02 日記


 何百回と見た、薄汚れた天井にうんざりとした。

 私はベッドから跳ね起き、窓のカーテンを開けた。薄い陽光が差し込んでくる。舞い散る埃が照らされ、しんしんと降る粉雪のようだった。この埃が本当の粉雪になるその日を待ち遠しく思った。

 ちくちくと目を刺してくる朝日に、私は一つ大きなあくびをした。頭がぼんやりしていても身体は十分に目覚めていた。両手を握ると、十本の指は全て動いた。

 踵を返して部屋の入り口へと向かう。扉の前には、トレイに載った食事が置かれていた。私は洗面台でコップに水を汲み、トレイを持ってベッドの縁に座った。

 朝食は豪華なものだった。焼きたての丸いパンが二つに、コンソメが香る玉ねぎのスープ。艶のある数粒のブルーベリーに、瑞々しい緑黄色のサラダ。そしてストロベリージャムと、私が好きなものばかりだった。特に私はイチゴが大好物で、どんな形であれ、イチゴの味がするものには目がなかった。

 ジャムの包装を歯で千切って開け、親指と人差し指の絶妙な力加減でパンにかける。舞台から役者がこぼれ落ちたってかまわない。あっという間にパンの頭は赤く染まった。ジャムが残った包装を咥えると、どろりとした甘さに、一気に脳が醒めた。

 スープを飲み干し、サラダを食べ終え、ブルーベリーを一つずつ口の中で潰した。パンは最後まで残しておき、他の物を食べ終えてから味わい尽くすようにして食べた。パンとストロベリージャムの相性は言うまでもなかった。

 パンの最後のひとかけらを口の中で転がしたまま、洗面台で食器を洗い、昨晩使った食器に重ねた。ついでに手を洗い、唇の周りに付着したジャムを舌で舐め取ってから、顔を洗った。ヒビの入った鏡を覗くと、前髪にもべっとりとジャムが付いていた。どうやってそこに付いたのだろう、それを指でつまんで舐めたあと、ボサボサになった歯ブラシで歯を磨いた。

 うがいを終えて、私は机に向かった。木製の椅子に座ると、尻の骨がごりっ、と鳴った。床に届かない足をぶらぶらと揺らしながら、机の引き出しから分厚い日記と鉛筆を取り出した。

 私はこれを自由帳のようにして使っていた。ふと何か思いついたとき、何か考えたいとき、やることがないとき、そういったときに文字を書き、絵や記号を描く。罫線を無視し、自由に鉛筆を走らせる。誰かに見せるわけでもなく、遺しておくわけでもない、意味のない行為だ。私はそれでも書くことを辞めず、描き続けた。

 芯が丸くなった鉛筆で、先ほどの朝食の絵を描いた。その横には、前髪にジャムがついた私を小さく描いた。今度は立ち上がって窓の縁に行き、外の暗い森を描いた。大地に生える名前も知らない草木を描いた。その頭上に広がる分厚い雲の絨毯を描いた。太陽はそこに隠れていたので描かなかった。

 私の描いた絵は全て黒色をしている。色鉛筆が欲しいと思うこともある。しかし、黒は黒でも、私にとっては色のついた黒だった。黒い鳥も、黒い木も、黒い花も、黒い葉、黒い虫、黒い空、黒い日光、黒い雲、黒い風も全部、色がある。夜はあらゆるものを黒く塗り潰してしまうが、あらゆるものは自身の色を決して忘れない。私はそれを知っている。だから、黒のままでいい。

 ページをめくり、今感じていることを書く。「箱庭」のこと、昨日もし見ていたら何を見ていたか、明日の天気は、外に出てやりたいことは、作ってみたい絵本について——。

 日記の文字はミミズが這ったような形をしていた。それでも私はかまわず、数ページにわたって休むことなく書き続けた。

 そろそろ、この日記も終わりが近づいている。あと数日で使い切ってしまうだろう。換えになるものはここにはない。私だけの秘密の日記を、最後まで楽しみたいと思う。

 そんなふうに鉛筆を動かしていると、「カチ」と小さな音がした。音は扉から聴こえた。私は、冷たいものを背筋に当てられたような気持ちになった。あるいは、好きなものを取り上げられたような気持ちになった。

 ——今日は『パパの日』か。

 書きかけの日記を閉じ、引き出しの中に押し込んだ。部屋の扉が開く前に、椅子に座り直し、跳ねた前髪を手で梳かした。

 やがて扉が開いた。そこから見えたのは、ひとつの大きな手だった。焼きすぎたパンのような小麦色、ゴツゴツとして硬そうな見た目、刻まれた深いしわは、どれも私の手にはないものだった。手は私に向けて「おいでおいで」と口の代わりに話した。

 私は時間をかけて椅子から降り、洗い終えた食器を持って部屋を出た。

 パパは無表情で廊下に立っていた。彼の手がおおよその容姿を表していたが、白いひげ、色素を失った灰色の短髪、暗い藍色の瞳は手にはないものだった。準備ができた、と私が頷いてみせると、パパはその手を私の頭に置いた。大きな手のひらは帽子のようにすっぽりと頭を覆った。私は食器を廊下の脇に置いた。かちんと擦れる音が廊下の先まで響いていった。

 パパの手が、私の手首を掴んだ。異様にざらざらとした手だった。

 私の心の中では、冷たい風が吹いていた。

 この風は、部屋を出る時、決まって起こる症状だった。扉が閉まっていくにつれて風はグッと強くなり、私が簡単に吹き飛ばされてしまうほどの嵐になってゆく。いったい、この風はどこから吹いてくるのだろうか。誰がこの風を起こしているのだろうか。どうして風はこんなにも強いのだろうか。この風はいったい、何者なのだろうか。

 扉が閉まっていく。

 嵐が吹いている。

 私はただそれを見ている。

 扉が閉まっていく。

 私はこの部屋から出たくない。

 私は「箱庭」から出たくない。

 

 ……だいじょうぶ。これは私だけのものだから……。


 誰に言うわけでもなくそう言い聞かせる。

 扉は冷たい鉄の音を立てて閉じる。

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