第3話

「八千花ちゃん」


 さらに、ドンッ、とドアが叩かれる。


「八千花ちゃん、いるんでしょ」


 私の名前を呼ぶ幼馴染みの声が響いて、またドアが叩かれる。


「八千花ちゃん、開けてよ。開けてくれなきゃ、先生に八千花ちゃんがサボってるって言うから」

「菜穂、うるさい」


 ここは人があまり来ない場所だ。

 今は授業中だから、さらに人が来る可能性が低い。

 それでも、このまま騒いでいればどうなるかわからない。


 私はカッターをポケットにしまって、ティッシュで血を拭う。まくっていた袖も下ろしてドアを開ける。


「なんでこんなところにいるの」

「教室から、八千花ちゃんが廊下歩いてるの見えたから」


 確かにここへ来る途中、菜穂の教室の前を通った。でも、真面目に授業を受けていたら廊下を歩いている人間に気がついたりはしないはずで、菜穂がよそ見をしていたとわかる。


「ちゃんと授業受けなよ」

「受けてた。たまたま廊下を見たときに八千花ちゃんが見えただけ」


 菜穂が嘘を本当のように言って、大きく一歩踏み出す。ふわふわとした髪が揺れて、彼女が私に近づく。


「ちょっと入ってこないでよ」


 トイレは二人で入るものではない。だが、菜穂は私のいうことをきかずに個室の中に入ってきてドアを閉めた。


「八千花ちゃん。調子悪いんでしょ」


 菜穂がにこりと笑う。

 そして、私の手首を掴んだ。


「離して」


 菜穂の手を振り払おうとするが、振り払うどころかブレザーの袖をブラウスごとまくられる。


「やっぱり。血がほしいなら言えばいいのに」


 腕にできた赤い線を見て、菜穂が低い声で言う。


「ほしくない」

「ほしくないのに、こんなところに傷があるんだ?」

「傷があったらなに?」

「自分の血、飲んだあとでしょ。これ」


 菜穂は、私の秘密のほとんどを知っている。

 他人の血を飲まなければ喉の渇きを癒やせないことも、自分の血で喉の渇きを誤魔化すことができることも知っている。


「朝、言ったでしょ。私はいつでもいいからって」

「覚えてない」

「ねえ、八千花ちゃん。八千花ちゃんは私の血を好きに飲んでいいんだよ? そのために私がいるんだから」


 私の血には菜穂の血が混じっている。

 菜穂は私に血をわけるために存在しているわけではないけれど、私は幼い頃から彼女の血で喉の渇きを癒やしてきた。


 私は、今まで彼女以外の人の血を飲んだことがない。

 そして、一ヶ月ほど彼女の血を飲んでいない。


「……高塚たかつかさんのせい?」


 菜穂の口から出た名前に体が硬くなる。

 私の秘密のほとんどを知っていても、菜穂は高塚凉子たかつかりょうこと私の関係を知らないはずだ。


 そう、言っていない。

 菜穂どころか、誰にも言っていない。


「知ってるよ、私。八千花ちゃんが高塚さんと付き合ってるって。黙ってるなんて酷いよね。今日、一緒に帰れないのも高塚さんと会うからでしょ」


 菜穂の言葉は正しい。

 凉子は一ヶ月前から私の恋人で、でも、菜穂には伝えていない。


「高塚さんは関係ない」


 私と菜穂は、面倒な秘密を共有している。

 そこに凉子を巻き込みたくない。


「見てればわかるし、恋人がいるってわかるくらい八千花ちゃんのこと見てる。ねえ、八千花ちゃん。誰とも付き合わないって言ってたのになんで?」


 姿形は人であっても、人と言うには俗悪な私が誰かと付き合うなどあってはならないことだと思っていた。血を飲んだ相手の体質はかわらないと聞いたけれど、それが本当かはわからない。今のところはなにもないが、この先もなにもないとは限らない。そんな私には人を好きになる資格がないし、付き合うべきではないと考えていた。

 それでも凉子には惹かれた。


「八千花ちゃん、酷いよ」


 菜穂が私の腕を傷の上から掴む。

 私は唇を噛む。

 そう深くもない傷のくせに痛い。

 菜穂の手を払いのけようとするが、彼女はもっと強く私の腕を掴んだ。


「高塚さんは、このこと知ってるの?」


 否定しているのに、菜穂が凉子を私の彼女だと断定して話を進める。


「高塚さんは恋人じゃないから。それに、恋人だとしてもこんなこと言うわけないでしょ」


 私はこの体質を良しとしていないし、凉子には普通の人間として接したいと思っている。だから、もう他人の血を飲んだりはしない。そう決めた。


「そっか、良かった。八千花ちゃんの特別は私のままなんだ」


 にこりと笑って、菜穂が自分のポケットからカッターを出す。そして、止める間もなく人差し指を切った。


 菜穂の指から血が滴る。

 傷が深い。

 ぽたぽたと血が垂れて、床が赤く染まっていく。


 喉が鳴る。

 いい匂いがする。

 洋梨のような、桃のような、甘くて美味しそうな匂いがする。


 血から、菜穂から。

 凉子からは感じない匂いを感じる。


 駄目だ。

 駄目だ、駄目だ。


「飲んでいいよ」


 痛いはずなのに、笑顔のままで菜穂が言う。


「八千花ちゃん。血を飲まなかったら、普通になれるわけじゃないんだよ?」


 私は首を横に振る。

 飲んではいけない。

 私は人で、人は血を飲まない。


「口、開けて」


 血に濡れた人差し指が唇に押しつけられる。

 誰からもしない甘い香りが強くなる。

 歯をかみしめる。

 けれど、閉じた唇を割り、かみしめた歯をこじ開けて指をねじ込まれる。口の中にあったさびた鉄のような味が消え、キャラメルよりもチョコレートよりも甘い液体が広がる。


 無意識のうちに指を吸う。

 唾液と混ざり合い、血が喉に流れ込んでくる。

 ごくんと喉が鳴って、溢れた血が舌を伝ってまた胃へ落ちていく。


 もっと、もっと。

 まだ足りない。


 でも、指は口内に入り込んできたときと同じように無理矢理引き抜かれた。


「美味しかった?」

「……血なんて美味しいわけがない」

「顔色、良くなってる」


 菜穂が薄く笑う。


「誰を好きになってもいいけど、他の誰の血も飲まないで。私の血は全部八千花ちゃんにあげるから、私をずっと八千花ちゃんの特別にしておいてよ」


 彼女が望んでいる返事をするつもりはない。

 けれど、血があまりにもいい匂いで、誰からもしない甘い匂いで、吸い寄せられる。


「まだ足りないよね」


 菜穂が抱きついてくる。


「好きなだけ飲んでいいよ」


 優しい声が聞こえて、口元に彼女の首筋が近づく。

 甘い香りが思考を鈍らせる。


 飲みたくない。


 菜穂が私の髪を撫でる。

 牙が伸びる。


 もう駄目だ。


 目を閉じる。

 瞼の裏がやけに赤く見える。

 私は、菜穂の首筋に牙を立てた。

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