龍の雲を得る如し
富士田けやき
第零話:小田原城の一番長い日
天下は乱れていた。
応仁の乱より端を発した戦の時代、後に戦国と呼ばれる世はまさに地獄であった。力を失い名ばかりとなった京、慢性的な飢饉により食料も不足し、それゆえに諸大名は自らの領地を維持することすら難しく、他所から奪い取るために戦を仕掛ける。
道を歩けば野盗と出くわし、そうでなくとも戦があれば乱取りと呼ばれる略奪行為が横行し、それが当たり前とされる時代であった。弱き者は奪われるだけ。自分が生きるために相手から奪うのだ。侍はもちろん農民も刀を、槍を握って戦うのだ。戦が人々と隣り合う時代、それが戦国の世であった。
荒れ果てた御所の姿こそがこの時代の写し鏡である。
そんな時代に、一匹の龍が生まれ出でる。
龍とは力である。人知及ばぬ力の象徴こそが龍であり、仏教における天龍八部衆や日本の各地にある竜神信仰など水を司るモノとして、恵みの雨をもたらすこともあれば川の氾濫や不漁をもたらすとされていたことからも、崇め、畏れていた。
龍とは制御不能なモノである。人は祈り、乞うしか出来ない。
理解出来ると思うことなかれ。龍に人の世の理は通じない。龍の瞳に映ることのみが彼にとっての真実であり、彼が見えざるモノに縛られることはない。
天下は乱れている。龍の眼にもそう映る。
ならば龍は如何とするか、それがこの物語である。
○
1561年3月、小田原城付近は戦火に包まれていた。
民草の悲鳴がこだまする。食糧は奪われ、女は犯され、抵抗する者は皆殺し、まさに戦国の世を凝縮するような悲劇が路傍の石の如くあちこちに散見された。珍しい光景ではない。戦争があればこんなもの日常茶飯事である。
だが、これだけの規模は珍しいかもしれない。
十万を超える軍勢による小田原城攻め。籠城を選択した北条方を包囲し、小田原城下及び近郊を略奪しながら、火も付けて回っていた。
小田原城下の民はその惨劇を見て絶句する。そう、小田原城下の民は皆、堅牢なる小田原城内に収容されていたのだ。であれば今、虐殺されている者たちは誰かと言うと、小田原城近郊以外から追いやられ、逃げ場を失った武蔵南部及び同じ相模の民である。彼らをあえて泳がし、逃がし続けることで北条のお膝元、小田原城近郊まで追い込み、地獄絵図を創り出すことに成功していた。
全ては十万を従える男の指示によって――
「お助け下さい。どうか、御慈悲を」
「死ぬか、生きて泥をすするか、どちらかだ。今、選べ」
「……救いを」
「そうか」
一人の鎧武者が女の首を太刀で落とす。僅かばかりの力みもなく、鋭く振り抜かれた太刀は微塵の抵抗も感じさせない。痛みを感じたかどうかは当人次第、男が知るところではなく、断ち切った後は振り向くこともなかった。
炎が家屋を、木々を飲み込んでいく。家に隠れていたのか火が服に燃え移り、外に飛び出しのたうち回る者もいた。男の前にも藻掻き苦しむ者が現れたが、
「あ」
一閃、問答無用で切り捨てた。倒れ伏し、死してもえる死体を一顧だにせず男は歩む。長い黒髪がてらてらと炎を反射し、美しく輝く。
切れ長でどこか中性的な相貌、艶やかな黒髪、純白の肌、身の丈はそれほど大きくないのだが、視線を合わせると何故か大きく見えると専らの噂。
「こちらにおりましたか、御屋形様」
その鎧武者を見つけ、これまた見目麗しい鎧武者が近づいてくる。
「長親ァ、酒だ、酒を用意しろ。あと塩ォ」
「……ほどほどにして頂きたいのですが」
「口答えするとは良い御身分になったじゃねえか」
「身を案ずるもまた忠義です」
「口ばかり達者になりやがって……今回のは酔うためのものじゃない。戦に使うから疾く用意しろって話だ。理解したらさっさと小荷駄奉行を強請って来い」
「それであれば構いませんが……何に使われるのですか?」
長親と呼ばれた男の問いに、妖艶な笑みを浮かべながら男は答える。
「北条との酒宴だァ」
男はケタケタと笑いながら城の方へ向かっていく。長親はしばし考え、考えても無駄だなと思い至り、兵糧を管理する小荷駄奉行の下へ向かった。
○
小田原城周辺では引きこもる北条方に向けて罵声が飛び交っていた。戦国の戦ではお決まりの挑発合戦であり、これらは一応北条方を城から引きずり出すための挑発行為であった。まあ、どちらかと言えば兵たちのガス抜きという側面の方が大きい。罵詈雑言は言った方がスッキリして、言われた方が悶々とする。その積み重ねは存外馬鹿にならぬ効力を発揮するものである。
ただ、今回に関しては北条方の誰にも、ちゃちな罵声など耳に入っていなかった。自分たちの領地が、民が、焼かれ奪われているのだ。
重なった悲鳴が離れていても時折耳朶を打つ。助けを求める声が嫌でも耳に入ってくる。これだけの民が自然にここまで追い込まれるわけがない。意図せねば、山狩りなどを重ねねば、このような状況が生まれるわけがないのだ。しかも、捕虜として捕縛した兵も挑発の材料として、これ見よがしに惨殺しているのだ。これ以上の挑発があろうか、こんなものは鬼の所業である。
如何に乱取りが戦国の倣いとは言え、この景色は度が過ぎている。
「……私は、この光景を生涯忘れぬぞ。絶対に、忘れてなるものか」
小田原城、もとい北条方を実質的に統括する北条氏康は憎しみに顔を歪めていた。新参者の自分たちを慕ってくれた領民たち、手塩にかけて築いてきた領地が燃えているのだ。昼時だというのに厚い雲が天を覆い尽くし、薄暗くなった世界に炎がよく映える。城にいてなお――よく見える。
戦国の世を濃縮したかのような地獄絵図が。
「失礼いたします!」
「……どうした?」
「蓮池門より報告、あの男が現れました!」
「閉ざせ。何人であっても、この小田原城へと踏み込ませるな」
「それが、どうにも様子がおかしく――」
「……氏政に代わり、私が様子を見てこよう。また諸将にはくれぐれも逸ることなかれ、と伝えておいてくれぬか?」
「御意」
北条氏康は守りを固めてある蓮池門近くの物見やぐらに向かう。様子を窺うだけ、隙を見せる気は毛頭ない。武田の動き次第ではまだこの戦い、活路はあるのだ。そもそもの切っ掛けである永禄の飢饉、これがあった以上、彼らにも余裕などないはずなのだ。この籠城こそが敵方の急所なれば、何があろうと固めるのみ。
「何を考えている?」
関東にて敵なし、幾多の苦難を乗り越えじわじわと勢力を伸ばし、関東を手中に収めた今の自分たちが、こうまであっさりと押し込まれたのだ。
数多の城を落とし、喉元にまでやってきて太刀を突き付けた男。
「貴様は――」
越後からやって来た龍は、蓮池の端に馬を止め、見せしめに処刑した捕虜の死体を見つけたと思ったら、あろうことかそこに腰掛けた。
「何を――」
そこは北条方の間合いである。鉄砲の射程圏内、距離にして1町(100mほど)にも満たない距離である。いち大名があんな場所で、まるで自分の陣中が如く振る舞うなどありえない。届くのだ、そこは。こちらの攻撃が。
「――考えているのだ⁉」
鉄砲衆が惑い、上役に視線を向ける。その途中で物見に立つ氏康が目に入り、思いっ切り頭を下げた。氏康は「よい」と手を上げ彼らの頭を上げさせる。
「おう、来たか氏康」
「…………」
面識はないはずだが、あの男は一目でこちらの正体を掴んだ。こちらの鎧姿から察したか、それとも何か別の理由が――
「こっちに来て飲まんかァ? 良い酒だぞ、道中で拾ったのだが……悪くない」
良く通る声であった。憎たらしいほどに、涼やかに響く声を聞き、氏康の脳裏に何かが浮かぶ。それは遠い昔、どこかで聞いたような――
「あてに塩もある。さらに、お、梅干しか。気が利くようになったな長親の奴も。そういうわけだ、折角の機会、門を開けて俺と一献交わそうぞ! なに、取って食いはせんよ。それとも未だに酒は朝しか飲まんのか?」
氏康は顔を歪めながらも押し黙る。相手のペースに乗るべきではない。何故相手が自分の習慣を知るのかはわからぬが、それを問いかけること自体相手の術中に入り込むような気がしてしまう。黙して語らず、それがこの場の最善。
塩をつまみ、ぺろりと舐めた後、男は酒を一気に呷る。くう、と旨そうに酒を飲むのだ。ここが戦場であることなどお構いなしに。ここが敵の鉄砲、その射程圏内であることなど意にも介さず、男は塩を、梅干しを、酒のあてとして楽しんでいた。
これだけの惨劇を生んだ男が、である。
「……あの男を、悪鬼を撃て!」
氏康の命令によって鉄砲衆の惑いが吹き飛ぶ。その安い挑発、後悔させてやる。大名は前線に出るものではないのだ。一介の武将であれば理解も出来るが、すでに越後をまとめつつある大名のすることではない。
十丁の鉄砲が火を噴く。当てられる距離である。
それなのに――
「かぁ、塩っ気と酒の組み合わせは堪らんなァ」
あの男は酒を飲む。ひょうたんを一本空け、臆することなく二本目に口を付け始めた。鉄砲で撃たれたのに、当たっていないが十発全てが近くに着弾したのに、それでも男は微塵も揺らがず、酒を呷る。意図がわからない。
それ以上に、精神が理解できない。
「次弾、用意せよ!」
撃ち続ければ当たる。射程内に的がある以上、それは自明の理である。あの男の胆力は理解した。だが、当たってなおあの平静が保てるか。
あの男もまた人なれば、当たれば死ぬのだ。
「おいおい、もう二本目がなくなるぞ。いい加減顔を出したらどうだ? 俺はただ一人だ。供も連れていない。何を臆することがある?」
氏康は目で合図する。鉄砲衆も理解に苦しむ戸惑いはあれど、敬愛する氏康の前で無様な姿を見せることはできない。次は当てると息巻いていた。
訓練は積んでいる。次は必ず――
「何を怖れることがある? この虚構に満ちた軍勢如きに。負け続けの関東管領上杉憲政、風見鶏の関東諸侯、ただの人でしかないこの俺の名に縋り、集いに集った有象無象、烏合の衆だ。貴様らに比ぶるまでもない!」
必ず、
「カタチ無きモノに意味はない。名も、権威も、神仏すらも、何もかも虚構だ。貴様が力ある名将だと言うのなら――」
当てる。
二度目の轟音が戦場に響く。
「この俺を、殺してみろォ!」
弾丸は男の袖を撃ち抜いていた。それ以外も全て、先ほどよりも近く、足元に着弾し跳弾で足をかすめた弾もあれば、顔をかすめるような射線もあった。風とは思えぬ不自然な髪の起こりが、弾がかすめた証左であろう。
それでもなお、まるで微動だにしない。
それはまるで――人ならざる者のように見えた。
「……び、毘沙門天の、化身だ。噂は、本当だったのか」
「あれほどの蛮行をして、なお神仏はあちら側についているというのか」
「だ、だが、先ほどは妙なことを言っていたぞ。噂じゃ信心深いはずだが、先の発言では真逆、いや、聞き違いなのか? わからない、あの男が、見えない」
逆に北条方が浮足立ってしまう。そもそもがこちらの鉄砲衆の腕ならば、普段一射目で誰かは当てている距離である。それを二射して当てられたのは袖口のみ。
「……怪物め」
ぽつりと誰かが溢した言葉を聞き、氏康は歯噛みする。ただあそこに座って酒を飲んでいるだけで、罵詈雑言など目でもない動揺をこちらに与えてきたのだ。この時代はまだ、誰もが神仏を信じていた時代である。
このような神がかり的な結果は、時に百の死よりも効果を発揮する。
「おっと、用意していた三本、全部飲み干してしまったな。残念だが、袖にされては仕方がない。今日のところは退くとしよう」
止めていた馬にまたがり、悠々と去っていく男。死をも畏れぬ蛮勇、理解し難き思考、余人の理を越えたところにあの男はいる。
わけのわからぬ行動であるが、
「また来るぞ」
それゆえに北条方に与えた影響は甚大であった。人の振舞いではない。武将の、大名の振舞いでもない。あれは神仏の、人を超えた者の振舞いである。
「あれが越後の、長尾景虎、か」
彼らにはその威容が――龍に見えた。
○
越後の龍、軍神、など数々の異名、逸話を残した戦国大名。
生涯を通し70戦以上の戦場を駆け、敗北はたったの2度。
其の名は上杉謙信。
輝かしい戦績から戦国最強の武将として呼び声高き男であるが、彼の行動には謎が多い。義を重んじ、神仏を貴び、私欲の無い高潔な男。
なれば何故、彼の軍勢は乱取り(略奪)を重ねたのか。
何故彼は自身の居城、春日山城に巨万の富を残したのか。
そもそも何故彼はあれほど戦を愛したのか。
謎多き武将、上杉謙信。
この物語は荒れた時代に生まれた一匹の龍である彼が、
如何に生き、如何に死ぬか、というものである。
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