6月2日(水) 7:30〜 『氷姫と呼ばれる女性』

 この時間帯に教室にいるのは俺ともう一人、クラスメイト達から『氷姫』と呼ばれている氷室姫香ひむろひめかだけだった。

 氷室さんは黙々と勉強をしていた。

 俺は文庫本を開いて読書をしている。

 高校二年生になった時からこの関係は続いていた。今月で二ヶ月になる。特に何かを話すわけでもなく、それぞれが自分の時間を過ごしていた。

 

 俺はこの時間が心地いいと感じていた。

 ふと、氷室さんのことを見て、昨日の女性のことを思い出した。


 あの後、無事に家に帰ることができただろうか・・・・・・。

 そういえば、あの女性も氷室さんと同じような白髪だったな。耳に髪をかけた氷室さんは俺の視線に気づく気配はない。その横顔は朝日を浴びて美しく輝いていた。

 

 まさに天使だな。

 俺の友達曰く、氷室さんはモデルをやっているらしい。世間では『深紅の瞳を持つ天使』と呼ばれているようだ。

 そういえば、昨日俺がお節介を焼いて助けた女性も赤い目だったような・・・・・・。

 まさかな・・・・・・。

 俺は、あり得ないな、と文庫本に視線を戻した。


 しばらく、教室の中にはシャープペンがノートを走る音だけが響いていた。

 俺は自然と集中状態になって本を読むことに没頭していた。

 

「・・・・・・さん・・・・・・のさん」


 だから、誰かに呼ばれていることにしばらく気が付かなかった。


「王野さん」


 何度目かでようやく自分が呼ばれていることに気がついた。


「・・・・・・はい」


 文庫本から顔を上げて声のした方を見ると、氷室さんが俺の机に顔をちょこんと乗せていた。

 氷室さんの吐く甘い吐息が俺の頬を掠める。


「やっと顔を上げてくれた」

 

 本当にあかいんだ・・・・・・。

 いやいや、それよりも、これはどういう状況?

 俺は軽く混乱していた。

 約二ヶ月、氷室さんとは同じ時間を共有していたが話しかけてくるなんて初めてのことだった。

 

 俺の中で選択肢が浮かんだ。


1.氷室さんと話をする


2.無視をして本を読む


 さて、どっちが正しい選択か。

 どっちを選んでも厄介そうだな。

 

「あの、一つ聞いてもいいですか?」


 選択肢を選べないまま氷室さんが話しかけてきた。ということで俺の選択は必然と「氷室さんと話をする」になった。


「な、なんですか?」


 俺、何か気に触ることをしただろうか?

 もしかして、一緒にいるのが嫌だったとか? 

 それだったら、悲しいな。


「昨日、私を助けてくれたのは王野さんですよね?」

「え・・・・・・」

 

 昨日・・・・・・昨日っていえば、あの女性のことか?

 今、氷室さんは私って言ったか?

 ということは、あれ氷室さんたっだってこと?

 え、でも、眼鏡かけてないし・・・・・・。

 顔も・・・・・・いや、よく見ればそっくりなような・・・・・・。


「あれ? 違いましたか?」


 氷室さんは首を少し傾げた。

 か、可愛い。思わず見惚れてしまう可愛らしい天使がそこにはいた。


「確かに女性を助けたけど・・・・・・」

「やっぱりですか! 昨日は眼鏡をかけていらっしゃらなかったので、人違いかと思ったんですけど、やっぱり、あれは王野さんだったんですね!」

 

 なんだ、なんだ・・・・・・。

 今、目の前にいるのは本当に『氷姫』なのか?

 全くの別人が目の前にいるんだが!?

 『氷姫』じゃなくて、あいつがよく言っている『深紅の瞳を持った天使』がいるんだが!?

 満面の笑みで俺のことを見ている氷室さんは、まさに天使そのものだった。

 氷室さんは立ち上がって頭を深く下げた。

 

「その昨日は、ほんとうにありがとうございました」

「いやいや、頭を上げてよ。俺はたまたま通りかかっただけだし、偶然、助けただけに過ぎないから」

 

 初めは見て見ぬふりをしようと思っていたなんて言えない。

 

「それでも、助けてもらったのは事実ですから」

「・・・・・・」

「ありがとうございました」

「どういたしまして」


 でいいんだよな?

 この笑顔の裏に何かあったりしないよな?

 普通にありそうで怖いんだけど・・・・・・。

 

「ところで何を・・・・・・」


 氷室さんが何かを言いかけたところで、廊下から教室に近づいてくる大きな足音が聞こえてきた。


「じゃ、じゃあ私は戻りますね」


 俺と話しているところを見られたくないのか、氷室さんは逃げるように自分の席に戻った。そして、何事もなかったかのように勉強を再開した。

 ガラガラと音を立てて一人の男が教室に入ってきた。


「くそー! 今日も負けたかー!」


 俺の顔を見て、悔しそうに叫んで、膝から崩れ落ちて床に手をついたのは俺の友達の山崎歩やまざきあゆむだった。


 

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