第7話

あゆむは小さな漁港のある町でバスを降りた。そこは古い民家が立ち並び漁師の網が軒先にぶら下がっているような一画で、あゆむがその周辺を散歩するようになったのは今年の春に隣りのクラスの藤井晴夫と付き合い初めてからだった。




 藤井晴夫は剣道部で、背が高くてりりしい眉の下の切れ長の目が涼しげな男前で、どちらかというとモテる部類に入る男の子だった。しかしあゆむ自身はそういう骨っぽい男らしいタイプよりも前髪がさらさらで線が細くてジーンズにボートネックのボーダーシャツが似合うような子が好きだったのだけれど、去年の冬の球技大会でたまたま藤井と実行委員をやったところなんだか急速に仲良くなってしまい、藤井の顔に似合わない優しい物腰やおっとりした態度が大人びてみえて「あ、こういうのも、いいな」と思っていたら、次の春には藤井の方から告白してきた。


 冬の間メールしたり、クラスが違ったけれどすれ違えば「よお」とか「寒いね」ぐらいな言葉は交わして、たまにオススメの漫画の貸し借りもして、距離を縮めるには充分な時間を過ごし、あゆむは藤井が男ばかりの三人兄弟の末っ子であることを知り、藤井もあゆむのところに姉が連れてきた猫がいてまるで懐いてないことなども知るようになっていた。




 なにが恋の決定打だったのかは分からない。でも春になって藤井は放課後に自転車で帰ろうとするあゆむを自転車置き場で待ち構え、それも部活の前だから袴を穿いて竹刀まで持っていて、喧嘩でも売られるのかとあゆむは驚いたが、藤井は決闘の申し込みではなく交際の申し込みを、いつもそうであるように低い落ち着いた声で言った。




 この時あんまり落ち着いているからあゆむはなんの冗談かと思ったのだが、実は緊張のあまり声が出なかったのだと後になって藤井から聞いた時は笑ってしまった。




 ともかくあゆむは素直にそれを受けた。嬉しかったのだ。酸っぱいものを食べた時のようにきゅんと胸が窪むのが分かって、次いで、甘い気持ちで指先まで痺れるようだった。




 具体的にはその瞬間から恋が始まったと言えるかもしれない。あゆむの目に藤井はもうただの同級生の男の子には映らなかった。特別で、大切な男の子になっていた。




 藤井との交際はあゆむがそれまでに経験した短いいくつかの恋の連鎖とはまるで違っていた。藤井はあゆむを名字で呼んだし、あゆむもこれまで通り「藤井くん」と呼んだ。部活があるから放課後は別行動で、電話も短い世間話、メールは淡々として不必要に浮かれた戯言を連ねたりはしなかった。




 そういう性格だったのだ。たぶん、あゆむも。あゆむ自身はこれまで自分がそうだとは知らなかった。闇雲に好きだの永遠だのを言い合うことや、しなければ何も始まらないかのような性急なセックス、束縛というにはあまりに幼い嫉妬も。今までの恋愛はよく言えば刺激的で悪く言うなら子供っぽいものだった。でもそれに対して疑問を感じたこともなかった。あゆむは恋とはジェットコースターのようなものだとさえ思っていた。しかし藤井との間にはそんな一時的ですぐに冷めてしまうような熱狂はなく、穏やかで淡々としていて、自然で、安心を伴う空気があるだけだった。例えるなら、彼は観覧車のようにちょっと怖いような、でもゆったりと空を横切って行くような優しい存在だった。




言葉にせずとも繋がっていると思えること。帰りが遅くなれば当たり前に心配し、試合があれば真面目に、祈るように健闘を願うこと。会えば磁石が引き合うように手を繋ぎ力をこめて確かめる。見交わす眼に胸が痛いような恋情が溢れているのを無視することはできない。こんな恋愛があるなんて。あゆむは初めての感情を味わっていた。




 藤井とあゆむは日曜に映画を見に行ったり、買い物に行ったりというごく普通のデートもしたけれど、一番好んだのは「散歩」だった。




 なにをするでもなくただぶらぶらと歩く。山手の住宅街の瀟洒な家々を縫って美しいレンガの塀を横目にバラの花を眺める。坂を下って下町でお好み焼きを食べる。それから藤井の家の近くの、海辺の街。




 ひなびた空気と静けさ、磯の匂いというよりは生臭いような風が時折吹きつけるけれど、迷路のように入り組んだ板塀の間を歩いているとまるで異世界に連れて行かれるような秘密めいた気持ちになり、胸がどきどきした。




 家並みの間を抜けて海へ出るとなぜかいつも「辿りついた」ような気分になった。目的地がそこであったわけではないのに。舫われている小さな船と沖を行く大きな船と。二人で手を繋いで眺め、キスをした。




 あの日、藤井は試験の前で部活がないから一緒に帰ろうと言ってあゆむを待っていた。




 海辺の街からバスで通っている藤井は、あゆむの自転車のサドルの高さを上げて、校門を出るとすぐに後ろに乗るようにと言った。




 試験前だというのに夏の暑さのせいか二人は妙に浮かれていた。普段一緒に帰ることがないので、せっかくだからちょっと寄り道していこうと言って藤井は軽快にペダルを漕いだ。藤井の背中につかまりながら、あゆむは世界が自分達のためにあるような気がして大笑いしたいほどだった。




 恋とは常にそういうものなのだけれど、とにかく二人ははしゃいでいて、藤井もまっすぐ前を向いて風を受けながら試験の範囲やレポート、提出しなければならないノートのことをあれこれと喋った。




 確かに浮かれてはいたけれど、二人は暴走していたわけではなかった。藤井は律義に信号を守ったし、少しでも長くこの痛快な気分を味わっていたくてスピードも出していなかった。




 事故はそういった意味で本当に「事故」だった。




 信号のない交差点。路肩にステーションワゴンが停まっていて、向こう側は見えなかった。あれがなければ。あそこに車が止まっていなければ、交差点に軽トラックが侵入してくるのは見えていたのに。




 恐らくそれは車を運転していた建築屋のお兄さんもそう思っただろう。あそこにワゴンが停まっていなければ、自転車の二人乗りが直進してくるのが見えていたのに。




 しかし今更そんなことを言ってもどうにもならない。現実にはお互いの姿が見えなかったのだから仕方がない。あっと思った時にはもう二人は弾き飛ばされるように空中を舞い、道路に叩きつけられていた。




 あとのことは説明するまでもない。あゆむは顔面に大きな傷を残し、入院。そして「自分だけ助かってもね」というのは、藤井のこと。




藤井は全身を強く打ちまだ意識のないままだった。そのことで誰もあゆむを責めなかった。二人乗りをしていたことも、あゆむだけが意識を取り戻し退院したことも、誰も何も言わなかった。あゆむの両親だって、ただあゆむの回復に泣いただけで藤井のことは一言も口にしなかった。




 けれどあゆむは感じていた。周りがなんと思っているのか。言葉にせずとも誰よりも一番に。痛みのあまり心臓が押し潰されてしまいそうなほどに。




 一体誰が悪かったというのだろう。あゆむは一秒たりとも後悔しない瞬間はなかった。あの時二人乗りをしていなければ。あの交差点で停まっていたら。あの道を通らなければ。いっそ付き合っていなければ。




 目が覚めた時、あゆむは自分の身になにが起きたのかすぐには理解できなかったけれど、ともかくICUの看護師に尋ねた。




「藤井は……?」




 マスクをかけた看護師は目だけでやんわり微笑んで見せ「大丈夫。心配ないのよ」と言った。即座に嘘だと分かった。




 校内であゆむに向けられる視線。あれは怪我のことや奇跡の生還への好奇ではなく、あゆむだけが助かったことへの非難なのだ。それは誰よりも分かっていた。なぜなら他ならぬあゆむ自身が一番自分を責めていたから。




 生きていることがこんなにも怖いことだなんて。あゆむは両肩に自分だけではなく他人の、それも好きだと思う人の命までも圧し掛かかるのを感じ重くてたまらなかった。




 二人で歩いた道を今あゆむは一人で歩いている。舗装されていない砂埃の立つ路地に自分の影が落ちている。あゆむは宛てもなく路地から路地へ歩き続けた。首筋を汗が伝い落ちる。古い家屋の塀越しに覗く山茶花が暑苦しく生い茂っている。


 ポケットのハンカチを取り出して汗を拭く。藤井が自分を好きだと言ってくれたことが申し訳なく、罪悪感が胸に広がる。




 板塀の足元のわずかな隙間から、猫が、猫とは思えぬのろのろとした動きで這い出してきた。そして立ち尽くすあゆむを見ると「おや」と呟いた。




 また、だ。あゆむはなげやりな気持ちでじっと猫を見つめた。猫は黒い皮毛に、口のあたりから胸にかけてと、手先が手袋を嵌めたような白で、瞳は金色だった。




「これはこれは……」


 猫は言った。




「……なによ」


 あゆむはふいと顔を背けた。拗ねたように、うんざりしたように。そんなあゆむに猫はふふと小さく笑った。




「死神に会いなさったね」




 あゆむはぎょっとして猫に視線を戻した。猫はまたふふふと笑った。


「死神ってなによ……」


「魂を迎えにくる神様のことじゃよ。知らんのかね」


「知ってるけど、だって私死んでないし」


「死にかけたことがあるんじゃろ」


「……なんで分かんのよ」


「影がつくんじゃ」


「影?」


「死神に会ったら、影がうつる」


「なにそれ。それって猫ならみんな見えるの? それともあんただけ?」


「あんたじゃない」




 猫は塀に沿って歩き出した。


「儂にも名前はある」


「……」


「あんたにも名前があるじゃろ」


「……あゆむ」


「あゆむさん。儂は服部文左衛門じゃ。心配せんでも死神に会ったからって死ぬわけじゃない」




御大層な名前を名乗って、猫は三軒先の家まで行くと「じゃ」と塀の下へと潜り込んだ。




「待ってよ」




 あゆむはしゃがみこんで塀の下を覗き込んだ。が、猫の姿はもう見えなかった。


 服部文左衛門。あゆむは地面に手をついた。焼けた砂が熱い。夏休みが始まる。藤井のいない夏。立ち上がろうにも眩暈がする。涙で目の前が滲む。猫が喋るという妄想と幻聴。あゆむはしばらく動くことができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る