第二章 元型(苑)~あなたがいないルート~

第4話 元型・1(苑)~あの子に会えなかった~

 1.


「苑、苑と同い年の子をこの家に引き取るとしたら、どうかな?」


 十一歳になったとき、父親にそう尋ねられたことをはっきりと覚えている。

 何と答えていいかわからず、苑はただ大きな瞳で父親の顔をジッと見つめていた。

 父親は少し迷うような、戸惑ったような顔のまま、苑の瞳を覗き込んで言葉を続けた。


「苑の親戚の子だ。余りいい環境で育てられていなくてね、うちで一緒に生活したほうがいいんじゃないかと思うんだ」


 その子がどんな子か。

 苑の頭にすぐに浮かんだ。


 すごく綺麗な子だ。

 長い黒髪は艶やかで真っすぐで、肌は抜けるように白い。   

 不機嫌そうな光が浮かぶ瞳は夜みたいに黒いが、光の当たり方によって深海のような青色に見える。


「男の子だけどね。仲良くなれると思うよ」


 父親の言葉に、苑は少しがっかりした。

 想像の中の子が凄く綺麗だったので、てっきり女の子だと思ったのだ。

 男の子だと、苑の話など馬鹿にしてろくすっぽ聞いてくれないかもしれない。


(お前、本当に鈍臭いな)


 苛立ったようなそんな声が、聞こえてきそうな気がした。

 だがその後に殊更不機嫌そうな顔を作って、手を差し出してくれる。

 少し意地悪そうで、無愛想な怖い声で話すが、いつも側にいてくれる。怖いときや寂しいときに握ってくれる手は、温かい。


「いつ来るの?」


 苑の言葉を了承と捉えて、父親は安堵したようだ。

 穏やかな優しい笑みを苑に向ける。


「そうだなあ。近いうちにその子のところに行ってみるよ」



 その日から、苑の頭の中はその子のことでいっぱいになった。


 部屋はどこがいいだろう?

 苑の部屋の近くがいいだろう。


 来たらまずは屋敷の中を案内して、使用人たちのことを教えてあげて、それから庭に遊びに行こう。

 父親にも内緒にしている花畑や猫の集会所に連れて行ってあげよう。

 家を恋しがって泣いたら、本を読んであげたりぬいぐるみを持っていってあげたりして慰めよう。


 尤も苑の頭の中に浮かぶ凄く綺麗な子は、ひどく横柄な性格をしていて、苑がおずおずとした口調で「寂しくないか」と聞くと怒り出した。


(俺は女みたいに、めそめそしたりしないからな)

 

 でも苑は、その子が本当はひどく寂しがり屋なことを知っている。

 だから素っ気なくされても邪険にされても、いつもその子の側にいようと思った。


 しかし一か月待っても二か月待っても、その子は家にやって来なかった。


 普段ならば「父親がそのことを口にしない、ということは触れてはいけないことなのだ」と察して口をつぐんでいる。

 だが、その子のことについてはどうしても黙っていることが出来ず、思い切って父親に聞いた。


「お父さん、この前、言っていた男の子を引き取るっていう話はどうなったの……?」


 苑の言葉に、父親の表情が強張った。

 こんなに厳しい父親の顔を見たのは、初めてだった。


「その話は無くなった」


 固い響きの父親の言葉は、苑がそれ以上話を聞くことを、氷のような冷たさで拒絶していた。



 その晩、苑は部屋の電気を落として、一人で窓から見える星空を眺めた。

 広い野原で、一人で星空を眺める男の子の姿が浮かんだ。

 一人ぼっちでいる男の子は、いつもの気が強そうな虚勢が剥がれ落ち、ひどく寂しげで泣きそうな顔をしていた。


 あの子は私のことを待っているんだ。


 苑の胸に、唐突にそんな想いが去来する。


 今すぐあの子がいる場所に行ってあげたい。

 隣りに座って手を握ってあげたい。


 きっとあの子は言うだろう。

 いつも通り、無愛想な声で。


(暇だからここにいただけで、お前なんか待っていない)


「そうなんだ」と笑って答えて、少し赤くなって懸命に安堵と嬉しさを隠そうとするあの子の顔を覗き込みたかった。

 苑は一人で座り続ける男の子の、小さな背中に向かって呟いた。


「……ごめんね、行けなくて。ずっと待っていてくれたのに」



 2.


 昼休み。

 授業が終わるチャイムが鳴った。


 三峰紅葉みつみねもみじは、友人であり雇用主の娘でもある九伊苑ここのいそのの席にやって来た。


「苑さま……じゃなくて、苑さん。購買に行きましょう。パンを買いたいんで急がないと」


 紅葉の言葉に、苑が頷く。


 学校では「苑さま」ではなく、「苑」と呼んで欲しいと頼まれているが未だに慣れなくて混同してしまうことがある。


「家でも『苑』でいいのに」


「苑さま」と呼ばれるたびに、苑は困惑したようにそう言うが、雇われの身としてはそこは譲れない最後の一線だった。

 代わりに学校や寮では、「苑さん」と呼んでいる。


 購買がある食堂に向かう途中、いつも通り、紅葉が授業や学校生活であったあれやこれやを話すのを、苑は笑顔で、時々口を挟みながら聞く。



 紅葉は三年前中学生になるときに、苑の側付き、いわゆる「ご学友」として九伊家に雇われた。


 政財界を仕切り、地盤に根を張り巡らせている九伊家は、この地方の実質的な支配者だ。この地に住んでいて、九伊家から恩恵を受けていない者は一人も存在しない。

 駅前のビルも土地も主だった事業も、誘致される企業も、そこから地方に落とされる雇用や需要などの恩恵も、すべて九伊の力から生まれたものだ。


 紅葉と苑が通うこの中高大の一貫校も九伊家が運営しており、全国から学業やスポーツで優秀な成績を持つ子供を集めている、有名な進学校だ。


 そういった社会的に華やかな部分は、すべて九伊の分家が受け持っており、苑の実家である本家は辺鄙な場所に引きこもって暮らしていた。

「引きこもっている」と言っても、紅葉のようなしがない庶民の目から見れば、国立公園のような自然豊かな広大な敷地の中で生活をしている。


 紅葉の家は、小さいころから父親がいない、母一人子一人の母子家庭だ。


「九伊の本家のお嬢さまの『ご学友兼世話係』を務めるならば、中高大の学費をすべて免除し、その他に給金も出すし生活の保障もする」

 という申し出は、飛びつくほどありがたかった。


 母親は懸命に働いていたが、それでもこの地方で子供を一人抱えて働くとなると、稼げる金額はたかだか知れている。

 母は何とかするから気にするなと言ってはくれるが、甘えられても高校進学までで、大学は行きたければ自分が働いて学費や生活費を貯めるしかないだろうと思っていた。


 それが学費も生活も心配しなくていい、しかもこの地方で一番環境が整った場所で勉強が出来るなど夢のような話だった。

 自分だけではなく、母もそれまでの仕事よりも高い給料で雇ってもらえた。


「本家のお嬢さま」がどんなに嫌な人間でも、高校を卒業するまでは我慢しよう。

 紅葉は、そう心に決めた。


 紅葉は苦労して育ってきたせいか、人の機微を読み、その場に合わせて振る舞うことが上手かった。

 教師を始めとした大人たちからは「しっかりしたいい子」として見られたし、同級生からは「大人に近い存在」として一目置かれた。

 だから「本家のお嬢さま」が、甘やかされたがゆえの癖のある人間だったとしても、表面上、上手く合わせていく自信があった。



 3.


 初めて会ったときから、苑はとても内気で人見知りをする少女だった。

 初対面の挨拶のとき、ずっと父親の陰に隠れて、おずおずとした眼差しで紅葉を見ていたことを覚えている。


「初めまして、三峰紅葉です」


 紅葉が名乗ってお辞儀をすると、恥ずかしそうに顔を赤らめ、消え入りそうな小さい声で挨拶を返した。


「春から中学生になるから寮に入れるつもりだが、少し内気な性格だから心配でね。九伊の本家の娘となると、純粋な好意から近付く人間ばかりではないから、周りのことを気に掛けてもらうと助かる」


 苑の父親は、まるで大人に話しかけるような口調で紅葉にそう言った。

「娘を任せるに足る人間だ」と認めてもらえた、と分かって、紅葉は誇らしい気持ちになった。

 苑と仲良くなれるかは分からないが、仮に仲良くなれなくとも、自分の仕事がこなせる範囲で関係が築ければ十分だ、というのが紅葉の当初の考えだった。


 だが最初は「仕事上の付き合いが出来れば十分」という見えない壁を作っていた紅葉も、苑のことを知るにつれ、徐々に雇用関係を超えた愛情を覚えるようになった。


 苑は「世間から距離を置いた場所で暮らしている良家のお嬢さま」という育ちからは考えられない、あるいはだからこそなのかもしれないが、ひどく素朴で引っ込み思案な性格をしていた。

 大人しく目立たず、その場にしばらくいると周囲の風景に自然と馴染み、溶け込んでしまうような少女だった。中学に入学して半年経ったころには、仲がいい友達も含めて、苑が九伊の本家の跡継ぎ娘だということを周囲はみんな忘れてしまっていた。


 苑と親しくなり人柄が分かるにつれ、紅葉は気付いた。

 父親が心配するまでもなく、苑自身が誰よりも「自分の立場と身の処し方」を分かっているのだ。


 聡明で思慮深く、自分の中で必要なものとそれほどこだわりのないことを明確にわけて考える。

 大人しく見えるのは、彼女から見ると大部分がそうである「それほどこだわりのないこと」については口を挟まないからだ。


 紅葉は、苑のそういう気性がとても気に入っていたし、信頼もしていた。

 自然と苑と過ごす時間が長くなり、今ではこの世で何よりも大切に思っている母親の次に紅葉が愛着を持つ存在になっていた。

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