05 雨粒


 その日は雨が降っていた。

 私は窓に張り付いた雫の数を数えていた。

 透明の玉は小指の爪ほどの大きさから、砂の粒ほどの小さなものもあった。大きな雫は自重によって落ちていき、他の雫を巻き込んで窓の下部へと消えていった。巻き込まれた雫たちの後には何も残らず、またそこに雨粒が張り付いた。

 小さな雫は風によってゆっくりと動き、やがて近くにいた雫と一緒になった。雫と雫が合体するのは一瞬のことで、少しでも瞬きをすれば、その瞬間を見逃してしまう。私は目を見開いてその時を待った。涙が出るほど目が痛くなっても目を開け続けた。するとちょうど、目で追っていた一つの雫が他の雫と結合する瞬間を捉えることができた。私は小さな満足感を覚えた。

 そういえば、雨はいったいどんな感触だっただろうか。シャワーは温かいし、勢いが強いし、くすぐったいし、気持ちがいい。雨はシャワーと同じだっただろうか。冷たいことは覚えているが、どのぐらい強かったのか、またどのぐらいくすぐったかったのか、どのぐらい気持ちよかったのか、覚えていなかった。

 私は鉄柵の合間から届かない窓に手を伸ばし、雨が手のひらに落ちることを想像した。私の腕には雨粒の形をした影が浮かんでいた。それはまるで治ることのない深刻な湿疹のように見えた。想像の中で、私は雨に濡れた。肌を叩く見えない雨は冷たかった。しかしそれは、手を洗うときの感覚を追体験しているに過ぎなかった。結局、雨の感触は思い出せなかった。

 小刻みに跳ねる雨音を聴きながら、私は窓際に飾られた花に触れた。透明のガラス瓶に飾られた、色鮮やかなバラだ。私がここに来てから今日に至るまで、変わらない瑞々しさを保ち続けている。もちろん本物ではなく、造花のバラだ。触ると粗い素材で出来ていることが分かる。偽物ではあるが、造られたオブジェだからこそ、どんなに時間が経っても枯れはしない。私が指に力を込めても花は散らなかった。

 造花は赤、青、黄、緑、オレンジ、ピンク、紫、黒と、色とりどりに揃えられていた。私はその中でも赤いバラをいたく気に入っていた。どこか私に馴染む色だと思い込んでいた。心の中にある白を塗り残しなく染めてくれるその色に、指で触れるたびに穏やかな気持ちになれる。どうして私は赤が好きなのだろうか。

 電灯に照らされたバラたちは、ガラス瓶に群生する生きた花のようだった。


「あっ」


 手首が瓶に触れた。ゴトンと重い音を立てて瓶が落ちた。辺りに極彩色が散らばった。それらを拾おうとすると、身体が重くなっていることに気付いた。屈むのにも苦労した。やっとの思いで全ての花を拾い、瓶に戻した。

 私は重いため息を吐いた。

 今までの身軽さはいったいどこへ行ったのだろう? 

 重い身体に鞭を打って机に向かい、椅子に座る。硬い木製の椅子に座っても、身体にのしかかる重さは消えなかった。あんなに描きたいと思っていた日記も、今日は描かなければならないという義務感に変わっていた。私は気を奮い立たせ、日記に窓に張り付いた雨が重なり合った瞬間を描いた。まるで頭の先から二手に分かれてしまったミミズのような絵になった。黒い雨は本当は透明です、と端に注意書きをした。

 描いている間も違和感は私を手放さなかった。自分の指が他人の物のようだった。力を入れようとしても親指と人差し指は仲違いをして、仲介役の鉛筆が何度も机の上を転がった。すぐそこにある手が言うことを聞いてくれない。

 頭の中でも雨が降っていた。

 脳裏に広がる曇り空は大きな太陽を隠し、光を遮っている。地上の生き物にとって光こそが動力源なのに、分厚い雲はぴったりとくっつき合って離れようとしない。陰鬱な気分とは、今、窓の外に広がる天気と同じようなものなのだろう。

 私はふと、この「箱庭」が何者かによってその存在を脅かされているような気がした。

 見えない脅威が私の大切なものを奪い去ろうとしている。

 ただの妄執に過ぎないその考えを振り払おうと、私は鉛筆を走らせた。途端に「ばきり」と音がした。根元から折れた芯が机を飛び跳ねて床に落ちた。

 芯が折れたら、鉛筆は削らなければならない。

 私は反射的に机の引き出しを開けた。勢いのあまり、引き出しの縁がお腹に強くぶつかった。うっ、と口から吐き出してしまいそうになった物を、喉に力を込めて押し留めた。私は肩で息をしながら、机の中から一本のナイフを取り出した。

 ナイフの柄は木製で黒ずんでいるものの、刃は錆一つなく、鈍い銀光を放っていた。

 鉛筆の先端部分に鈍色の刃を押し当て、奥に押しやる。ジャッと短い音を立て、削りかすが飛んでいく。もう一度押しやると、飛翔した削りかすが床に落ちていった。この削る行為に私は未だ慣れなかった。少しでも気を抜けば、均等に入れていた力が乱れ、手を切ってしまったり、でこぼことした山と谷を作り上げてしまったりした。そして何より、鉛筆の削りかすと一緒に私の大事な何かが削れていくような気がした。それでも手は止めず、芯が鋭く尖るまで削っていった。

 鉛筆の散髪が終わった頃には、机の上と床ともに削りかすが散乱していた。必要以上に削ってしまったようで、鉛筆は元の半分以下の長さに縮んでいた。私はナイフを引き出しの中にしまい、大きく息を吐き出した。


「きっと、雨のせいだ」


 晴れの日と雨の日の違いは一目瞭然だ。太陽を浴びること、暗雲としていること、雨で湿っていること——その中に居ると、否が応でも気分は変わる。そう天気のせいにしてしまうのは天気自身に申し訳ないが、確かにそのように思えてならない。昨日は晴れていたから身体が軽かった。今日は雨だから身体が重く、鉛筆を持ってもすすんで日記を書けない。昨日できたことが今日になってできなくなることが悔しい。

 でも、そんな日があってもおかしくはない。この「箱庭」の外で生きている動物だって、雨の日に動ける動物もいれば、雨宿りをして過ごす動物だっているはずだ。人間だって、たとえ屋内であったとしても、天気に行動を左右されたとしてもいいのではないか。

 だから私は、無理に動こうとせず、この日は穏やかに過ごすことに決めた。何もしない日があってもいいではないか——そう自分に言い聞かせる。動きたくて仕方がなかった身体は言うことを聞いてくれたようで、頭の中から熱はゆっくりと引いていった。


「いわえ、なんでもない日。いわえ、なんでもない日。ばんざい」


 私は机に両肘を突いて、ぽつり、ぽつりとそう歌った。

 できれば、今日だけはパパに会いたくなかった。流れていく時間をひとりで、心臓のかすかな音と、呼吸で生まれる風の音と、窓を弾く雨音だけで感じていたいと、そう願った。

 カチ、と扉の鍵が開く音がした。

 雨の日であろうとも、「箱庭」は私に雨宿りをさせてはくれないらしい。

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