09 呼吸


 願いが叶わないと分かっても願わずにはいられないのは、どうしても夢を手にしたいという意志の表れだと思った。

 あれから数えて二十回は太陽が沈むのを見た。

 夜が何度も私を隠そうとしても、私の心は依然として暗闇の中で光っていた。どうしても、諦められなかった。時間が経てば消えるだろう——そんな予兆は一切なく、光はよりいっそう輝きを増した。夢は夢だからこそ、挫折してもなお輝くことを知った。

 脱出に失敗したあの日以来、私は食事を抜きはじめた。置かれた食事のほとんどをトイレに流した。水分と野菜だけは摂ることにして、その他のものは全て捨てた。大好きだったストロベリージャムもその中身を便器に垂らした。私の代わりに食事をする便器に対して、ペットに餌をやるような気持ちになった。

日中、空腹に苛まれることが増え、腹の虫は鳴り続けた。それでも私は食事を抜き続けた。空腹に慣れるまで時間はかかったが、ある日を境に気にならなくなった。そして、身体がだんだんと軽くなるのを実感した。背中に羽がついているような、月の表面を歩いているような、そんな心地だった。頭の中は隅々まで掃除されたように澄んでいた。無駄なことを考えなくなり、目標だけを見つめるようになった。効果がはっきりと出ていることを嬉しく思った。

 お腹も少しだけ引っ込んだように見えた。しかし、あの扉の下口を通るにはまだ小さくする必要があった。

 軽くなった身体と引き換えに、全身に力が入らなくなった。持っていたものを落としたり、立ちくらみがしたり、本を読んでいると文字が勝手に動いたり、日中眠くなったり、机の引き出しの中から笑い声が聞こえたりした。白かった壁が、青、緑、赤色に見えたりもした。これらの異常にも気に留めず、私は食事を抜き続けた。

 ある日の夜、私は再び「計画」を実行することにした。 

 部屋の電灯を消し、鉄の扉の前で三角座りをする。昨晩の『パパの日』から両脚の付け根がひりひりとしていたが、痛みをぐっとこらえた。

 前回と同じ要領で、音を立てずに下口の扉を開け、廊下に両手をつき、両肩を下口から出した。ここまでは良い。私は一呼吸置いてから、腕に力を込めた。どうか止まりませんように、と心の中で願いながら。

 そして、あるところで身体が止まった。

 扉の縁には、やはりお腹が引っかかっていた。

 断食はうまくいかなかったらしい。

 また「計画」は失敗した——とは思わなかった。むしろ、頭の中の無駄な思考が排除されたおかげで、落ち込まずに次の手へと移ることができた。私は再び両腕に力を入れた。お腹が扉の縁に深くめり込んだ。吐き気が込み上げてきた。口の中に胃液が広がる。夕食に食べた、野菜サラダのレタスとトレビスの苦い味がする。私は口いっぱいの苦味と酸味を噛み締め、苦しいお腹を一瞬だけへこませ、腰を扉の縁に滑らせるようにして、一気に力を入れた。動かなかった身体は少しだけ前に動いた。

 閉じ込められた場所から脱しようとする痛みは、想像よりも苦痛を伴うものらしい。

 もう一度力を込めて全身を引く。すると、すっぽりと抜けた。音が鳴ったような軽快さだった。脱け出せた達成感も束の間、勢いあまって頭から廊下に転がり落ちた。床にぶつけた額がじんじんとした。

 私はその場に座り込んだ。一人でこの場所にいることが夢のようだった。見上げてもそこにパパはいない。一人では許されない場所に一人でいる。ここが現実とは思えなかった。頬を指でつねると、痛かった。夢ではないようだった。

 時間を無駄にしてはならない、と慌てて立ち上がった。部屋の鍵を閉める。この音は、今だけはきらびやかな楽器の音のように聴こえた。

 目の前にある見慣れた廊下をしばし眺めてから、踵を返して反対側へと歩み始める。

 行ったことのない未踏の地。音を立てないよう進んでいくと、その先には私の部屋と同じような鉄の扉が一つだけあった。本当にここかどうか疑問だった。私はあえて素通りをして先を確かめた。しかし扉はひとつもなく、完全な暗闇だけが広がっていた。

 鉄の扉の前に戻ってきた。あの女の子が「私と同じ境遇」であれば、私と同じようにこの鉄の扉の中にいるに違いない。

 ようやく、会うことができる。私が渇望した少女に——。

 呼吸が荒くなっていることに気付き、私はハッと口を押さえた。澄んだ空気は誰の気配もしないことを私に告げていた。

 鉄の扉には、鍵がどこにも付いていなかった。私の部屋の扉には指で捻れば簡単に開けられる鍵が付いている。パパが私を迎えに来た時に鳴るあの音は、このタイプの鍵だ。てっきりどれも同じ仕組みだと思っていた。この扉には錆びた鍵穴が一つあるだけだった。

 若干の不安を抱きつつも、確かめずにはいられなかった。背伸びをしてドアノブに手をかける。全体重をかけて力を込めても、動きもしなかった。

 ガックリとうなだれていると、扉の下口が目に入った。食事を通す穴で、先ほど私が通ってきたものと同じだった。お腹の苦痛が想起されたものの、悩んでいる時間はなかった。

 すぐさま身を屈ませ、音を立てないように扉を開けた。耳を澄ませると、部屋はしんと静まり返っていた。人の気配は感じられない。しかし諦めずに音に集中した。廊下で無防備に佇んでいる余裕はなかったが、この機会を逃してはならなかった。

 願いが、あるいは執念が、現実を変えたのだろうか——私の耳が小さな音を捉えた。息を呑むような、かすかな風の音だった。それは確かな人の音だった。私は日記に描いた女の子の姿を思い描いた。もう少しで会えると思うと、今すぐ彼女に呼びかけたくなった。まだダメだ、我慢をしよう、と自分に言い聞かせた。

 自室を出た時と同じように、女の子の部屋へと侵入する。はたから見ればひどく滑稽な格好だろうが、気にしなかった。願いに向かう姿がどんなにみっともなくとも、どんなにみじめだったとしても、本人がいいならそれでいい。私はそれでいい。

 引っかかったお腹はもう一度強引に押し通し、部屋の中に入った。吐き気も気にならなかった。

 室内には見慣れた暗闇が広がっていた。月の光さえも差し込む余地のない、完全な闇だった。役に立たない視覚の代わりに、聴覚が神経を尖らせた。私の耳は再び、かすかに生まれた音を捉えた。布が擦れるような小さな音だった。そして、先ほど聞こえた風の音はさらに強くなっていて、ひどく乱れているのが分かった。吐き出す息は震えているようだった。

 私は女の子を安心させたい一心で、しかし何と言えばいいのか悩んだ。彼女はおそらく何かが来た、と怯えている。私が何者かを知らせ、彼女を安心させ、かつ私が彼女に会いたかったことを同時に伝える言葉。そんな都合のいい言葉を闇の中で探した。

 この場にふさわしい言葉はなかなか見つからない。

 私は諦めて、素直に自分の想いを伝えることにした。


「はじめまして。えっと、あなたに会いに、来たよ」


 声は震えていた。喉の使い方を忘れたかのような喋り方に、自分でも笑いそうになる。

 返事はなかった。布の擦れる音さえもしなくなった。息を呑んでただじっとしているようで、私が何者かを探っているようだった。音のない世界は女の子をこの暗闇の中に溶かして消してしまいそうに思えた。

 私は導かれるように、かすかに音のした方へと向かった。

 ペタペタと床を伝っていくと、固いものが脚の脛にぶつかった。私は鋭い痛みを感じ、平衡感覚を失って前に倒れ込んだ。その先に、柔らかくて、温かいものが私を包んだ。ぎし、と短い音が立つ。私は安らぎを感じる前に、思い出したかのような吐き気の波に襲われた。快楽と不快の狭間で、私はベッドの上に倒れたのだと理解した。

 視覚は一向に慣れなかったが、暗闇は希望で満ちていた。暖かみのある黒だった。

 耳元で小さな風が吹いた。規則的なそよ風に、女の子がすぐそこにいると分かった。顔は見ることができない。どんな姿をしているのかも分からない。日記に描いた姿と答え合わせをすることもできない。だが、私が望んだ女の子がそこにいるのだと思うと、どうしようもなく口が釣り上がってくる。悲しくもないのに涙が溢れてしまいそうになる。

 私は小さく咳払いをしてから、暗闇に向かって話しかけた。


「私、ずっとあなたに会いたかったの。あなたと同じような部屋の中でね、ずっと、ずっと」


 そう言うと、私の頭に手が当てられた。小さな手のひらに細い指。パパとは正反対の手だった。それが私の何かを探るように、震えながらも、私の髪の流れに従って、ゆっくりと滑っていく。女の子の手は氷のように冷たかった。それなのに、どこか温かい。不思議な温度だった。冷たいのに温かいなんて——それが人の温かさ、というものなのかもしれない。

 後頭部には柔らかいものがあった。どうやら女の子の脚の上に倒れ込んだようだった。

 私は闇の中へ両手を伸ばした。自分の腕さえも見えない中で、女の子がいる方へ。


「ねぇ……あなたは今、しあわせ?」


 ふとした瞬間に、女の子がこの闇に消されてしまいそうで怖かった。何よりも、女の子を逃したくなかった。腕を限界まで伸ばすと、指先に柔らかいものが当たった。そこは頬だと分かった。すべすべで、もちもちとして、気を抜けば指がすとんと滑り落ちてしまいそうな、きめ細かなパンのような肌触りだった。そしてそこは、ひどく濡れていた。私の指に生温かい液体が絡みついてくる。滴る雫を指でこすっても、水はとめどなく溢れ続けた。それと同時に、捻り出されるような嗚咽が聞こえてきた。

 時間が経っても、雫と嗚咽はどんどん強くなっていくばかりだった。

 私は重い身体を起こし、女の子の頬に私の頬をすり寄せた。顔を近づけると、女の子からは花と太陽のような香りがした。しゃくり上げる彼女の身体をそっと抱き、その頭に手を乗せた。つるつるとしてクセのない、まっすぐに伸びた髪だった。きっとこの子もまっすぐな性格をしているのだろう、と思った。

 頬を合わせていると、彼女の涙に誘われて、私の目尻からも熱い涙がこぼれ落ちた。それは私の頬を伝い、彼女の雫と私の雫が一緒になって、頬と頬の間に滑り落ちた。私のお腹の上は、ぼたぼたと落ちる雫たちで温かくなった。

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