04 虫影


 硬い床の上に横たわっていた。

 いつの間にか私は「箱庭」に戻ってきていた。身体は深海に置き去りにされた沈没船のように重かった。水圧を押しのけてゆっくりと身体を起こす。部屋は暗かった。窓から差し込んだ弱々しい月光だけが完全な闇を阻止していた。

 目を開けた時の完全な暗闇が怖かった。今ここにある私の身体が闇に溶けて消えていき、私が私でなくなるように、拠り所を失った私の魂を誰かが連れ去ってしまうのだと思った。

 以前は、暗闇の中ではオバケに連れ去られると信じていた。これはある絵本——夜に眠らない子どもをおばけが脅かす内容だ——を読んだせいであった。『おばけのせかいへ つれていけ』と、この終わり方のおかげで夜中にトイレに行くこともできない時期があった。今となっては懐かしい記憶だ。

 もし、本当にオバケの世界があったのなら、私はとうの昔に連れ去られてしまっているだろう。夜更かしなんて当たり前で、寝る時間も決まっていない。朝に寝ることだってある。そんな私は間違いなく「ねないこ」だ。オバケはいつ、私を連れ去るのだろう。

 冷たい床にあごを置き、白光に濡れた床を眺める。木目はまっすぐに伸び、ピンと張った光の糸のようだった。光のスクリーンと化した床の上には、七本の太い縦線が影として走っていた。その線の隙間に、羽虫の影が踊っていた。窓に張り付いているのだろう。虫の影は細い手足をしきりに動かしたり、背中から生える小さな羽をぶわっと広げたりした。

 私は引っ張られるように立ち上がり、窓際に寄った。光のスクリーンに私の影が映し出された。私の影は私を忠実に再現していた。腕を上げれば反対側の腕を上げ、足を振れば少し像を乱れさせて同じように動く。表情の読めないもうひとりの私がそこにいた。

 私はそこで、自分の影に意識を移した。影は平面の世界を気ままに動く、黒い私だ。影になった私は、影の虫にそっと触れた。黒い手は簡単に虫を取り込んだ。向きを調節すると、虫は人差し指の上に乗った。虫が微動するのに合わせて、私も腕を伸ばしていく。黒い虫と黒い私。それはまるで影ではなく、現実の私の指の上に虫が乗っているようだった。触れていないはずの人差し指がむずむずとした。

 虫の影は私の意図など気に留めず、どんどん上に登っていった。私もそれに合わせて背伸びをした。やがてそれも届かなくなり、虫は私の指から離れた。私は吊りそうになった足の裏をトントンと床に打ち付けた。虫はなおも上へ上へと登っていき、しまいには折りたたんでいた羽を広げ、どこかへ飛んで行ってしまった。意識を影から現実へと戻した私は、窓の外を見た。満月が薄い雲を纏っていた。虫はあそこへ飛んで行ったのだろうか。

 私は床に腰を下ろし、足の裏を揉みながらぼんやりと月を眺めた。

 欠けていない真ん丸の月には顔があるように思えた。どんな表情だろうと見つめていると、光の玉は二つ三つに分裂してしまい、ついには霞んでぼやけてしまった。乾いて涙の止まらない目を強くこすると、まぶたの裏側で白と黒の縞模様が点滅していた。こうなったときに目を開けると、目を開けているのに視界がほの暗くなる。そして時間が経つと、夜から朝になるように、じんわりと視界が明るくなっていく。

 満月には細い線がたくさん走っていた。シワの多い人の顔のようだった。もしかしてパパのような顔なのかもしれない——そう思うと、あの暗い瞳を思い出して、身震いをした。

 薄月光にさらされた身体を見下ろすと、右肩と左手首にあざができていた。そこを指でなぞると、まるで氷を押し当てられたように、ぞくぞくとした感覚がつま先から這い上がってきた。他にも傷を探しては、赤くなった部分を舌で舐めた。患部は塩辛い肌の味がした。様々な箇所にあざは出来ていた。腕だけでなく、脚にもあった。背中にもなんともいえない違和感があった。口の中も切れているような気がした。手の甲に唾液を垂らすも、白く泡立っているだけで、血は出ていなかった。頬が腫れぼったいように感じた。口を開くと、あごの付け根に痛みがあった。


「痛いとこ、いっぱいあるなぁ……」


 身体の観察を終え、私は再び窓に——その内側に打ち付けられた七本の鉄柵に目を向けた。なぜこんなところに柵があるのだろう。動物園でもないのに。これのせいで、私は窓に手を伸ばすことができないままでいた。柵の隙間から懸命になって腕を伸ばしても、窓に手が届くことはなかった。どんなに願ったとしても、鉄は私の思惑を阻んだ。

 この柵がなければ、私は窓から外に出て、空の下を自由に歩けるのに——。

 私があの絵本の「メメ」となり、どんな願いでも叶えられるのなら、まず手始めにこの柵を粉微塵にして消し去るだろう。そして窓を思い切り開け、空気を肺に刺さるまで深く吸い込み、外を全速力で走りたい。外でいろんなものを触りたい。鳥や花や蝶や、木や風や地面に触れたい。いろんな人に会いたい。空を眺めていたい。満月の表情を知りたい。

 自分の願いが思った以上にたくさんあることに気付き、私は苦笑した。

「メメ」でなくとも、私は願いをたくさん持った、いたって普通の子どものようだ。

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