上がらせて頂きます」

「失礼いたす」

 二人は案内されるまま、部屋に通される。虎千代の離れよりは広い部屋で、表の様相からするとマシな内装ではあるが――

(ここがこの館の中で、一番見栄えする場所なのだろうな)

 虎千代は今晩泊まる部屋を考え、内心げんなりしてしまう。

「大したおもてなしは出来ませぬが、どうぞどうぞ。おとら殿には別室で同様のものを用意してございますゆえ、そちらで」

「お気遣い感謝いたします」

 虎千代は運ばれてくる料理を見て少し眉をひそめた。建物こそ少しみすぼらしい見た目だが、食事を見るにあまり貧している様子はない。長野氏の書状が効いて無理をしているのか、そもそもそれなりに蓄えがあるのか。

 少しだけ興味を引いたのだが――

「申し訳ない。拙僧は肉を食さぬので」

「おや、これは失礼いたした。てっきりこちらから布施としてお出しする分には問題ないかと思い……その、以前いらっしゃった僧侶は喜んでおりましたので」

「あはは、これはあくまで拙僧の――」

 覚明と千葉采女が話しているのを聞き流しながら、ふと、虎千代の目が一点に止まる。食事を運んでくる中の一人、明らかに浮いた気配の持ち主が混じっていた。能面のような無表情、先ほど外で見た時と様子は異なるが――

「……千葉、小梅」

「……誰?」

「……へ?」

「こ、こら、小梅。こちらはおとら殿、長野殿の客だぞ!」

「……ごめんなさい」

 この長尾虎千代、人を忘れることはあっても忘れられた経験はなかった。人に蹴りをかましておいて、この女は被害者である自分を、獲物を横取りした分際で忘れたと、そう抜かしたのだ。許せん、と虎千代の怒り、再燃ス。

「とら、と申します。先ほどはどうも……ふふ、再会できて嬉しいわ。采女様、とてもお元気なお嬢様で、さぞ素晴らしい教育をなさっているのでしょうね」

「あっ」

 ことここに至り、ようやく思い出した小梅。それと同時に、

「……小梅、ぬし、何かやったのか?」

 父である采女の視線、咎めるようなそれを見てハメられたことに気付く。

「…………」

「ふふ、ご挨拶しただけですわよね、小梅様」

「う、はい」

 形勢逆転、虎千代はにこやかに、満面の笑みを小梅に向ける。ただ糾弾するは容易い。真実を都合よく語れば長野業正からの客と言う立場が自分に勝利を運んでくれる。だが、そんな容易い勝利など要らぬと虎千代は思うのだ。

 今日与えられた屈辱はこんなものではない。何よりも長尾虎千代が負けっぱなしなどありえない。勝ってこその虎千代、である。上泉は別枠。

 この夕餉で教えてやろう、育ちの違い、格の違いと言うものを。

 器量とは、容姿だけに非ず。


     ○


「ささ、采女様、お注ぎ致しますわ」

「おお、申し訳ないおとら殿。客人にこのようなことさせて」

「いいえ。これも、女の仕事ですから」

 とらこと虎千代はニヤリと笑う。確かにあの女、顔は良い。業腹ではあるがこの虎千代、良いものは良いと認める性質。

 だが、この時代における女の価値とは容姿だけに非ず。こういった食事の準備、配膳、酒を注ぐことなど、女の仕事は山のようにある。それを優雅に、華麗に、笑顔でこなしてこその高貴な家の子女、と言えよう。

 こういった場に出てきていない時点で、不出来を通り越して無礼。まだ家人だけであればいざ知らず、客人がいるのだからきちんとしていることを見せるべき。さらに客人であるとらが率先して動けば、女としての面子はズタズタであろう。

「あら、提の方もお酒が尽きていますわね。今、汲んで参りますので少々お待ちくださいませ」

「いえいえ、客人にそのようなこと! 小梅! いつまで部屋に引きこもっておる! 早う皆の手伝いをせんか!」

 采女の叱責、館中に響き渡る声を聞きつけ、重い腰を上げたのか足音が聞こえてくる。その足取りの重さを聞くだけで、この虎千代、笑みがこぼれてしまう。

 何度でも言うがこの男、かなり性根が腐っている。

「……申し訳――」

 現れた小梅が謝罪する最中、采女が叱責する前に、

「いいえ。采女様、わたくしがやりたくてやっているだけですので。どうか、小梅様を咎めないでくださいまし。彼女に辛そうな顔をされると、わたくしも気分が落ち込んでしまいますもの」

 それすらも潰す。自分の評価を上げる形で。

 采女に笑顔を向け、そしてそのまま張り付けた笑顔を小梅に向ける。男はこう立て、こう使うんだよ、と言わんばかりの貌付き。近くで見ていた覚明など酒を噴き出しかけるほど、そのギャップは凄まじいものであった。

 このおとら、何度でも言うが男である。

「では、行って参りますわ」

「……私も、行きます」

 二人そろって立ち上がる。提をとらが持とうとすると、小梅が先に奪い取るような形で持つ。それを見てとら、満面の笑みを浮かべる。

 部屋から出て、酒が貯蔵されてある場所に向かう二人。

 少し部屋から離れたところで――

「……当てつけ?」

「そんなことはありませんわ。ただ、やるべきことをやっているだけ」

「客人なのに?」

「それが女の仕事でしょう?」

「……今日の夕食、肉は全部私と虎が狩ってきた」

「それは女の仕事ではない、と言うことですわ。誰しも生まれや育ち、男女でもやるべきこと、求められることは変化しますの。手っ取り早く評価を上げるなら、求められる役割を完遂するのが賢いやり方でしょうに」

 とら、この時代における正論でぶん殴る。本人は微塵もそんなことを思っていないし、くだらないとすら思っているのだが、世の中にはくだらなくともまかり通っている正しいとされるモノがあり、個人が反目してもどうしようもないことは理解している。だからこそ、こうしてそれを利用することも出来るのだ。

「くだらない。私は……賢くなくていい」

「あらあら、武士の娘がそのようなこと。マタギにでもなるおつもり?」

「……それが、私の夢」

 そう言ってズンズンと歩いて行く小梅。その背を見てとら、虎千代は「ふん」と鼻を鳴らす。まるで昔の、姉のような物言いである。容姿でも不愉快に思ったが、どうやら性格も好きになれぬようだ。あれだけ我が道を征くのだ、と豪語していた姉でさえ、気づけば女の生き方を、振舞いを押し付けられてしまった。

 そんなことを思い出してしまったから、気分が悪くなってしまう。

「……武士の子が、マタギになどなれるかよ」

 ぽつりとつぶやき、虎千代は『とら』の仮面を被り、彼女を追いかける。


     ○


 宴もたけなわ、大いに賑わいを見せる酒宴。木杯に酒が切れると、とらはすかさず銚子より注いで回る。まあ、回ると言っても千葉の家人数人と覚明なので大した手間ではない。それでも心底面倒くさいとは思っているが、そこは性根が捻じれている虎千代である。マウントを取るためならば苦労など厭わない。

 ちなみに酒は台所及び蔵にある徳利(現代とはサイズが異なる)から、提を用いて汲んできて、銚子に移し、それぞれの盃や木杯などに注ぐ。と言うのが基本である。酒器が現代の形となるのは江戸時代以降のお話。豆知識。

「…………」

 ただ、小梅のおぼつかぬ振舞いを、動きを見て、虎千代は何とも言えぬ心地になっていた。地侍とは言え武家の娘、何故このようなことも出来ないのか、と思う一方で昼間の彼女の姿を思い出すと、どうにも胸がざわついてしまう。

 ここは自分の居場所ではない。息苦しそうにしている様が少し――

「関東の雄は山内上杉、弱体化の一途をたどる公方どもなど何するものぞ! つまりはその後ろ盾を以て関東に寄生する余所者、北条を騙る伊勢氏如き、我らの敵ではないのだ。そう思いませぬか、覚明殿!」

 采女の息子であろう男が床に拳を打ちつけながら、血気盛んに問う。どうやら酔いも回って来たのか、すっかり仕上がっている様子。

「いえ、拙僧は政治にとんと見識がなく」

「政治の話ではござらぬ。道理の話でしょうに! 古くは鎌倉に幕府があった時代から、我々は関東に土着していたのです。それをいきなり他所から現れて、たかが二代で関東管領、利用しているつもりが利用されている古河公方には呆れ果てる!」

「しかり! 堀越公方の末路を知ってなお、彼奴らは自身の立場のため、伊勢氏を立てる。そのような醜態を晒すから、関東諸侯よりそっぽを向かれていると、何故わからぬ。実に嘆かわしいことだ。武士の興り、鎌倉が泣いておる!」

「鎌倉と言えば彼奴等、鶴岡八幡宮の社殿を再建したとか」

「馬鹿馬鹿しい! 里見氏との戦いで自分たちの手で燃やしながら、それで今度は箔付のために再建と来た。笑わせてくれるわ!」

「どうせ張りぼてであろう。関東諸侯は皆、道理に反す故、手を貸そうとはしなかった。であれば必然、ろくなものなど建てられまい。頭を下げ、手を貸してほしいと頼めばいいものを、独り占めを目論むから無様を晒すのだ」

「だが、噂では再建した社殿、相当なものであったと――」

「ありえん! それも伊勢氏が自らで流した風説に過ぎん。じきに正しき評価が流れてこよう。中身のない張りぼて、連中など所詮虎の威を借る狐よ」

 もはや覚明ら客人を放っておき、家人総出で悪口大会に発展していた。出るわ出るわ、急進する北条への罵詈雑言の数々。こんな場所で北条に味方でもしようものならば、それこそ道理を蹴っ飛ばして斬られかねないだろう。

 これがおそらく関東に代々土着する者たちの本音。

 そんな中、他所から根付かんとする伊勢氏改め北条にはやはり興味が出てしまう。たかが二代、それで歴史ある関東の武士を抑え込み、手を変え品を変え勢力を拡大している北条、その凄みはこの一幕を見てもわかる。

 何よりも虎千代は知っている。土着し、長い年月をかけてその地に根付いた者たちの厄介さを。越後上杉の首に縄を括りつけて、権威で抑え込もうとしても容易く服従などせず、隙あらば寝首をかかんとする者たちを。

 祖父が、父が、長尾家が苦心してきた一番の敵、国衆を彼らは如何に抑えつけているのか、もしくは抑えつけると言う考え自体が間違っているのか。

(とりあえず、小田原の前に鶴岡八幡宮へ行くぞ)

(また勝手に……まあ、構わぬよ)

 ひっそりと覚明と目的地の打ち合わせを済ませ、テキパキと酒を注いだり彼らが欲しいタイミングで欲しい相槌を打ってやる。そうすることで彼らは、やれ小梅は気が利かぬだ、こんなことでは嫁の貰い手が、だとか説教が始まる。

「…………」

 たまりかねたのか小梅は席を立ってしまった。

「小梅! まったく、あの娘は。失礼いたしました、お二方。後日きつく言っておきますので、どうかお許しを」

「いえ、背丈は充分ですが、まだ幼いのでしょう。こうした酒宴が退屈に感じるのも仕方なきこと。とら、少し相手をしてあげなさい」

「え?」

 いきなり覚明から振られ、少し驚きを見せるとら。何故自分が追わねばならぬのか、そもそもこう仕向けたのは昼間の逆襲に燃える自分である。

「そのような気遣い無用ですぞ」

「いえいえ、実はここだけの話、京の都であった事件について、良いお酒をふるまって頂いた手前、どうしても語りたくなってしまいましてな」

「ほほう、京の事件、ですか」

「女子どもには、その、あまり耳に入れたくないのです」

「なるほど。それは実に興味深い」

 とらもその話聞きたいのだが、もう完全に覚明によって退出する流れが作られてしまった。普段、このようなことしない癖に、何たる身勝手。

 自分には京の話など一つもしてくれたことないのに、と内心憤慨しながら一礼し、酒宴の席を立つ。これだから大人は、と腹を立てながら小梅を探す。


     ○


 館の中には見受けられなかったので、外に出てみると馬を繋いでいる場所に彼女は座り込んでいた。後ろ姿でもわかるほどむくれているし、拗ねている。

(覚明め。おそらく普段しない俺の立ち回りを見て、二人の間に何かがあったと察し、要らぬ世話を焼いたのだろう。女子どもを引き合いに出したのは、子どもっぽい真似をせず大人になってやれ、というところか。あのクソ坊主め)

 まあ、確かに少々やり過ぎた気もしていた。ここは長尾家の男児たる器の大きさを見せるところであろう。すでに手遅れな気はしないでもないが。

「こちらにおられましたか、小梅様」

「……変なのが来た」

 変なの、それだけで本人以外には狭量なことで有名な虎千代は青筋を浮かべる。

「変などと、傷つきますわ」

 何とか取り繕うも――

「じゃあ、なんで女の振りをしてるの?」

 この一言で、全てが瓦解する。

「……は?」

「それ、女装」

「なにを、馬鹿なことを。何処からどう見てもわたくしは――」

「蹴った時、硬かったから」

(……あの時か)

 虎千代は馬に乗った彼女に蹴られたことを思い出した。その感触でバレることなどさすがに想定外。そもそもそこまで冷静ならば蹴るな、女だったらどうするつもりだったのだ、など考えが浮かぶも、それは一度脇に置く。

「……わたくしは女、そうですわよね?」

「違う」

 はっきりと断言する小梅を見て、とらはやれやれと頭を振る。

 そして、虎千代はとらの仮面を、脱ぎ捨てる。

「本当に……愚か」

 その瞬間、虎千代は脇差を抜き放ち、一気に距離を詰めて小梅の喉元に添える。あまりに早業に、彼女は反応できないでいた。

「思慮が足りねえな。それを暴けば、どうなるのか想像も出来てねえ」

「……ほら、女装だった」

「その正否に意味がねえことぐらい、この状況でわからねえか? 黙ってりゃ穏当に済んだことだぞ。要らぬ言葉一つで、死ぬ。それが武士だ」

「……くだらない」

「くだらなくとも死ぬ。俺は本気だ。其の方、何故女装をしているのかと問うたな。それが必要だからだ。俺が男だと、俺が外に出ていると、漏れ出てはならぬから、こうして工夫を凝らしておる。しかもそれなりに名の通った僧を連れてな。想像しろ、推測しろ、それをする者の家格と、自分の立場を鑑みて」

 ずっと不愉快であった。この女の眼が。振舞いが。容姿で自分が劣っていたことは悔しくはあっても不愉快ではなかった。むしろ出会い方次第では愉快な想いを抱くこともあっただろう。獲物を奪われたこともそう。女だてら、よくもまあ鷹などを操り狩りをするものだ、と感嘆することもあったかもしれない。

 だが、その後の振舞い、宴席などでのそれは武士の娘、その宿業を知る虎千代にとっては耐え難きものであった。姉の苦悩、文とて実綱の、直江の意思によって好きでもない男の世話などを押し付けられている。故郷から主家の城、息の詰まる場所に押し込められ、相応の振舞いを求められ続けているのだ。

 自分を立てないのは良い。そんなことを求めてはいない。凡なる男を才ある女が立てる、それを馬鹿らしいと思う自分はいる。だけど、それでもこの世は今、男社会であり、それを強いられ、飲み込んでいる者たちがいる。

 そんな中で必死に生きている者たちが、いる。

「不興一つで死ぬ世界だ。女の生死など史書にも残さぬ世の中で、其の方は無敵のつもりか? 俺が本当に斬れぬと思っているのか? それほど自分の命が重いと考えているのなら、其の方の考えはあまりにも浅く、甘い」

「何を怒っているの?」

「道理を説いているだけだ。其の方は今、口にすべきでない言葉は発した。想像力の欠如だ。その阿呆さ、どうにも虫唾が走る」

「……身勝手」

「それもまかり通る。俺が男で、其の方が女、そして其の方が地侍の千葉で、俺の方が圧倒的に家格は高い。なればな、大概のことはまかり通るのだ。それが今の世の、道理。其の方が何をほざこうとも、俺がどう思おうとも、それは変わらぬ」

「世の中、家、男、女、本当に、くだらない」

 ここまで怯え一つ見せず、表情をほとんど動かさなかった少女の顔が歪む。心底この時代における女の生き方が性に合わぬのだろう。こんな顔を、かつて自分は見たことがある。あれは寺に入れられる前、強かった姉が見せた、弱さ。

 本当に、彼女に会ってから心が、揺れてばかりだ。

「私がしたい生き方を、何でさせてくれない? なんで、男は皆、女も、私の好きにさせてくれないの? どうして女は、好きに生きちゃいけないの?」

「男もそうだ。誰もが演じている」

「なんで?」

「そうせねばならぬからだ」

「だから、なんでそうしないといけないの?」

「……それは」

「どうせ答えられない。お父様問うても、お母様に問うても、誰も答えてくれなかった。それが決まりだって、当たり前だって、そればかり」

 彼女の眼に虎千代は自分を、かつての姉を見る。

「殺したければ殺せばいい。別に、そんなに未練はない」

 息苦しい、と声にならぬ悲鳴がした。

「ならば、何故泣く?」

「……知らない」

 そんな気が、したのだ。

「……クソ」

 虎千代は刀を引き、鞘に納めた。

「小心者」

「うつけが。これは俺の寛容さだ。他言無用、公で俺の正体をバラさば、俺はぬしを斬る。必ず、絶対に……今、そう決めた」

「ビビり」

「殺すぞ!」

 どう考えても口は封じるべきなのだ。おそらく、この性格であれば家を出た前科などいくらでもあるだろう。斬り捨て、山に埋めてしまえば、しばらくバレることはない。関東を出て、越後に戻れば露見したとしてももう遅い。

 守護代の家にわけのわからぬ受領名を騙る地侍如き、何が出来るか。

「俺も意地が悪かった。昼間の意趣返しにしては少々、趣味が悪かったわ」

「本当に、クソみたいな性格だと思う」

「……ひ、人が素直に謝罪してやれば付け上がりおって」

「私、何も悪くない」

「俺の獲物を取っただろうが! 長い距離を俺が追い込んだんだぞ! 最後の美味しい所だけ掻っ攫いおって。そもそも地侍風情が鷹狩なんぞな、百年早いわ!」

「虎は私が拾って育てた。文句を言われる筋合い無し。どんな状況でも、狩りは獲物を仕留めた者が総取りする。やはり、私は微塵も悪くない」

「ああ言えばこう言う。やはり不愉快な女だ」

「安心して。私も同じこと思っているから」

「……もう良い。疲れた。俺は寝る」

 そう言って虎千代は踵を返す。普段の自分ならば絶対にこんな隙は作らないし、躊躇うこともない。それでも今日は、そんな気になれなかった。

 自分にも非があるから、それで刃を引くほど出来た人間でもない。

「なんで、私を殺さないの?」

 なんで、それは自分が聞きたい。

「……ぬしの、『なんで』に答えられなかったからだ」

 だから、無理やり理由を付けて背を向ける。ただ、その答え自体に嘘はない。何でそうしないといけない、何でそう生きねばならない、決まりだからとしか言えぬは己の浅はかさ。決まりで当たり前、それしかない。

 そういうものを自分は一番嫌っていたはずなのに。自分も、姉も、それなのに気づけば雁字搦め、旅をする機会が巡って来ただけ自分は幸運だろう。

 きっと、春日山に戻れば嫌でも武士として生きることになる。元服し、戦場に出て、生きるか死ぬか。望む望まぬにかかわらず――

 縛られた自分に、抜け出す術を持たぬ自分に、何故あの問いが答えられようか。武家に生まれたから、なんと寒々しい答えであろうか。

 そんな自分が嫌になる。

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