01 箱庭
この「箱庭」は、美しいものだけで作られている。
空を飛ぶ数羽の青い鳥。
風に揺られる木々。
濁った水面のような曇り空。
恥ずかしがり屋の太陽。
扉をすり抜ける風。
本棚の裏に根づいた黴。
壁に掛けられた古い掛時計。
ヒビの入った洗面台の鏡。
埃臭い灰色のベッド。
床に残った汗の跡。
抜けた髪の毛と剥がれ落ちたかさぶた。
肌に浮かぶ一筋の傷痕。
穴の空いたような気持ち。
天井に吊り下がったランプ。
息を肺いっぱいに吸ったときの湿った匂い。
それから——。
この上ない閉塞感が心地よかった。壁、床、天井のそれらで作られた部屋は、私が好きなものだけで満ちていた。まるで私のために生み出されたかのような、私だけのものだった。
ベッドに寝転ぶと、埃と汗の混じった匂いがする。使い潰された枕には、私の頭の形がくっきりと浮かんでいる。掛け毛布の表面はちくちくと肌を刺してくる。
寝るのはもったいない、と私はベッドから跳ね起きた。
窓の方を見やると、外は暗黒に包まれていた。昼間に見た風景は黒色によって隠されていた。無邪気な子どもが、黒鉛筆で全てを塗り潰してしまったかのようだった。
カーテンを閉め、本棚へと向かう。そびえ立つ一架の本棚には様々な種類の本が入っている。上に行くほど背表紙には難解な言葉が書かれており、私はこの本棚に向かうとき、決まって一番下にある本を選んだ。そこには絵本が並んでいた。
薄埃を被った一冊の絵本を取り出してベッドに向かう。難しい本を読めば眠くなってしまうので、簡単な本を読むことにした。
ベッドに飛び乗り、ふわふわと舞う塵埃に鼻元をこすった。
手にとった絵本の表紙には、幸せそうな顔をして眠っている一人の子どもが描かれていた。
題名は、『おやすみ、メメ』。
私はこの絵本が大好きだ。水彩画で描かれたきれいな挿絵が印象的で、子どもにとって易しい文章は、ページをめくる手を止めさせない。また、一回読んだだけでは気付かない細やかな仕掛けが施されているため、読み返すたびに新しい発見と出会える。
しかし、私が一番好きなのは、物語の内容だった。
主人公である「メメ」は、いつも寝る前に願いごとをする。それは「明日の朝ごはんにブロッコリーが出ませんように」「明日一日中晴れますように」「明日学校でいじめられませんように」「明日あの子と仲直りできますように」と他愛のないものばかりだが、次の日の朝にメメが目を覚ますと、どんな小さな願いごとでも叶ってしまうのだ。メメはこれを『メメの魔法』と呼び、毎晩願いを祈ってから眠りに就いた。願いごとはどんどん大きなものになっていき、そして物語の最後、メメはとんでもない願いを祈るのだ——。
何度読み返したことだろう。読むたびに頬が緩くなる。
主人公のメメは、いつもどんな思いで目を閉じていたのだろう? 絵本にはメメの心境ははっきりと語られていない。願いが叶うと分かっているせいで、ワクワクして寝られない夜もあっただろう。メメは毎晩、明日に希望を持ち、心臓が静かに脈を打つのを感じながら、夢の世界へと落ちていく。朝日が昇った時、メメはどんな思いで目を開けたのだろう?
もしも、朝起きて、願いが叶っていたら、すごく嬉しくなるのだろう。
私の願いなんて、ちっぽけなもので、そもそも叶ったことなんて一度としてない。
それでも、この絵本は私に勇気を与えてくれる。
私も、メメのようになれたらいいな、と。
膝の上に立てていた絵本が向こうに倒れた。まぶたがゆっくりと降りてくる。
私はベッドから這い出て、絵本を本棚に戻した。明日はどの絵本を読もうか、と他の絵本の背表紙を指でなぞり、部屋の電灯を消して毛布に包まった。「箱庭」が暗闇で満ちる。私が望めば、ここはすぐにでも眠りの世界になる。
「……私にも、メメの魔法が使えたらなぁ」
私はまぶたを閉じ、心の中で呟いた。
絵本の主人公である「メメ」になったつもりで。
おやすみ、メメ。
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