3.境界の歩み
全身の痛みに急かされて成臣は目を覚ました。大きく息を吸い込むと肩や胸や腹がひび割れるようだった。どこに寝転がっているのか、頬には冷たいコンクリートの感触がある。薄くひらいた視界には、修理途中のボートが一艘と、錆びついたドラム缶、壁際には湿った段ボール箱が積み上がっていた。
腕を後ろ手に拘束されていることに気づくのと同時に、そばに何人もいるとわかる。なにがあったのか、成臣は混濁する記憶をさかのぼる。
学校は夏休みになっていたが出席日数を都合してもらうために登校し、わけのわからない呪文を聞くような補習を受け、暑いさなかだというのに空き教室の清掃までさせられた。適当に机を動かして帰ろうとすると、つばさから見透かされたように早かったねと声をかけられ、カレーの買い出しを頼まれた。そのおつかいの帰り道、後ろから近づいてきた原付バイクに激しく当たられたのだった。すぐに起き上がってヘルメットを被った男に掴みかかろうとすると、後頭部をなにか硬いもので殴られて、そのあとから記憶がない。
成臣が目覚めたことに気づき、ヘルメットの男が正面にしゃがみこんだ。ヘルメットを脱ぎ去り、おれのことを覚えているかと問う。赤く染めた髪、下唇のピアス、曲がった鼻筋、いつも驚いているような大きな目。成臣は息を吐くように、ああと呟いた。
「おれに殴られながらママ、ママって泣いてたやつだ」
「なんだと!」
赤髪は持っていたヘルメットで成臣のこめかみを殴りつけた。ぱっと皮膚が裂けて、血が頬を伝った。赤髪が甲高い雄叫びをあげる。
夏休み前につばさとともに謝罪に行った学校の生徒だった。あのときの喧嘩に混ざっていたうちの、比較的下っ端の少年らだ。
成臣はにやにやと口を歪めた。
「背後からの奇襲に縛りプレイとか、そういうのが趣味なんだ?」
「黙れ、おまえ、自分の状況わかってんのか。よく考えてものを言えよ」
「状況か。そうだな、せっかく買った玉ねぎが見当たらないな」
「ふざけんな!」
地団駄を踏むように赤髪は成臣の腹を何度も蹴って踏みつけた。体が揺れるたび腕を縛っている紐状のものが手首に食い込む。手触りからすると、プラスチック製の結束バンドのようだった。
こらえようとしたが、成臣は胃のなかにあったものを吐き出した。五、六人ほどの赤髪の仲間らから笑いが起こる。笑い声は作業所全体によく響いた。そのおかげで、成臣の制服のポケットからライターが落ちるこつんという音には、誰も気づかなかった。成臣は手探りでライターを拾い上げ、いつでも点火できるよう手を添えた。
肘を曲げ、それを支えにして体を起こす。はあっと大きく息を吐き出して、うっすらと笑みを浮かべる。ライターの火をつけて結束バンドへと向けた。親指の関節や手首がちりちりと焼ける。痛みが増すほどに、愉快でたまらなくなる。
こいつ頭おかしくなったんじゃねえのという誰かの声に、成臣もともに笑う。
「そうかもなあ、たぶんそうだな」
じき、焦げ臭さがあたりに漂い出す。ひとりふたりが怪訝そうに鼻をすんすんと鳴らした。
「なあ、なんかやばいにおいしないか」
「は? それよりおまえらもやろうぜ。東高の伊沢もいまなら抵抗できないんだから」
「ていうか、まじでなんでこいつ東高みたいな地味高にいるわけ」
「おれもそれ意味わからんのだけど」
「うちの学校に落ちたとか」
「うちに落ちて東に行くわけねえだろ、ばかじゃねえの!」
げらげらと笑いながら少年らは手近にあった工具や鉄パイプを握る。
赤髪が奇声をあげてヘルメットを突き上げた。
「よっしゃ、やるぜえ!」
「それはどうだろうな」
成臣はすぐそばにいた赤髪の膝をうしろから蹴りつけた。赤髪は大きな目をさらに大きく丸くしながら、かくん、と崩れ落ちる。
「へっ?」
「誰が抵抗できないって?」
成臣は赤髪の胸倉を引き寄せて、勢いよく振りかぶった頭を赤髪にぶつけた。
「いっで!」
赤髪は頭を押さえて転がり、もんどりうった。
「おまっ、ふざけんな、なんで動けるんだよ、ちゃんと縛ったのかよ、おい」
「おれはちゃんとやったよ。よく見ろって、あいつ自分の腕ごとバンドを焼き切りやがった」
ゆらりと立ち上がった成臣の足もとには、ぐにゃりと歪んだ結束バンドの一部が落ちていた。成臣の両手首は赤く腫れあがり、溶けたバンドが肌に張りついている。
「まじか、こいつ……」
まわりにいた少年らが、思わず後ずさる。成臣は誰のものともわからない缶ジュースで口をすすぎ、うずくまっていた赤髪の前髪を掴んで無理やり立ち上がらせた。
「あっ、いたい、痛いです」
「だろうな」
返事とともに頬を殴り飛ばした。赤髪は抵抗することもできずにコンクリートの床面に叩きつけられる。成臣は指にからまる赤い髪を払いながら、倒れ込んだ赤髪に馬乗りになり、何度もおなじ頬を殴った。
骨がぶつかるときの衝撃が拳から手首の火傷、そしてこめかみの傷口へと響く。痛いことはできればしたくはない。いまならばわざわざ赤髪を殴らずともこの場を立ち去ることはできる。それでも成臣は殴ることをやめられなかった。
なぜ暴力を手段にできないのか。手段ならば、拳を振り上げるだけで事足りるはずなのに、なぜ何かの代償に暴力を選んでしまうのか。殴るたび体の内側が砂になり、傷口からこぼれ落ちていくようだった。いつか自分は空っぽになってしまう。そう思いはするが、そうなっていくことを踏みとどまろうとはしない。そんな理性はとっくに砂になってどこかへ吹き飛ばされてしまった。
赤髪は体をよじって逃れようとしながら、床を叩いて仲間を呼んだ。
「おまえら見てないで助けろよ……!」
必死の叫びをあげるが、少年らの反応はいずれも鈍い。
「いや、おれらそういうつもりで来てないし、なあ?」
「ここにいるだけでバイト代出すっていうから来ただけだし」
「おれら、おまえほどやらかそうとは思ってないんだよね」
残る少年らもうなずいている。成臣は赤髪を殴る手をとめた。。
「バイト代、二倍……、いや三倍出すからさあ……、頼むよ……」
赤髪は床を叩いていた手をぐったりとさせた。掠れた声でいくらでも出すからと懇願するが、その話に乗る少年は誰ひとり現れなかった。
作業所の鉄製のシャッターが激しく揺れた。外から誰かが開けようとしている。手伝いますという男の声に少年のうちひとりが、ハゲ山だと声をあげた。少年らのあいだに緊張が走る。
「ハゲ山って誰だ」
成臣が問うと、赤髪が腫れあがった目を向けて答える。
「うちの生徒指導」
「ああ、あの加齢臭」
成臣は教師の姿を思い出そうとするが、浮かぶのはつばさのブラウスに透ける水色のブラと三室のカレーの味だった。
掛け声とともにシャッターが一気に押し上げられる。
「おまえら! なにしてる!」
竹刀を持ったハゲ山と男性教師数人が作業所へと突入してくる。少年らのうち半分は逃げおおせたが、残りは教師にがっちりと腕を掴まれていた。
赤髪に馬乗りになったままの成臣のもとへ、ハゲ山がやってくる。ふたりの顔を見比べ、立ちなさいと短く告げた。成臣は逆らわずに赤髪の上から退いた。
担がれるようにして連れられていく赤髪の後ろ姿を見送っていると、成臣のもとへと駆け寄ってくる影がふたつ、視界にちらついた。つばさと三室だった。
「よかった、ここで合ってて」
息を切らして三室がいう。
「おまえがここを?」
「そう、点々と落ちてる玉ねぎを追ってね」
「たった三つの玉ねぎをよく見つけられたな」
「いや、ごめん、おれが悪かった。それ以上は乗れないわ。ここがわかったのは、おれじゃなくて」
「わたしが見つけました」
あちこち走り回ったのか、つばさの髪はひどく乱れていた。つばさは申し訳なさそうに眉を寄せて、まっすぐ成臣を見上げた。
「伊沢くんのお家の前にいた男性に、このあたりの高校生が出入りしていそうな場所をいくつか教えてもらいました。ごめんなさい」
なかなか来ない成臣を心配して三室が探しに出ると、路上に転がる玉ねぎを見つけた。すぐにつばさに連絡したが、つばさにも探す宛てがない。警察へ届けを出すことも考えたが、気づくと成臣の家へ向かって車のハンドルを握っていた。
「必ずいるともわからないし、知っている確証もないけど、……蛇の道はヘビって、わたしが闇雲に探すよりずっと効率はいいと思って。結果としてここは西高の先生方もご存知ない場所だったから、ほんとうによかった……。でも伊沢くんはあの人たちの力は借りたくなかったよね」
ごめんなさいと、つばさは頭をさげた。成臣はじっと黙ってつばさを見おろしていたが、別にと呟き歩き出した。慌ててつばさが追ってくる。
「でもわたし、あの男性にお礼が言いたくて……。だから後日またあらためて伊沢くんのお家に行ってもいいかな」
「どんなやつだった」
「ぶかぶかの派手なアロハシャツを着てたかな。日本語がぎこちない感じだったから、アジア系の外国人の方だと思う」
成臣に心当たりはなかった。櫂斗が普段よく連れている運転手ではなさそうだ。
「来たからっているとは限らないから、来なくていい」
「でも……」
つばさがなおも食い下がろうとするので、成臣は立ち止まり、つばさのほうを振り返った。
「あんたはおれの担任だから、どうしたっておれに関わらなきゃならないのはわかってる。だけどそれは最低限にしたほうがいい。これはあんたのためだ。どうやらおれは通う高校を間違えたみたいだから。ただ近いだけで選んだのは申し訳なかったと思ってる」
「そんな悲しいことを言うくらいなら、喧嘩にならないようすることはできないの……?」
できない、と答えようとして、けれど成臣は言葉にはせず小さく微笑んだ。
つばさの腕を三室がそっと引く。
「それより伊沢を病院へ連れて行かないと」
「そうだね。伊沢くん、送るから車に乗って」
車のほうへ踵を返したつばさだが、成臣がついてくる気配がないことに気づいて振り返る。
「伊沢くん」
「知り合いの藪医者が近くにいるんで」
「だったらそこまで」
「いいんです。歩きたいんです。先生」
念を押すようにうっすらと笑みを浮かべて、成臣はつばさに背を向けた。
一歩踏み出すたび、からだ中の痛みが揺さぶられる。それでもふらつかず、一定の速度で歩き続ける。どこへ行く宛ても、望む未来もない。それでも歩みだけは、たとえ両足を失ったとしても、立ち止まることだけはしたくなかった。それが成臣の、生きていることに対するただひとつの抗いだった。
空の隙間から吹き出したような細長い雲が夕景に赤く染まっている。そのかげには宇宙を透かした紫がにじむ。闇にのまれる一歩手前の、紫。
成臣は暮れゆく空に目もくれず、握ったままだったライターで煙草に火をつけた。
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