紫紺のアンダンテ

望月あん

1.ブラウスと蝉しぐれ

 場違いなブラウスだと、目の前で頭を下げ続ける女の背中を見て思う。

 成臣ナルオミは制服のスラックスのポケットに両手を突っ込んだまま、見ていられなくなって窓の外へと視線をそらした。

 年代物のエアコンが唸りをあげている。これ見よがしに蝉が鳴き、強すぎる陽光が薄汚れた窓ガラスで乱反射していた。ただじっとしているだけで汗が首すじを伝っていく。まとわりつくような熱気で、噛み切った唇がひどく疼いた。

 分厚いレンズの古臭い眼鏡をかけた生徒指導教諭は、せわしなく扇子で仰ぎながら、じっとブラウスの襟を見つめていた。口では、今後こんなことがあったら警察へ連絡しますよともっともらしいことを言うくせに、だらしない目つきが成臣を苛立たせた。

「おい、おっさん、見すぎだろ」

「は?」

「あとあんまり扇ぐなよ。加齢臭が広がる」

「なんだと!」

「次は警察へ通報する? したけりゃすればいい。でもそれで困るのはおまえらだってわかってるのか。おれひとり相手に、おまえらのところは十人だ。骨を折った? 全治二週間? 被害者ヅラしやがって。ださいにも程がある」

 成臣は白いポロシャツの裾をまくりあげた。腹には真新しい痣が多数残されていた。教諭は知らされていなかったのか、扇子を閉じて禿げ上がった頭を手で押さえた。

「まったく……」

「クソどもからなんて聞かされたか知らないけど、おれがここへ呼び出されるいわれはない。仲良く遊んだだけなんだよ」

伊沢いざわくん、やめなさい」

 担任の上川かみかわつばさは服を戻すよう、成臣の腕を掴んだ。成臣は冷たくつばさを見返す。

「つばさもつばさだ。なにも知らないうちから簡単に謝らないほうがいい」

「先生と呼びなさい。簡単に、って……、そうさせたのは伊沢くんでしょ。なにがあったのか聞いても教えてくれないなら、わたしだってこうするしかないじゃない」

 小学校高学年のころから教師はみな成臣を透明人間のように扱った。喧嘩をしたときはもちろん、していないときだって目をあわせようとする大人はいなかった。

 けれどつばさは成臣とまっすぐ向き合う。教師としての日の浅さがそうさせるのか、彼女自身のたちなのか、どちらにせよそこに気負いや傲慢さは感じられない。それがかえって成臣には面倒だった。

 いまもまた、怒りとも侮蔑とも異なる強い光を両目にたたえて、つばさは成臣を見上げている。

「……わかった、次は手加減する」

 成臣は生徒指導を睨みつけてそれだけを言うと、つばさを残して先に職員室を出た。

 廊下の壁は何度も塗り直された跡があり、床のいたるところに煙草の吸殻が投げ捨てられていた。その空間に成臣は安堵したような居心地の良さを覚える。からっぽな内側が、ほんの一瞬満たされるような気になるのだった。

 煙草の香りと何人もの足音が近づいてきて、数メートル向こうで立ち止まる。なかには頭に包帯を巻いたり、腕を吊ったりする男子生徒もいた。みな髪を思い思いの色に染めているのを、成臣は戦隊もののようだと思うが、さすがに口にするのは控えた。

 互いにゆるやかに目をあわせながら、逸らしはしない。紫煙だけがゆっくりと成臣のもとへ届く。誰かがガラスの破片を踏みつけて不快な音が響く。それを契機に互いに一歩踏み出す。

「そこまでです!」

 職員室のドアが開き、つばさが双方のあいだに割って入った。

「帰るよ、伊沢くん」

 強引に成臣の腕をひいて歩き出す。罵声や怒声が横殴りの雨のように降りかかったが、来賓玄関口を出るとそれも聞こえなくなった。

「つばさ」

「先生」

「つばさせんせ」

 駐車場へ向かっていた足をとめて、つばさは身悶えしながら深く息を吐き出した。

「伊沢くん、そういうのなんていうか知ってる?」

「さあ」

「あざといっていうの。覚えておいて」

 ころんとしたフォルムの赤い軽自動車へ乗り込む。つばさは後部座席へ促したが、成臣は助手席のドアを開けた。

「だったらそれはあざといとは言わないのか」

 シートにおさまり、座席をうしろへずらすと、長い脚を窮屈そうに組んで当然のように煙草を口にくわえた。

「あんたのそのブラウス」

 火をつけようとしたところで、さっと煙草を奪われてしまう。

「わたしの車は禁煙です。歩いて帰るなら見て見ぬ振りするけど」

 最寄りの駅まではだらだらと続く上り坂を二十分は歩かなければたどり着かない。成臣はライターをポケットへしまった。

 つばさは取り上げた煙草のやり場に困り、結局成臣に押し返す。

「セブンスターか。昔の男とおなじ銘柄で、絶妙にむかつく」

「別にこだわりはない。店にあるのを適当に持ってくるだけだから」

「店?」

「普通は家っていうらしい。ババアがやってる場末のスナック」

「男の子ってすぐそうやってお母さんのことひどくいうよね。ただのマザコンのくせに」

「あんたセブンスターの男になにされたわけ」

 にやついた指摘につばさは眉をしかめて、愛車を急発進させた。

 平日真昼の海沿いの道は車の数もまばらで、夏の日差しが降りそそぐアスファルトは海のように波打ち輝いていた。

 踏切がからむ長い信号を待つあいだに、つばさは手帳をひらいてカーナビへ電話番号を打ち込む。その番号に気づいて、成臣はとっさにつばさの手を掴んだ。

「おい」

「伊沢くんのお母さんに今日のことを説明しに行くから」

「は?」

「当たり前でしょ。向こうの学校はブラウスでどうにかできたけど、わたしはこの問題にきちんと対処しましたって報告書を、うちの学年主任、生徒指導、教頭あれこれに出さなきゃいけないの。そのなかに保護者の方へもきちんと説明しましたっていうくだりも必要になるわけ」

 やはり奇妙な教師だと成臣はあらためて思う。

「つばさ、教師として長生きできなさそうだな」

「なにそれ」

「首を突っ込んでいいところを見誤るやつは早死にするって話」

 後続車両からクラクションが上がる。信号はいつのまにか青へ変わっていた。

「まあでも、おれには関係ないか」

 成臣は番号の続きをさっと打ち込み、目的地まで静かに、窓の外を流れる見慣れた景色を眺めた。


 川沿いの細い道へ差し掛かったところで、成臣はつばさへ車を停めるよう短く告げた。

「道、あってるよね」

「そうだな」

 成臣は車から降りて道先を見やる。古い長屋が並ぶあぜ道の角に、マッチ箱のような小さな家が建っている。ドアの上には赤い瓦をのせたおもちゃのような屋根があり、壁には電気式の看板が掛けられていた。

 その下に、黒服の若い男が座り込んでいる。

「つばさ」

「だから先生って……」

「報告書は捏造しろ。あんたに都合のいいよう書けばいい」

「え、ちょっと伊沢くん?」

 成臣はくたびれた鞄を斜めがけにして、車で来た道を歩いて戻っていく。つばさはつられて車を降りたが、愛車をこのままにしておくわけにもいかず運転席へ戻ってバックで成臣を追いかけた。

「伊沢くん、伊沢くん」

 ミラーで後方を見ながら鞄へ手を伸ばしてくるつばさを、成臣は横目に一瞥する。

「ふつうバックしてまで追ってくる?」

「さっきの角のお店でしょ。どうして急に。おうちの前に男性がいたけど……」

「せんせ、ここ一通」

「わかってる。こういうときだけそんな風に呼ばないで」

「おれはあんたのためを思って言ってるんだ。報告書のことも、一通のことも」

「それは伊沢くんが考えるわたしのためであって、ほんとうにわたしのためではないってこと。わたしはただ、わたしの安らかな週末のためにもやもやを残したくないだけ」

 つばさの指先が鞄の肩紐に触れる。たぐり寄せて握りしめる。

「誰にだって言いたくないこと、知られたくないことはある。わたしにだってある。たとえ教師でもその線は越えてはいけないと思う」

「だったらその手は?」

 鞄を掴む手へ、成臣は視線を向ける。

「わたし、教室であなたの前の席に座ってる三室みむろくんと付き合ってる」

「はあ?」

「ゴールデンウィーク明けにはもうわたしの部屋の合鍵渡してたし、テスト期間中以外は毎週のようにふたり泥みたいになってる」

「それが何なんだよ」

 唐突な告白に、成臣は頭を抱えて立ち止まった。つばさの顔がぱっと明るくなる。

「やっと止まってくれた」

「なに、いまのはでまかせ?」

「ううん、ほんとのこと」

「正気かよ……」

 路地へ白いミニバンが差し掛かる。徐行しているが、停車しているつばさの車との距離はすぐに縮まってしまい、やがてその車も停車した。

「伊沢くんは聞きっぱなしにしたりしないよね。わたしに伊沢くんの話も聞かせてくれるよね」

「おれは聞きたくて聞いたわけじゃないけど、それは考慮されないんだ?」

 ミニバンの運転席から作業服の男が顔を出し、すみませーんと声をかけてくる。追い越してもらえるような道幅はない。

 成臣はひとつ大きくため息をついて助手席側へまわった。

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