第3話 元型・3(縁)~神さまを殺した~

 1.


 それから程なくして、里海は九伊家の本家の娘と婚約した。


「現在の当主の容態が、良くないんだよ」


 縁のところに来たときに、里海がそう言った。


「婚約して、少しでも父親を安心させたかったらしいよ。健気だよね」


 そう言いながら、里海は落ち着かなげに縁に視線を向けた。ひとつ咳払いをして自分の気持ちを鎮めてから、口を開く。


「本当にいいのかい?」


 里海の言葉に、縁は青みがかった黒い瞳を細めた。


「何だ? 気が咎めるのか? お前を通して、穢れが婚約者に行くのが」

「僕はね、君が望むならどんなことでもするよ」


 里海は諦めたように笑ったが、すぐに真剣な瞳で縁を見つめる。


「僕が心配しているのは君のことだよ、縁」


 縁が何も答えないので、里海は言葉を続けた。


「君の穢れが君の神を殺す。本当にそれでいいの?」

 

 縁の脳裏に一瞬、小柄な少女の姿が浮かんだ。

 はにかんだように笑顔、無心に星を見上げて輝く瞳が。


「何が神だ」


 その姿を打ち消すように、縁は吐き捨てる。


「俺にこの穢れの毒沼の中に沈めた神に、泣いて感謝しろとでも言うのか。俺が奴らに押し付けられたものを奴らに返して、何が悪い」


 瞳に激烈な怒りをほとばしらせる縁を、里海は痛ましそうに見つめた。



 2.


 里海は珍しく泊まらずに、夜が更けたころ帰っていった。

 電気をつける気にはならず、灯りがひとつ灯っただけの薄暗い部屋の中で、縁は一人でいた。


 九伊の現在の当主は、今は意識が戻らないときのほうが多いらしい。

 当主が死ねば、穢れは全て娘に行く。

 里海が、婚約者である娘に「穢れ払いをして欲しくない」と言えば、娘も遠からず穢れによって死ぬ。

 神などと言っても、弱く無力なものだ。


 笑い出したいような気持ちなのに、何故か笑うことが出来なかった。



 3.


 不意に、部屋の入口の引き戸がノックされた。


 誰かが、この一番奥の部屋までやって来ることはあり得ない。

 禍室の中でも一番奥まったこの部屋は、「儀式」を経た「客」しか足を踏み入れられない、暗い腐った穢れの間なのだ。

 禍室付きの世話係も含めて、誰もが忌避している。


「誰だ」


 言った瞬間に引き戸が開いた。


 目の前には、見知らぬ人間が立っていた。

 年齢は縁と同じくらいだろうか。

 背はこの年の男の中では小柄なほうだろう縁と、同じくらいの高さに見える。

 端整な容貌は、冷ややかな無表情を保っており、その表情が性別を分かりにくくさせていた。


 縁は眉をしかめて、その人物を睨みつけた。


「何だ? お前は。勝手に入って来るな」

「ノックはしたよ」


 その人物は素っ気なく答え、縁の前に腰を下ろした。

 低めではあるが、女性の声だった。


 女はジッと、縁の顔を見つめる。

 女の眼差しの真摯さに縁はややひるんだが、それを認めまいとするかのように声を張り上げた。


「お前は誰なんだ? 『客』か?」


 縁は頭の中の記憶をひとつひとつ探るが、そんな連絡を受けた覚えはない。今日の「客」は、里海だけだったはずだ。

 女は、落ち着いた声音で言った。


「君は僕の神を殺すつもりか? を」


 縁は立ち上がって、女の睨んだ。


「お前、九伊の人間か」


 女は首を振る。


「僕は九伊の人間じゃない。僕が誰かなんて、君にとっては重要な話じゃない。重要なのは、君が僕たちの神を殺そうとしていることだ」


「それの何が悪い?」


 女を睨む縁の黒い瞳に、剣呑な光が瞬く。


「あいつは、俺をこの地獄に閉じ込めた張本人だ。本当なら、もっといたぶって殺してやりたいくらいだ」


「嘘だ」


 女の口調の余りの強さに、縁は口をつぐむ。

 女は縁の瞳を真っすぐに見つめて言った。


「君は待っているんだ、彼女がここに現れるのを。彼女がこの扉をそっとノックして、扉を開けるのを」


 彼女が体を清めて、単衣を纏った姿で、目の前で恥ずかし気に俯くのを。

 おどおどした眼差しで目を伏せながら、でも君が声をかけると、はじかれたように優しく嬉しそうに微笑むのを。


 彼女が来てくれるのを、ずっと待っているんだ。



 4.


(私、あなたに会いたくてここに来たの。庭を何度か探したんだけれど会えなかったから、ここに来れば会えると思って…)


 少女は茶色の大きな瞳で、覗き込むのように縁の顔を見つめながら、恥ずかしげな小さな声でそう言う。


(学校では園芸部に入っているの。花の面倒をみたり野菜を育てたりしているのよ)


 少女が目の前で笑うと、日差し避けに麦わら帽子を被り、首をタオルで覆い、軍手をはめた手でじょうろやスコップを持つ姿が目の前に浮かんだ。


(上手く育ったら、持ってくるわね)


 そう言って微笑む少女の柔らかそうな髪に、桜色に染まる頬に触れてみたかった。



 5.


 瞳から流れた涙が頬を濡らし、首筋を伝い流れ落ちる。

 自分の中に存在するはずのない「神さま」への想いが苦しいほど胸を締め上げ、涙となって溢れ出す。容易に止まりそうになかった。

 縁は涙を拭いながら、女の中性的な端整な容貌を睨んだ。


「お前、俺に何をした……」


 女は首を振った。


「何も」

「今の妙な記憶は、お前が見せたのか?」


 怒りに満ちた縁の言葉に、女は静かな声で答えた。


「違う。僕にはそんなことは出来ない。それは君の中に、元々在るものだ」

「ふざけるな」


 縁は女に向かって怒鳴った。


「俺は『神』に会ったこともない。あいつは結局、来なかった。俺のところに」


 そう、結局来なかった。

 ずっと待っていたのに。


「俺は、こんな境遇に俺を閉じ込めて、のうのうとしている九伊の神を憎んでいる。あいつらが俺に押しつけた穢れを、この禍室に澱んでいる穢れを、すべて叩き返してやる。お前が九伊の人間で、俺を止めに来たのだとしても無駄だ」


 憎悪に満ちた眼差しで射抜かれて、女は僅かに眉をしかめた。


「さっきも言った通り、僕は九伊の人間じゃない。君を止める力はない。君が彼女を殺すというなら、それを見ているしかない」


 女は立ち上がった。


「僕は、僕の神さまが息絶えるその瞬間まで側にいるよ。君は神を殺す。僕は最後まで神に仕える。僕は君に比べたら幸運だ、自分の神に出会えたのだから」


 どこか憐れむような笑いを、女は唇に浮かべた。


「じゃあな、縁。君と会うことは二度とない」

「お前……何で、俺の名前を……!」


 女は笑ったまま縁の疑問には答えず、部屋から出ていった。


 縁はしばらく薄闇の中で考え込んだが、いくら考えても先程までいた女のことを記憶の中に見つけ出すことは出来なかった。



 6.


 縁が十八になる年に、九伊の当主は死んだ。

 その後、一年も経たないうちにその娘が倒れた。


「医者も原因がわからないらしい。ただ痩せて衰弱していくだけだ」


 里海は顔をしかめて首を振り、縁の顔を見つめた。

 今まではなかった畏怖が、その顔には浮かんでいる。

 それを見て、里海はこうなるまで「穢れ」の話は実体のない迷信だと思っていたことがわかった。

 縁はうっすらと笑った。


「残念だったな、里海。お前と結婚するまで、娘は持たなそうだ」



 7.


 里海がいなくなり禍室に一人になると、縁は暗い中で愉悦に満ちた笑いを浮かべた。


 もう少しだ。

 もう少しで、この身に染み付いた怒りと憎悪を晴らすことが出来る。


 目を閉じると、目の前に娘が眠る部屋の光景が浮かぶ。

 父親も娘も、医師がいくら勧めても、頑として生まれ育った屋敷から動こうとしなかったらしい。


 部屋の中で娘は、一人で眠っていた。いや、瞳を僅かに開けて窓の外を見ている。

 窓の外に見える星空を。


 やつれ痩せこけた姿を見たら、さぞかし溜飲が下がるだろうと思っていた。


 だが。


 衰弱し明らかに残された生命力が幾ばくもないその姿を見ると、胸が締め付けられるような苦しさと悲しみが全身を支配した。

 意思とはまったく関係なく、目から涙が溢れてきた。

 側に近寄ることも出来ず、縁はただ星を見続ける娘の姿を見て立ち尽くす。


 不意に、娘の瞳が縁の姿を捕らえた。

 縁は茫然として、自分を真っ直ぐに見つめる娘を凝視した。


 そんなはずはない。

 これは俺の妄想なのだから。

 彼女が俺に気付くはずがない。


 だが少女の視線は、間違いなく縁に向けられていた。

 少女は、死を前にして微かに足掻くように、唇を動かした。

 空気に溶けて消えてしまいそうな呟きが、縁の耳に届く。


「……ごめんね、行けなくて。ずっと待っていてくれたのに」


 少女の言葉を聞いた瞬間、心が絞り上げられるような寂しさが全身に広がった。


 そうずっと待っていた。

 何故、来てくれないのだろう。

 こんなに待っているのに。

 ずっとそう思っていた。

 一人で少女のことを待っていると、辛くて寂しくて、泣きたい気持ちになった。

 だから、良いのだ。

 神さまと出会わなくて。


 少女は弱く微笑んだ。


「幸せになってね……」


 縁は瞳を見開いた。

 そこは元の薄暗い禍室の中だった。

 縁にはわかった。


 いま、神さまが死んだ。



(BAD END1 神さまが死んだ)




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