2.羨望と嫌悪

 こじんまりとした玄関に学校推奨の革靴があるのを見て、成臣は今日が土曜日だったことを思い出した。

「ただいまあ。はあー、カレーのいいにおい」

 子どもみたいにパンプスを脱ぎ捨てて、つばさはパーテーションの向こうへと消えてしまう。玄関に取り残された成臣は、クロスでグラスを拭きながら立ち尽くす三室と無言のまま向かい合っていた。

 三室は華奢な眼鏡の奥にある目を何度もしばたかせてから、ゆっくりと口をひらいた。

「伊沢は、カレーは福神漬派? おれ温泉卵派で」

「……いや、特にこだわりは。ていうか、おれは食うことになってるのか」

「まあ、この流れだとそうなるよねえ」

 乾いた笑いをこぼして三室はパーテーションを振り返る。その横顔には慈しみにも似たやわらかさがあった。

 成臣は脱ぎかけていたコンバースへ踵を押し込んだ。

「おれ行くわ」

「え、食べていかないの」

「あいにく口のなか傷だらけでカレーは無理」

「大丈夫、昨日の残り物だけどふわふわ豆腐ハンバーグもあるから」

 背を向けた成臣は大きく首をひねる。

「じゃあそれで、って、おれがいうと思った?」

「あー……、豆腐がきらい?」

「ふざけてんのか」

「結構まじめなんだけど」

 困り果てた様子で三室は頭をかいた。成臣はドアに背を預けて大きく息をつく。

「つばさと付き合ってるんだって? 週末はいつも泥みたいになってるって」

「あはははは、お恥ずかしい」

「そんな大事な泥時間におれがいたら邪魔だろう」

「うーん、でもつばさが連れてきたんなら、仕方ないよね。ここはつばさの部屋だから」

 言葉そのものだけでなく、眼差しにもいっさいのわだかまりを感じさせない。それが嘘や建前ではなく彼自身の本心であることを疑う余地はなかった。

「だったらもうひとつ。おれが怖くはないのか」

 成臣と三室が通う高校は校風も偏差値も特段目立ったところのない公立学校だ。スカート丈を膝上にしたり、ベルトを色付きのものにしたりする生徒はいても、他校の生徒を病院送りにしたり、週に数日しか登校しなかったりするような生徒は成臣くらいだ。あまり口数が多いほうではないうえ目つきも鋭く、しかも登校するたび新しい傷を作っていれば、入学から数週間もしないうちに成臣に話しかける生徒はいなくなった。三室と言葉を交わすのもいまが初めてだった。

 拭き終えたグラスを置いて、三室は眼鏡を外した。制服のポロシャツの裾でレンズの汚れを拭いながら、どこか冷たいような笑みを浮かべた。

「伊沢が知ってるかどうか知らないけど、百人を病院送りにして、そのうち数十人は闇に葬ってるってことになってはいるよね。だけどそれが真実かどうかは関係なくてさ、正直興味もないし、結局おれ自身は伊沢になにをされたわけでもないから、こわいとは思わないかな」

 出席日数足りるのとは思うけどねと、眼鏡をかけ直してにこにことする。

「ははっ」

 成臣は顔をそらして、口もとを笑みのかたちに歪めた。苛立ちや悔しさに似た震えが腹の底にある。その正体を知りたくなくて、成臣は痣だらけの腹を拳でぐっと押さえた。

「やばいくらい腹減ってるから両方食うわ」

「カレーに乗せる系?」

「いや、それ豆腐の味死ぬだろ」

 乱暴に靴を脱いで部屋へあがる。パーテーションの向こう側からは調子外れの鼻歌が聞こえた。


 専門店のような味わいのチキンカレーを平らげて、成臣はつばさの部屋をあとにする。車で送るとつばさは言ったが、ゆっくり帰りたいからと成臣が返すと気持ちを察したのか、気をつけてと玄関先で見送ってくれた。

 大通りを抜けた先には、海岸が広がっている。夕暮れの空が溶け落ちた海は透明感も素朴さも失って、光を持て余しぶくぶくと肥えた成金の傲慢さを、それでもただ美しく湛えていた。

 男に捨てられ自棄になった母の思いつきでこの街へ越してきて半年になる。母は詳しく話そうとはしなかったが、どうやらここは母が育ち、成臣が生まれた街のようだった。むかしの古いつてを頼って彼女は店を借り、青いアイシャドウで眼差しを彩ってママとして働きはじめた。

 防波堤の上を歩いていると、横顔に強い光を受けた。鈍く、重い、質感のある光だった。見やると、太陽が海の果てへと溶けゆくさなかだった。あの大きなかたまりは毎日飽きもせず絶頂のなかで死んでいく。

 この光を美しいと思うけれど、愛そうとは思わない。もといた街は午後の稜線が青く美しかったが、それも成臣にとっては情感をともなわない、単なる記憶でしかない。哀愁はなく、もしもう一度訪れることがあっても山々を美しいと、まるで初めて訪れた人のように思うだけだろう。

 立ち止まり、光に目を細める。打ち寄せる波のように胸の奥で行きつ戻りつする感情がある。それが羨望だということに、成臣は他人事のように気づいていた。

 煙草に火をつけて歩き出す。太陽が沈みきってしまうと、成臣はもう海を見ようとはしなかった。

 空が深まり、思い出したように街灯が明るくなる。家路を急ぐ人たちが成臣を追い抜いて散り散りになっていく。帰りたくもないのに、この足も、空も、街も、立ち止まってはくれない。

 川沿いの道へ差し掛かったとき、角の店から出てくる男の姿があった。店の前に座り込んでいた若い男が、はじかれたように立ち上がり、すこし離れた駐車場へと走っていく。

 来た道を引き返して彼らをやり過ごすことをぼんやりと頭の隅で考えながら、そうできるといいのにと思いながら、その気持ちが真摯であるほど成臣は歩みをとめることはしなかった。

 店から出てきた男は煙草をくわえて、シャツの胸ポケットやスラックスのポケットを探っていた。

 彼の目の前に成臣はライターの火を差し出した。

「ああ、成臣。おかえり」

 男ははかなげに目を細めて煙草に火をつけた。吐き出される煙はいつもどこか寂しげで、成臣にはため息のように感じられていた。

 灰崎はいざき櫂斗カイト。彼は母の幼馴染で、はじめての男で、東龍征ひがしりゅうせい会系灰崎組の若頭だった。

 櫂斗は成臣の顔の傷を視線で撫でる。

「派手にやったな」

「たいしたことないです」

「その様子じゃあ、口のなかも相当だろう」

「まあ……」

「次はおれに連絡しろよ。加勢を送ってやる」

 はいとも、いいえとも成臣は返さない。ただ、うまそうに煙草を吸う櫂斗の横顔を見つめた。

 成臣の目に、櫂斗はあまりやくざらしくはなかった。やくざといっても成臣が知っているのは、櫂斗が運転手として連れてくる若いチンピラばかりだが、それでも彼らにはあって櫂斗にはないものがある。それが何なのか、成臣はまだ言葉にすることができない。荒々しさ、図々しさ、そういった表面的な部分だけではなく、もっといきものとして根源的な、倫理観にかかわるところかもしれない。やくざを相手に倫理というのもおかしな気がしたが、櫂斗には規則も、道理も、やくざのけじめもなにもない。その日の気分のまま息をして、母を抱いて、なんの理由もためらいもなく人を傷つけるのだろう。

 いつか母はこの男に殺されるのかもしれないと思う。それは行き過ぎた愛の、情事の果てのことかもしれないし、それらとは一切かかわりないところの都合ゆえかもしれない。また、母が望んで迎えた結末かもしれない。だが成臣にとってはどれもおなじことに思えた。

 店に明かりが灯る。小窓のカーテンに母の影が映った。

 母の死。成臣は櫂斗に会うたび、その横顔を見ながら遠くない未来のひとつとして考える。だが一度だって明確な殺意や憤りが湧きあがったことはなかった。

 櫂斗とおなじように成臣もまた欠けているのか。だとしたら、母を殺されたとしても成臣は変わらず櫂斗へライターの火を差し出すのだろう。

 よく磨かれた黒いセダン車が店の前でゆっくりと停まる。運転席の男が降りてきて後部座席のドアを開けた。

「なあ成臣」

 車へ向かいかけた櫂斗はふと立ち止まり、成臣を手招きした。一歩近づくとポロシャツの襟を掴まれて強く引っ張られる。

「おまえはいつかおれのところに来るよ。きっといいやくざになる」

 襟を離れた手が顎に触れて、中指と薬指が成臣の口のなかへと差し込まれた。殴られたときに噛んで切れたままの傷口へぐっと爪を押し付けられる。成臣はたまらず眉を歪めたが、抗うことも、声を洩らすこともしなかった。

「ほらな」

 囁くように言い残して、黒い車は走り去っていった。成臣はふたたび溢れてきた血をアスファルトへ吐き捨てた。

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