闇の中にただひとり

竹野きのこ

第1話 気がついたら闇の中

 気がついたとき、男は真っ暗闇のなかにいた。


 不思議なことに、どれだけ力をこめても手足を満足に動かすことができなかった。それどころかまぶたを開くことすらできない。

 体になにか痛みがあるというようなことはないようだ。男はひとまず安心し、自分の置かれている状況をかんがみる。しかし驚いたことに、男はなにも覚えていなかった。なにひとつ、覚えていないのだ。


 どのような経緯でこんな状況におちいっているのか、ということだけではない。自分がどんな名前で、どんな生いたちで、どんな顔をしているのか。男には自らに関する一切の情報を思い出すことができなかった。もしかしたら頭に強い衝撃でも受けたのか……、なんらかの薬を盛られた副作用なのかもしれない。

 そうこうしているうちに、男はもっと悪いことを思いついてしまった。これは……もしや「植物状態」というものなのではないだろうか。自分は人工呼吸器をつけられ、ベットに寝かされているのだ。ひとりでは寝返りをうつこともかなわず、食事を取ることもかなわず、ただ生きているだけの状態。そういう状態でも、明確に意識をたもっていることがあると聞いたことがある。自分はなにかの事故などにまきこまれ、植物状態になってしまったのではないか。男はそんな思いに取りつかれてしまった。


 なにも見ることもできず、指一本動かすことができない。それにもかかわらず意識だけはある。そんな状態で、この先、何十年にもわたって生き続けるなど、恐怖以外のなにものでもない。昔、赤の他人の話として聞いたときはそうやって単に怖いと思ったものだが、自分自身がそんな状態になってしまったかと思うと、もはや「恐怖」などというわかりきった単語では語ることはできなかった。

 しかしどれだけ考えたところで、それは根拠のない想像に過ぎないのも確かだ。誰かが正解を教えてくれるわけでもないだろう。――もうやめよう。考えても無駄だ。そう割りきって男は考えるのをやめ、今できることに頭を向けることにした。


 男は悪い想像を追いだそうとするかのように、全身の力をふりしぼり体をひねろうと試みる。するとさっきまでは体中、どこもまったく動く気配はなかったが、自らの意思に従って足先がわずかながらに動いたのを感じた。

 どうやら単に動かないというよりは、脳みそとの連携がうまくいっていないようだ。何度か試行錯誤すればいつかは自由に動かすことができるかもしれない。

 どのみちほかにやることはない。男は自らの体を意のままにするために、思いつく限りの方策をひとつひとつ試していく。疲れを感じれば眠り、それ以外のときはみずからの体と対話する。そうやって時間がすぎていった。


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