第2話

 喉は渇いていないはずだった。

 でも、一時間目が終わってすぐに水を飲んだ。

 二時間目が終わったあとも足りなくて水を飲んだ。

 三時間目が終わったあとはさっきよりも多めに飲んだ。


 でも、足りないと思う。


 冬が終わったばかりで夏はまだ遠いのに、炎天下でマラソンをしたときみたいに喉が渇いている。いや、もっとかもしれない。

 喉の奥がガサガサして、くらくらする。

 体の奥から足りないと言う声が聞こえてくる。


「先生、保健室に行ってもいいですか?」


 私は立ち上がって、クラスメイトの注目を浴びながら掠れかけた声を出す。

 黒板に整った字を書き連ねていた先生が私を見て、一瞬目を見開く。慌てたように「早く行きなさい」と言ってから、「保健委員、ついていってあげて」と付け加えた。どうやら私は、自分が思っているよりも顔色が悪いらしい。


「大丈夫です。一人で行けます」


 先生がなにか言いかけたけれど、私は話を聞かずに一人で教室を出る。保健委員についてこられても困る。具合は悪いが、保健室に向かうつもりはない。サボるわけではないけれど、行き先は別にある。


 体が重くて、長い髪が鬱陶しい。

 廊下がいつもより長く感じる。

 休み時間、いつもより多めに水を飲んだのに足りない。


 いや、足りるわけがない。

 水なんていくら飲んでも足りるわけがない。


 歩く速度を上げると、体に上手く力が入らなくてよろけて転びかける。

 スカートのポケットに手を入れる。

 あるべきものが指先に触れて、ほっとする。


 大丈夫。

 体調が悪いだけで、喉が渇いているなんて気のせいだ。


 第二校舎に向かいながら、心の中で呪文のように唱える。

 歩くほどに重くなる足を引きずって、渡り廊下を進む。新しいように見えるけれど床には消えない汚れが残っていて、今日は黒ずんだ部分がやけに気になる。

 足が重くて座り込みそうになるが、歩き続ける。


 階段を上って三階、普段から人がほとんどこない廊下の端のトイレ。


 なんとか辿り着いたその場所の一番奥に入って、ドアに背を預ける。ブレザーと一緒にブラウスの左袖をまくって腕を出してから、スカートのポケットから小さなカッターを取り出す。カタカタと刃を出して、前腕の内側、真ん中あたりに軽く当てる。


 息を吸って、吐く。

 ゆっくりと刃を引いて、皮膚だけを薄く切る。


 ピリピリとした軽い痛みとともに、じわじわと赤い液体が這いだしてくる。

 何度切っても痛みに慣れない。欲望を写し取ったような暗くて赤い液体が広がっていく様にも慣れない。そのくせ、喉がごくんと鳴る。


 自分の腕に舌を這わせて、滲み出てくる血を舐め取る。

 しみるような痛みとともに、舌先に鉄さびの味が広がる。


 傷口に唇を押し当て、軽く吸う。

 痛いくらいに渇いた喉に血が流れ込む。

 鉄を口の中に押し込まれたような味で、美味しくはない。それでももっと飲みたくなる。まだ足りないと思う。でも、いくら飲んでも足りることがないことも知っている。


 血。

 血液。

 自分ではない人間の血液がなければ、喉の渇きが癒やされない。


 血を飲まなければ死ぬというわけではないから、普通の人と同じものだけを食べて生きていくことはできる。でも、血液がなければ喉は渇いたままだ。苦しさとともに生きていくことになる。


 自分の血液で喉を潤すこともできるが、それは一時的なものだ。

 わかっているけれど、腕から流れ出る血を啜る。


 なんで、なんで。

 普通が良かった。


 人より少し夜更かしだけれど、夜になれば眠くなるし、朝には起きる。鏡にだって映るし、太陽の光だって平気だ。十字架だって身につけられるし、目が赤いなんてこともない。どこから見ても普通の人間だ。それなのに、喉を潤すために飲むものだけが普通の人間とは違う。


 吸血鬼に類似する非科学的な存在。

 そういう存在に生まれたかったわけではない。

 カッターを握り直す。

 

 もっと深く切れば。


 血を飲みたいと思えば、自分であっても他人であっても吸血鬼のような牙を出して血を飲むことができる。牙が刺さる痛みはあるが、傷跡がついたりはしない。けれど、それは自分が人間ではないなにかだと認める行為でできればしたくはない。


 まだ血が滲む傷の隣に刃を当てる。

 ふう、と息を吐いてぐっと力を入れる。

 刃をほんの少し引く。

 痛くて思わず息を止める。

 肩の力を抜いてさらに刃を引こうとしたところで、ドンッとドアが叩かれた。

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