第2話 時間と情熱

 昼夜の感覚もなければ、時間の感覚もない。どのくらいのときがたったのかはわからない。腹がへらないのは不思議なものだが、どうせチューブでもつなげられて、ビタミン剤が流しこまれていたりするのだろう。細かいことはわからないが、実際になにかの管のようなものが自分の体から出ているような感触があった。手が自由に動けばもう少しいろいろわかるのに……と思うともどかしかった。まぁ自らなにもしなくても食事も排せつもできるのだからいい身分なものだ。誰に聞かせるでもなく、男は自分の身の上を卑下した。


 男のつぎこんだ時間と情熱は少しづつ実をむすんでいた。まずは右足を少し動かすことができるようになった。動くといってもわずかに伸ばすことができるという程度だし、強く集中し、うまくいけばまれに動くというレベルだが、着実に成果は出ているように思われた。

 純粋な植物状態で、症状が固定しているなら、まったく動かすことはできないだろう。それが自らの意思で少しでも動かせることができるということは、自分は少しづつでも回復しているということではないだろうか。そんな前向きな憶測が男を元気づけていた。


 その日、いつものように足を延ばそうと念じた瞬間、ついに足先までひとつの線がつながったようで、足がピンと伸びきった。言葉にすればたかだが10文字の行為だったが、その後ろには、何日何時間という試行錯誤が積み上げられている。通常の状態であったら涙を流していたかもしれない。


 その上、足が伸ばせたというだけではなかった。伸ばした足はなにかにあたったのだ。固くはない。むしろやわらかい壁のようななにか。それに伸ばした足があたったのだ。これまでまったく感じることができなかった自分以外の存在を感じることができた。それは目が見えない人が、急に目が見えるようになったかのような大いなる喜びを男にもたらした。やったぞ。小さく些細なことかもしれないけれど、ついに男はひとつのハードルを乗り越えたのだ。そう叫んで回りたい気持ちだった。


 ――そして次の瞬間、男は聞いた。そのやわらかい壁の向こう側から、人の声がする。なにを話しているのかは聞きとれないが、その声は間違いなく笑っている。ひとりではない。男と、女が、ひとりづつ。ふたりでなにかを話しながら笑っているのだ。

 嘲笑しているという感じではないが、壁を一枚はさんで、動くことさえもかなわない男がここにいるというのに、そんな楽しそうに笑うなんて。一体どういう神経をしているのだ。

 体が自由になるなら乗りこんでいって、怒鳴りつけてやりたい気分だった。もちろんそんなことができる状態からは程遠い。今は我慢だ。耐え忍んで、少しづつでも回復していけば、いつかはヤツらの顔を拝むことだってできるかもしれない。それまでの我慢だ。もうしばらくの辛抱だ。――そう思い、男はまた眠りにおちた。




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