第8話
うちに帰ると板橋が台所の床に寝そべり、その傍では母親が電話をしていた。
母の話しぶりで電話の相手が姉の玲奈であることが分かった。
姉の玲奈とあゆむは年が離れているせいか喧嘩らしい喧嘩をしたこともなく、かといって離れているあまり却って親密な姉妹らしさもない、まるで少し離れたところにいる親戚のような仲だった。
玲奈の方ではあゆむをいつまでも小さな妹のように思いはなから相手にしていないようなふしもあり、あゆむの方でも玲奈が大人なので自分とは遠くかけ離れていて理解を得られるとは考えもしないで育った。
といって仲が悪いわけではなく、あゆむはあゆむなりに玲奈を慕っていたし、玲奈もまたあゆむを可愛がっていた。玲奈は東京へいる時からあゆむに洒落たアクセサリーや小物の類いを送ってくれたし、帰省すればお小遣いもくれた。あゆむは都会の暮らしを身に付けて洗練されていく姉が眩しくもあり、憧憬の眼差しがないでもなかったけれど、やはりそれはテレビや雑誌の中のもののようで、生活を共にしていないだけにどこか浮世離れしたものに感じていた。
あゆむは玲奈に呼びかける「お姉ちゃん」という言葉の中にだけ姉妹を感じ、ついぞ思春期にありがちな反抗的な内容の相談も恋愛の相談もかけたことはなく、今だって藤井のことを玲奈に話すつもりはなかった。
玲奈が結婚する時、あゆむはその挙式ならびに披露宴に出席するためのワンピースを玲奈自身に買ってもらった。あの時玲奈はあゆむにホコモモラのシャンタン地の「よそいき」なワンピースを買ってくれ、これから結婚する相手のことよりも板橋のことばかり喋っていたのを覚えている。板橋のかわいい様子や、かしこさについて。拾った当時の瀕死の状態から奇跡の回復と、元気に育っていった過去について。
母親と姉は世帯の切りまわしや、アメリカと日本の違い、旦那さんの仕事のことについて喋っている。
「おかえり」
母親が素早くあゆむに声をかけた。
「ただいま」
あゆむも答えたが、すぐに母親は姉との会話に戻り、
「そうそう、そうなの。え? そう、今、あゆむが帰って来たところよ」
と姉にも告げた。
あゆむは冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、立ったまま飲み干した。
「通知表もらった?」
ふと気付くと足元の板橋が顔をあげて、あゆむを見ていた。
「ふん」
「どうだった?」
「別に……」
板橋はふうんと言うと、再び寝そべり前脚に顎を乗せて視線だけは母親の方に向けた。
あゆむがその場を離れかけると母親が、
「あゆむ、お姉ちゃん」
と、受話器を差し出した。玲奈と話すのは退院後二度目だった。
退院してすぐに話した時、姉の玲奈は遠い国から涙声で「よかった」と言い、「もう、どうもないの? 大丈夫なの?」とあゆむを気遣ってくれた。
無論、姉にもあゆむの怪我のことは知らされていたし、藤井のことも母は話しているはずだった。けれど姉はそれには触れずに、体調がよければ夏休みに遊びに来るように言い、もちろん飛行機代は出してあげるし夏中こっちにいたってかまわないと言いもした。
これまでだって何度も姉から遊びにおいでとは言われていたけれど、こんな風に世界から隔離するかのような、現実からの逃避行のようなバカンスの誘いは初めてでかえってあゆむの立場を思い知らせるようで返事のしようがなかった。
そう思う自分をやっぱり卑屈だと思いはすれど、ただ実際に補習はいつ終わるとも知れず、いや、それよりも意識不明の藤井を残して自分だけは呑気らしく国外逃亡…じゃなくて海外旅行とはあまりにもひどい。そう考えるのは当たり前だった。
あゆむは自分が助かったことがとんでもない幸運だと分かっているし、生きていてよかったと思う。でも藤井が未だに死の淵にいることを考えると、一体、どうして喜ぶことができるのかと拳を握りしめずにはおけなかった。
「あゆむ?」
「うん」
「今日、終業式だったんだって?」
「うん」
「補習に行ってるそうね」
「うん」
「いつ終わるの?」
「分かんない。まだ日程聞いてないから。見込み点とかついた分はいいけど、試験受けなかったから穴埋めとかあるらしいし」
「そう。でも、事情が事情だから、そんな長引かないでしょ」
「たぶんね」
「夏休み、どっか行くの?」
「別に……」
「今年はお父さんもお盆休み長いんでしょ」
「……さあ?」
「そしたらね、私も今年はそっち帰ろうかなって思ってるの」
大きな声ではなかった。普通の声で、普通の会話だった。なのになぜ聞こえたのだろう。動物とはそういうものなのか。寝そべっていた板橋が突然起き上がり椅子に飛び乗ってテーブル脇に立っているあゆむの方へぐんと首を伸ばすようにし大きく眼を見開いて、
「れいちゃん、帰ってくるって?」
と、尋ねた。
当然、嬉しげな期待に満ちた口吻はあゆむにしか聞こえておらず、あゆむは一瞬板橋に視線を走らせると、受話器の向こうの姉に、
「帰ってくるの? お盆っていつからだっけ?」
「お盆は混むから、その前か後ぐらいに考えてる。啓一郎の仕事の都合もあるから、まだ分からないんだけど」
「啓一郎さんも一緒に帰ってくるの?」
「そりゃあそうよ」
あゆむは板橋に目配せをする。
「それはそうと怪我の具合どうなの? お母さんは順調だって言ってたけど」
「うん……」
「お母さんとも話してたんだけどね、整形外科ならこっちの方が発達してるんじゃないかって」
「なに言ってるの。高いよ。無理だよ」
「だって、一生の問題よ。程度によってはどうにかならない額じゃないと思うのよね。調べてみないことには分かんないけど。だからその為にも今年は帰ろうと思うの」
「それって私の顔の傷を見にってこと?」
「あゆむ、別に好奇心で言ってるんじゃないのよ」
「……分かってる」
「まだ痛むの?」
「痛くはないよ」
「お金のこととかね、気にしなくていいのよ」
そう。そうだろうとも。あゆむは両親の会話を病院のベッドでまどろむ時にも幾度か漏れ聞いて知っている。この事故で、この怪我で、多額の保険金が支払われるであろうことを。
こんな風に実に具体的に自分の血や肉に値段がついていくのだと思うと、ならばこの抉りとられてしまった顔の血肉と見事な風穴を開けた自分の内部の傷とではいったいいくらほどの違いになるのだろうかと考え、それでは果たして藤井の命には幾らの値がつくのかと思うといたたまれなかった。
あゆむは思い切って、言った。
「おねえちゃん」
「なあに」
「私、顔の傷なんて治さなくていいよ。このままでいい。一生の問題ならそれでもいい」
「なに言ってるの。女の子なんだから……」
「女の子だから顔に傷があったらお嫁にいけないとかそういうこと? だったら、心配ないよ。私結婚しないから」
「あゆむ」
「誰も好きにならないし、誰にも好かれなくてもいい」
二度と。もう二度と。藤井でなければ。二度と。
「あゆむ。そういうことじゃないのよ」
「分かってる。心配してくれてるの分かってるよ。でも顔のことはもういいから」
「……」
「帰って来る日が決まったら教えてね」
あゆむはそばで呆然としている母親に受話器を押しつけると、そのまま自分の部屋へと駆け上がった。
「そんな言い方しなくてもいいだろ」
ドアを閉めようとすると同時に板橋がすべりこんできた。
「れいちゃんだって心配してるんのに」
板橋はいきなりあゆむを詰るような口吻で、ベッドに飛び乗った。
「分かってるよ」
「なんであんな言い方すんだよ」
「あんたに関係ないでしょ」
あゆむは鞄をぼんと放り投げた。
板橋は一瞬驚いてぴょんと後ずさったが、すぐに背中の毛を逆立てて、
「怪我した自分が悪いんだろ」
「そうよ、だから分かってるって言ってるじゃない。事故った私が悪いのよ。でも、だからなんなのよ。放っておいてほしいのがなんで分からないのよ」
「分かるわけないだろ、そんなことお前言ってないじゃん」
「言わなくても分かるでしょ。この状況考えたら、分かるでしょ」
「分かんねーよ」
ああ、まただ。またこんな風にまともに猫と言い合いをしてしまうなんて。どうして幻聴はこんなにもはっきりと気が狂っている自分を思い知らせてくれるんだろう。
板橋は小さな口を三角にしてささやかな牙を見せ、しゃーしゃーとあゆむを威嚇している。あゆむもまた仁王立ちになり、板橋を睨みつけた。両者一歩も引く気配はない。
「れいちゃんに謝れ」
「なんでよ」
「いいから、謝れ」
「いやよ」
「謝れっ」
「うるさいっ。お姉ちゃんが帰ってきたら謝ればいいんでしょ」
「いつ帰ってくるんだよ」
「だからお盆の前か後だって言ってたじゃない」
そこまで言ってあゆむははっと気がついた。もしや板橋は姉を待っているのではないか、と。と同時に、あゆむは板橋が姉のことを「れいちゃん」と呼ぶのに初めて心づいた。
その呼称は板橋にとって姉の玲奈が自分よりも、今でこそ懐いている母親よりも親しい存在であることを表していて、あゆむは戦意を消失し、そのまましおしおと椅子に腰かけた。
窓の外は暑苦しい日射しが燃えていて、庭の木蓮の分厚い葉をぎらつかせている。
椅子の背に体を預けるようにし、脚を投げ出すとあゆむは呟いた。
「お姉ちゃんは知らないのよ」
「なにを」
「私が……どれだけ藤井を好きだったか」
四足を踏ん張っていた板橋はゆっくりと尻尾を垂れると、その場にちんまりと居ずまいを正すといったように座り直した。
「あんたの言う通り怪我した自分が悪いんだろうけど、でも、今は本当にそんなことどうでもいいの」
「そんなに大事な人?」
「……」
あゆむは無言で頷いた。
板橋はあゆむと眼を合わせないように顔を横向けると、拗ねたような口調で、
「れいちゃん、俺の事なんにも言わなかったな。お前の方がよっぽど大事なんだな」
動物は涙を流さないとかなんとか言わなかっただろうか。それが本当かどうか定かではないにしても、あゆむは板橋が泣いているのかと思い、「泣かないでよ」と声をかけた。
「泣いてないよ」
板橋はすんなりそう答えたけれど、あゆむの方を見ようとはしなかった。
「お姉ちゃん、忘れたわけじゃないよ」
「……」
板橋はふんと鼻先で返事をすると、ベッドの上に小さく丸くなった。
あゆむは制服を脱ぐとジーンズとTシャツに着替え、板橋の横に同じように寝転んだ。
二の腕のあたりに板橋の柔らかな毛皮がふかふかとあたっていて、じんわりと熱い。
二人は同時に大きなため息をついた。これまで並んで寝たことなど一度もない。この突然で、奇妙な心昜さはどうだ。あゆむははっきりと感じていた。今自分達が同じ種類の孤独と絶望を味わっている、と。
言葉にせずとも気持ちが確かに通じている。それがあゆむにはどうしたって奇跡としか思えなかった。言葉を尽くしたところで誰とも分かりあうことなどできないと思い、だからこそ誰にも何も言わずにきた。でも、今、この小さな猫と通じ合っている。
あゆむは板橋に手を伸ばした。そうっと触ると板橋の皮毛が指先に優しい。
「今日ね、海の近くでね、変わった猫に会ったのよ」
「ふん」
板橋の柔毛を掻きわけながら、言う。板橋は鼻先で返事をする。
「だいぶ年いってるみたいで、おじいちゃんみたいなの」
「ふん」
「でね、私を見て変なこと言うのよ」
「なに」
「死神に会っただろって」
「へえ」
「それで、どういう意味だって聞いたら名前を名乗れって言うの」
「ふん」
「で、私が名乗ったら、向こうも名乗ってね」
「なんて」
「それが、服部文左衛門だって。すっごい名前でしょ。サムライかっての」
「えっ」
「え?」
板橋がびっくりして顔をあげた。
「なに? 知りあい?」
「それ……」
板橋は丸い眼をさらに丸く大きく見開いて愕然とした表情をし、とても信じられないという調子で言った。
「おじじさま……」
「え?」
きょとんとするあゆむに、板橋は起き返り真剣な口調で、
「それ、おじじさまだ……」
と、今一度呟いた。
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