08 暗闇
一日中寝て過ごしたその日の夜、窓の外では雨が降っていた。
以前、雨の日に感じていたあの倦怠感はなかった。それどころか、全身に力がみなぎっていた。昼間に充分眠ったおかげだろう。夜になっても雨は続いていたが、日中に比べて雨脚は弱くなっていた。私の頭の中に雨はなかった。
その時が来るまで、私は日記の「計画」を暗唱した。外に出る方法、外に出てからの行動、女の子の部屋を探す方法、見つかりそうになった時の対処法、女の子に出会ったときに話す言葉、それら全て、一語一句として誤りはしなかった。あの女の子への想いは爆発寸前だった。
掛け時計の長針と短針が「Ⅻ」で重なった。パパが寝た頃合いだと見計らい、冴えた目をこすって頬を叩く。私にとっての大冒険が始まろうとしている。
扉の外に出るというとはつまり、自分の意志でこの「箱庭」から出るということだ。あんなにも「箱庭」を出ることが嫌だったはずなのに、今はたまらなく嬉しかった。一刻も早く外に出たかった。心とは身勝手なものだと思った。
はやる気持ちを深呼吸で整えると、私は扉の前に三角座りをし、「計画」の内容を脳裏に思い描いた。シミュレーションはすでに頭の中で済ませてある。何十回も成功した。故に、この「計画」に落ち度はない。
壁時計の長針が動いた。その音が私の背中を押した。部屋の電灯を消す。パチン、と暗闇が満ちる。私は音を立てないよう、下口の扉の蓋を指で引っ張った。少しだけ開く。廊下の冷気が室内に流れ込んでくる。まるで向こう側は冬のようだった。「計画」にない寒さに、指先がかすかに強張った。すると、持っていた蓋の端が指から滑り落ちた。アッと声を上げるよりも先に「パタンッ」と小さな轟音が鳴った。全身の毛が逆立った。穴という穴から汗が吹き出した。まだ部屋の中にいるのに、心臓が暴れるように脈を打っていた。
ハッと我に返り、扉の向こう側に意識を送る。いつでもベッドに戻れるよう床に手をついておき、息を殺して気配をうかがった。足音はない。私はその状態のまま、心の中で「30」まで数えた。足音はなかった。私は二回深呼吸をしてから、再び扉に指を当てた。今度は音を立てないよう、鉄板を落とさないように細心の注意を払う。扉が開いた瞬間にその隙間に指を差し込み、ゆっくりと扉を開けていく。もう一度、耳と廊下を同調させてから、首を伸ばして下口から顔を外に出した。
廊下は静まり返っていた。窓から差し込んだ月の光が、床を淡く照らしている。刺すような冷気に鼻の頭がつんとした。頬の周りはひんやりとしたヴェールに包まれていた。
扉を指で押さえたまま身体を伸ばし、右腕を外に出す。廊下についた手は氷に触れているようだった。右肩を出し終えてから左肩も出す。頭と両腕、これらが出た時点で、胸が張り裂けそうなほどに強く高鳴りだした。見つかったときの不安と、部分的にでも自分の力で外に出た高揚がぐちゃぐちゃに混ざり合い、気を抜けば吐息と一緒に声が漏れてしまいそうだった。唇をキュッと結んで喜びを抑えながら、衣擦れの音さえも出さないよう、静かに、ゆっくりと、少しずつ時間をかけて這い出していった。
両肩が出たということはつまり、人体で最も幅の取る領域が外に出たということだ。
私はすでに脱出の成功を確信していた。
これで彼女に会いに行ける。
私の願いはついに叶うんだ、と。
……人が物事を成功しかけたとき、それは同時に失敗することを疑わない状態になる。
真の敵とは、安心しきった己の心の中で、その瞬間を待ち構えている。
そんな世の真理を経験則として活かすには、私はあまりにも幼すぎた。
「…………あれ?」
突然、ほぼ出かけていたはずの身体が引っかかった。
途端に、大きな不安が私を襲った。
見たくもないものがそこにあった。
原因は、分かっていた。
私は「それ」からずっと目をそらし続けてきた。信じたくもない光景を見ないことで、偽りの幸せで包まれた「箱庭」に閉じこもっていた。外に出るということは、この「箱庭」から出ること——つまり、私が塗り固めた偽りの幸せから脱し、現実と向き合うことに他ならない。
「あぁ、そっか」
私は自分の身体を見下ろした。扉の縁には、大きく膨れたお腹が引っかかっていた。
それは単純な原因だった。私の身体で一番幅を取るのは肩ではなかった。
この事実は、「計画」が致命的な失敗に終わることを示していた。
どのくらい、自分の身体を見下ろしていただろうか。
私は身体を引き、室内に戻った。扉の蓋がパタンと小さく鳴った。まるで私の代わりにため息をこぼしたようだった。
部屋の中は廊下よりも暖かかった。私が抜け出そうとした場所は、どうやら心地のよい場所だったらしい。暗闇の中を呆然と見渡しているうちに、目尻に涙が溜まった。それがこぼれ落ちる前に、まばたきをせずに手の甲で拭った。液体はドロリと熱を帯びていた。私は手のひらも使って涙を拭き続けた。床に垂れたものをワンピースの裾で拭った。それを何度も、何度も繰り返した。
光のない完全な暗闇。私の嫌いな黒色に、今だけは安心した。もしも今、太陽が頭上に昇っていたならば、私の心は逃げ場を失い、哀しみの輪郭をまじまじと見つめなくてはならなかっただろう。傷を照らすには光は眩しすぎる。
ベッドから毛布を引き摺り下ろし、顔を覆うとようやく、涙は止まった。毛布は鼻水か涙か分からない液体で濡れていた。私は冷たい毛布を頭から被り、そのまま目を閉じた。
「そっか、そうだよね」
結果への実感が遅れてやってきては、私の奥深くへと沈んでいった。
願いというものはどうやら、叶えようとするとたちまち消え去るものであるらしい。
待ち遠しいと思っていた願いは叶えられなかった。「計画」は失敗し、私は女の子に会えない。その挫折はつらいものなのだろう。涙は勝手に出るものではない。何か悲しいことがあるから、身体は涙を出そうとする。私は今、悲しがっている。じんわりと暖かくなった毛布は、私を包んで離さない。傷口に貼る絆創膏と同じように。
「うん……うん……」
私は床に寝転がったまま、自分のお腹に両手を当てた。そこは空気を入れたボールのように張っていた。人の気配はまだ感じられない。おとなしくしているのか、夜だから眠っているのか、あるいは本当に生きているのか——今の私と同じように暗闇の中にいて、寂しくないのだろうか。私が抱くこの感情は伝わっているのだろうか。できれば伝わっていてほしくない、そう願う。
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