第10話 経過
旦那さんはその時から見違えるぐらいに元気になった。
もちろん顔はやつれたままだし、肌も白く血管も透けて見える。
体格は健常者とは言えないままだったが、表情はとても明るかった。
病院を出た瞬間、旦那さんは解放された喜びなのか手を広げて走り出し、何度も「やったぞ!」と叫んでいた。
道路を走りながら叫ぶ旦那さん。
すれ違った人たちは皆ドン引きしていたが、まぁ仕方がないだろう。
今までガンにずっと苦しめられ、希望を失ったまま生きてきたのだ。
だが、最後の最後で旦那さんは希望を見つけることができた。
その喜びは誰にも理解できないだろう。
旦那さんはガンを受け入れられないでいた。
旦那さんは覚悟ができないでいた。
だが、今は自分の望みが叶いそうであり、ガンと向き合えそうでいる。
強い人と弱い人が明るみに出るには色々なケースに遭遇した時にわかるが、その中に病気もある。
重病であるとわかった時に、その人がその病気を受け入れられるかどうかだ。
受け入れる人は覚悟も決まっているし、自分の意志も堅くなる。
余命をどう過ごすか考え、終わりゆく人生を最後まで謳歌しようとする。
受け入れられない人はその正反対だ。
自分は病気ではないと意地を張り、病気から逃げようとする。
自分の意志がないから治療を求めているのかどうかもわからない。
そんな状態で医者が診ても、本来の体調などを隠そうとするのだから、医者が正しい治療を施せるはずがない。
余命が近づいているのに覚悟が決まらないまま、誰に対しても疑心暗鬼になり、孤独に死んでいく。
結局、病気の大きさで人の寿命が変わるわけじゃない。
その病気を患った人がどう向き合うかどうかで変わる。
名医っていうのは患者の本音を引き出す事が上手い人であると俺は考えている。
手術の腕とか医学知識が豊富だとかはその次なのだ。
俺は病院の玄関口で葉巻タバコを吸っていた。旦那さんは興奮しながら走っていったが、きっとそのまま自宅に戻るのだろう。
俺が焦って追いかけても俺がしんどいだけだ。
あの状態だと急に倒れるとかはないだろう。
もし倒れてしまったら遠くで悲鳴が聞こえるはずだしな。
それに、俺の中で旦那さんの治療の大半は終わったも同然だった。
これから経過観察はあるが、大体予想の範疇で体調変化はしていくだろう。
俺の中で大きな仕事は終わった。一服して気を緩めたい気持ちだった。
「今の叫び声は・・・・・・?」
病院の中から小太りの医者が出てきた。
息が少し切れている。走って出てきたのだろう。
小太りの医者は俺の姿を見て、俺の隣に立つ。
「ま、まさか、あの旦那さんなのか?今の声は」
「あぁ、そうだよ」
遠くで旦那さんの叫び声がまた聞こえた。
流石に何を言ってるかまではわからなかった。
警察に目をつけられてなければいいが。
「し・・・・・・信じられん」
小太りの医者が口を開けて呆然としていた。
「一体何をしたんだ?」
しばらくしてから小太りの医者がそう聞いてきた。
どういう治療をしたか。そう聞きたいのは医者であるゆえか。
「大したことじゃないさ」
俺はタバコをふかしながら、小太りの医者の質問に答えた。
俺は治療に至るまでの経緯とその考え、そして実施した治療についてを話した。
洗いざらい嘘もなく。
全部を話そうと思ったのは、俺がもうこの病院と小太りの医者と会うことはないからだ。
旦那さんの経過をある程度見てから、俺はこの街を出ようと考えている。
旦那さんが亡くなるまで看取るつもりはない。あの家族の中によそ者が入るのは野暮というものだ。
俺の治療内容の全てを聞いて、小太りの医者はさっきと同じように口を開いて呆然としていた。
「そ、それだけ・・・・・・なのか?たった・・・・・・それだけ?」
「それだけで旦那さんがあれだけ元気になれたなら、それに超したことはないだろう?」
俺はタバコの火を消して小太りの医者の横を通り抜ける。
「もうあの旦那さんはこの病院に来ることはないだろうさ」
小太りの医者が俺に何か言いたそうだったが、結局何も言ってこなかった。
俺の背中は彼にとってどう見えただろう。
かっこいい医者の背中だっただろうか。
それとも初めて会った時の醜いモグリの背中のままだろうか。
俺としては後者であってほしい。
俺は厳密には医者ではないのだから。
さて、アルレットは首尾良く写真撮影をしてくれているだろうか。
彼女はきっと少年たちの卒業式まで一緒にいるつもりだろう。
ひょっとしたら旦那さんの葬儀までいるかもしれないが。
まぁ、俺にとっては関係ないことだ。
俺の仕事はもう数日の経過観察で終わる。
俺は旦那さんの自宅へ続く道をゆっくりと歩く。
興奮しているせいか、旦那さんはこれから飲み続ける錠剤を俺から受け取っていない。
俺は旦那さんに忘れ物を届けに行かなくてはいけない。
後日談だが、旦那さんは元気のままだった。
そして俺の予想通り少年たちの卒業式が終わってから安らかに息を引き取った。
予想外だったのは、アルレットが俺の後を追って次の街まで追いかけてきたことだ。
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