第76話 vs.凶霊・凍てつく憤怒 前編
最後の舞台、そこは氷と吹雪の世界。
唸りを上げる風に乗っかる無数の雪が、あたり一面を白に染め上げていた。
しかし感じるのは自然の美しさや厳しさなどではなく、濃厚な死の気配だ。
死に魅入られた者の感情が、この世界を作り上げている。
それにしても寒い。
衣服を貫通して無情な冷気がセトの肉体を襲う。
風の強さと冷たさで、息が詰まりそうになった。
ここは標高はそれほどではなくとも、雪に覆われ肌に氷が張り付いた岩山だ。
セトはそれに気づいた直後、凶霊らしき女の声が響いてくる。
「我が
吹雪の向こう側にぼんやりと黒いシルエットが見えた。
喪服のような修道服をまとった長い銀髪の女性がひとり。
セトに背を向けながら、レースの入った黒いベールで覆った横顔を見せている。
はためくベールからは、雪のように白い肌と口元が垣間見れ、悔しそうにその唇を歪めていた。
「────だがお前に聞こえるか? 如何に激情を外からも内からも凍りつかせ、封じ込めようとも、……憤怒はけして、沈黙などしていないということを!」
凶霊が右手を勢いよく上げると、吹雪が止まった。
いや、これは最早"時間停止"のような止まり方にしか見えない。
風が止んだと同時に、吹きすさんでいたはずの雪が空間に固定されたかのように動かないのだ。
凶霊は指揮者のように天に右手を掲げたまま、拳を静かに握る。
直後、彼女の背中に漆黒の翼が顕現した。
その色合いにも関わらず、まるで宝石のような輝きを放つそれは、凶霊をフワリと宙に誘う。
拍子に顔を覆っていたベールが落ちた。
「……ッ!?」
セトは思わず目を奪われた。
あまりにも美しすぎる。
まるで高貴な人形を思わせるような冷艶の顔つきと碧眼の輝き。
白銀世界の黒い天使は、微笑むでもなくただセトを睨みつけていた。
「我が名は『凍てつく
凶霊が両腕を開くと右には長めの刀身の黒いバスタードソードが、左には黒い大楯が現れる。
装備するや彼女の表情は一気に憤怒の鬼そのものになった。
「A゛H゛H゛H゛H゛H゛H゛H゛H゛H゛H゛H゛H゛ッ!!」
凶霊が天に向かって叫ぶと、顔の皮膚が火で焙られたように黒ずみ、紫色の炎とともにベリベリと剥がれていく。
左目と眉と、その周りの白い皮膚のみを残し、残りは焼けた肉と骨を剥き出しにしていた。
右目に至っては赤く光る丸いエネルギー体のようなものと化し、人外染みた見た目をセトに見せつける。
セトは魔剣を取り出し、斜に構える。
凶霊の姿を見て一気に寒さが消し飛んだような感覚が全身に行き渡っていた。
まるで目の前に急にぽっかりと、
彼女はこの世界の主でありながら、この世界に耐え難い憤怒を抱いている。
漆黒の憤怒がこの寒々しい白の世界を拒絶しているように感じた。
今までの凶霊とは違うかもしれない。
戦闘能力は勿論、精神面においても。
もしかしたら四凶霊の中で、彼女が一番強いのかもしれないとセトは密かに唾を飲み込んだ。
凶霊は剣を掲げて大楯を前に構え、セトは重心を低くしたまま、魔剣の切っ先を向けるようにして対峙する。
ふたりの間に一時の静寂が流れた。
風もないので、場の空気の冷たさだけがふたりを包んでいる。
そして凶霊が目を見開いくや、翼を羽ばたかせてセトの間合いに一瞬にして入った。
セトも反応して横薙ぎに斬りかかる。
止まっていた風が動き出し、最初に見た景色が息吹を取り戻した。
身体をあおるような勢いの風に乗って雪がセトの視界と動きを封じてくる。
自然の猛威に負けそうになりながらも凶霊と斬り結んだ。
凶霊は吹雪や冷たさもものともせず、堅牢な大楯による守りと鋭い剣捌きでセトを翻弄する。
さらには大空を飛んでからの頭上攻撃もしてくるので、セトは防戦を強いられた。
まるで逃げ場のない獲物の上を、優雅に飛びながら弄ぶ猛禽のようだった。
だが、実際この凶霊の攻めはそこまで生易しいものではない。
セトのほうへ飛んでくる勢いは、最早砲弾を撃ち込んだような威力だ。
それを大楯によるタックルという形で行うのだから、セトにとってはたまったものではない。
現にセトのいる場所は凶霊のタックルでどこもかしこも消し飛んでいる。
少なくともパワーやスピードの面では四凶霊の中で一番だろう。
「クソ、これが奴の能力か? ……いや、空を飛ぶってだけじゃなさそうな気がするな」
案の定凶霊は遠くの空中でなにかをしようとしていた。
漆黒の翼を広げ、憤怒を含んだ呪詛を呟いている。
「■■■■、■■■■■■■■────ッ!!」
次の瞬間、彼女の叫び声が憤怒の波動となって世界に広がる。
それに呼応するように、風が、雪が、世界が震えた。
突如大地から巨大な氷の柱が隆起する。
それは世界そのものごとセトを破壊する槍のように、勢いよく地形を変えながらセトのほうにまで次々と出現した。
氷の形は歪だ。
まるで無理矢理ねじったように規則性のない刺々しい氷だった。
それはセトのいた山を砕きながら巻き込んでいく。
あまりにも規格外の規模の攻撃に、セトは成す術なく崩れ落ちる大量の雪と岩々にのまれていった。
「憤怒……
男とも女ともつかぬような声を発しながら、凶霊は剣を振り上げ、剣風を大地目掛けて振り下ろす。
それは一陣の風となり、周囲の雪や岩を巻き込みながら、セトがいたさっきまで山だった場所へと飛んだ。
轟音を上げて白い柱が天高く舞い上がる。
その破壊力は尋常ではなく、巨大なクレーターを作るほどだった。
「────……」
凶霊は沈黙のままクレーターを空中より見下ろす。
目を細め、生命の反応があるかを見極めていた。
「死んだか? いや、奴は生きている。なるほど、あの煮え滾る空虚を倒しただけのことはある」
凶霊の感覚がセトの生存を感じ取る。
戦法を変えるため、かなり慎重になっているのだろうと考えた。
「来るがいい魔剣の子よ。お前に我が憤怒を刻んでやる。死してなお忘れられぬ、世界への憤怒を」
心なき黒い天使は荒れ果てた白の世界に舞い降りた。
漆黒の翼から羽根がヒラヒラと舞い落ちる。
彼女こそ最後の試練。
セトは覚悟を決めて、その脅威に挑む。
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