第140話 静かなる月の中で

 流麗な音色に導かれるふたり。

 イスに座って胡弓を奏でていた。


 目を伏して、指の感覚のみでどこをおさえ、どこを引けばどのような音が出るのか。

 練り上げた技術の賜物だ。


「セトとサティスだな。聴いていくか?」


「こっちを見てないのになんでわかったんだ?」


「気配、と言うべきだな。……優しい気の流れを感じた」


「意外ですね。アナタにこんな特技があるなんて」


「嗜む程度だよ。旅に出る前はこうして……」


 ほんの一瞬、物悲しそうな表情を浮かべたヒュドラ。

 瞼の奥の並ぶ山岳、深くかかる雲。


 ヒュドラが奏でるように、月夜の草原らしき場で套路を魅せる父の姿。


 会いたい……。

 無意識にそんなことを思ったのは初めてだ。


 セトもそういう気持ちだったのだろうか。

 あの赤砂漠での出来事を思い出しながら、音色はさらに深みを増していく。


 見たこともない楽器で、聞いたこともない音色にセトは魅了されていた。

 寄り添うように座り、ずっと聴いている。


 やがて曲は終わり、静かにヒュドラが瞼を開ける。

 そのほんの一瞬、父がヒュドラのほうを振り返った気がした。


 ハッとなったときにはもう消えて、目の前にはセトがいた。


「すごかった。また聴かせてくれると嬉しい」


「あ、あぁ、私の演奏でよければいつでも」


「なんだか浮かない顔ですけど、どうしたんですか?」


「……故郷の父を思い浮かべていたんだ」


「どんな人なんだ?」


「フフフ、それはもう厳しい人だよ。でも、拳法を教えてくれる父は、美しかった。今でも憧れだ」


「会いたい、か?」


「あぁ、会いたい。だけど、まだ帰れない。私には責任を果たす義務がある……って、呑気に演奏しながらじゃ説得力はないがな。ハハハ」


 ヒュドラはイスに胡弓を立て掛け、手を後ろにして少し歩く。


「そう言えば休暇を貰っていたんだったな。セトたちはなにか予定は立てているのか?」


「折角の休みだからふたりでゆっくり休むっていうのが……予定か?」


「まぁ予定と言えば予定ですね。アナタは?」


「……4日後にこの屋敷を発つ」


「急だな」


「長いこと居候させてもらった。情報も十分だ。これ以上長居しては迷惑になる。それに……」


「それに?」


「私がいつまでたっても前へ進めない」


 迷いのない、屈託のない笑みだった。

 普段と違うそれに、セトは思わず頬を染める。


「……俺は、ヒュドラのこと応援する。ヒュドラならどこへ行っても大丈夫だって」


「覚悟を決めたようですね」


 ヒュドラはセトに歩み寄る。

 最初はキョトンとしていたが、次の行動にセトの顔は真っ赤になった。


「ありがとうセト。私を見守ってくれて……」


 柔らかな抱擁。

 サティスのときとはまた違う気持ちのよい感触に、セトは大きく目を見開いてカチンコチンになった。


「ちょ!? え? え? え?」


「ん? どうした?」


 ほんの数秒遅れてサティスが反応。

 彼女の頭脳を以てしてもヒュドラの行動が読めなかった。


 対するヒュドラはなぜそんな反応をするのかわかっていない。

 セトを解放するとサティスが詰め寄ってきた。


「ちょっとセトにいきなりなにしてるんですか!」


「なにって、ハグだが?」


「それはわかってますよ!」


「わかっているのなら、そこまで大声を出すこともないだろうに。私はセトに感謝しているんだ。もちろんサティスにも。あ、サティスもハグしてほしいとか?」


「け、結構です」


 意外に天然が入っている。

 セトはまだ鼓動が鳴りやまないらしく、どこか挙動不審だ。


「……いきなり年ごろの男の子に自分から抱き着くってアナタも結構大胆ですね」


「ん? もしかしてあれか? 不健全だとでも? いや、でももうサティスというものがいるだろうし……それにだ」


「それに?」


」 


「……」


「この子は特別な子だ。チャラついた俗物のような欲情など、まさかそんな……、ありえないありえない。ハッハッハッハッ!」


 ヒュドラの背後でセトは言葉の刃に貫かれ、両膝をついていた。

 おいたわしやと内心同情を隠し切れないサティス。


「ん? どうしたセト。具合でも悪いのか?」


「いや、うん。大丈夫だ……」


「……?」


(あとで慰めてあげないと……)


 純真な瞳で見られ、セトは罪の意識にちょっぴり苛まれる。



 そのあとも色々と話した。

 またヒュドラの家族の話になり、また盛り上がる。


 そろそろお開きになろうかというとき、セトは珍しくヒュドラにお願いをしてみた。


「なぁヒュドラ。もしもよかったらなんだけどさ」


「なんだ?」


「ヒュドラの武術の……套路? って奴、見てみたいんだけど。ダメ、かな?」


「え?」


「いや、すまない。嫌だったら別にいいんだ。俺のワガママだ。ただちょっと知りたくなったんだ。アンタのお父さんが築き上げた武術ってやつを」


「……嫌じゃないよ。だた、少し意外だっただけだ」


「そうか。ありがとう」


 


 ────月下の演武。

 彼女の武術は、揺れる船の上や山岳地帯のような、足場が兎に角不安定な場所を想定したもの。


 ゆえにドッシリとした姿勢は大地の力強さ、振るわれる腕や足は吹き抜ける山河を吹き抜ける風にすら感じる。


 それぞれの套路に込められた動きや意味。

 それは習得した者にしかわからない。

 

 父が命を賭して築き上げた結晶。

 それをほかにいる優れた弟子にではなく、娘に受け継がせたのはなぜなのだろう。


 覚悟は決まっても、答えはまだ見つからないままだ。


「……すごく、綺麗だな」


「えぇ、とても」


 ふたりはヒュドラの演武に一瞬も目を離せなかった。

 ほんの数分の間だったと思うが、まるでゆるやかな時の流れの中で良いものを見た気分になったのだ。

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