第6話
学校は案の定、いよいよ夏休み本番を迎えるにあたって浮かれまくっていて、ざわめきと熱気で余計に暑苦しい空気が充満していた。
あゆむが教室に入って行くと、その場にいた全員が思わず小さく「あっ」と声をあげた。
「あゆむ! 大丈夫なの?」
「大変だったねえ。もう、体はいいの?」
「補習なんだって? 事故だったんだから、それぐらい免除してくれればいいのにねえ」
クラスメイトが口々に言い募り、あゆむが席につくまでのわずかな距離が花道の如く包囲される。あゆむは彼または彼女たちに曖昧な微笑のままで「うんうん」と頷いた。そうして自分の席に着くと懐かしいような気がして、ほっと溜息をついた。
「あゆむ!!」
教室の後ろの扉から入って来た美香と早苗はあゆむの姿を認めた瞬間大きな声で叫んだ。
「あゆむ!! もー、マジ、大丈夫なのー?!」
二人は口々にあゆむの復帰を喜び、気遣う言葉を発しながら駆け寄って来て、ひしと抱きついた。
あゆむは二人を座ったままの格好で受け止め、髪からこぼれるシャンプーの匂いを吸い込み、ああ、これが自分の日常の匂いだったと思いだしていた。
清潔で、そのくせどこか媚びた甘くて強い匂い。日焼け止めと称して重ね塗るファンデーション。ばさばさの睫毛。瞼の際の内側まで塗り潰すアイライン。ポケットから垂らした携帯電話のストラップの、馬鹿げて大きなぬいぐるみ。
「ね、帰りどっか行こうよ! みんなでさあ。あゆむの復活祝いしよーよ」
二人は大はしゃぎでカラオケだの、プリクラだの、デザートバイキングだのプランを喋りまくった。どれもほんの少し前まではあゆむが友達たちと好んで出かけたことばかりだった。
眩しい。あゆむは単純にそう思った。二人の姿が眩しくて、ほとんど直視できない。だから、早苗が指に嵌めている彼氏から貰ったとかいう指輪ばかり見つめて微笑んでいるより他なかった。彼女たちとも「通じない」上、期待していた明るい空気も圧力を伴って自分を押し出そうとしているように感じる。
「ごめん、今日は駄目だわ」
「補習?」
「そうじゃないけど……」
「具合悪いの?」
「んー……、ほら、顔もこんなだし。それに、あたしまだ肋骨折れてんの」
「マジで! あゆむ~、ほんと大丈夫? 今日も休めばよかったのにー」
「だって今日来ないとみんなに会えないじゃん」
早苗が子供にするようにあゆむの髪を撫でる。
半分は、本当だった。大仰なガーゼの張り付いた顔や手足の痣は隠しようもないし、街へ繰り出して人々の好奇に晒されるのも決していい気分ではない。そしてもう半分はみんなの朗らかさと明るさについて行くことができそうにないからだった。
あゆむは懸命に片頬を歪めるようにして笑顔を作った。そんな作り笑いをしなければならない自分がいたたまれなかった。
始業のチャイムが鳴り響いた。救いの音だった。それを潮に早苗たちはお喋りをやめて自分の席に着き、あゆむも座ってため息をついた。
もうここは自分の居場所ではないのだ。担任が教室に入って来て夏休みの訓戒を垂れ、冗談を言い、講堂へ場所を変えて終業式で校長先生の長い話しを聞かされる間も、再び教室に戻って通知簿を配る間もあゆむの心は遥か遠くへぶっ飛んでいた。
「鈴木、呼ばれてる」
後ろの席から肩を叩かれ我に帰ると、教壇で担任があゆむの通知簿をひらひらと振っていた。
「あ」
あゆむは立ち上がり前へ進んだ。
自分の席から教壇まで2メートル。歩数にすればほんの5~6歩。なのにあゆむはこのわずかな距離を行く瞬間、教室がコンマ1秒ほどしんとし、それは息を呑むような緊張で、視線のすべてが背中に突き刺さって来るのがはっきりと感じられた。
無理もない。あゆむはまた片頬を歪める。今自分がなんと思われているのか、いやというほど知っている。
「鈴木、補習もあとちょっとだからな」
「はい」
「体調の悪い時は連絡しなさい」
「はい」
担任は通知簿を開き、試験を受けなかったけれど学期の前半頑張っていたし、実力はあるのだから二学期に巻き返せると気休めにもならないようなことを言い、但し、もともとあまり芳しくなかった数学についてはもうちょっと頑張るようにと言い添えて寄越した。
あゆむは通知簿を受け取り席に戻ると、ろくに見もしないで鞄に突っ込んだ。
開け放された窓を見上げると、怖いぐらいに青い空が広がっている。太陽は真上、校庭のポプラはむせかえるような濃い緑色をしている。
ここではないどこかへ行きたい。こんなに単純な逃避願望ってあるだろうか。一学期最後のホームルームが終わる頃にはあゆむはもう二度と自分は学校へ来ないような気にさえなっていた。
隣りのクラスのゆかりたちがやって来て、やっぱりあゆむの退院祝いに出かけようと言いだすのが、もはや聞くのも面倒だった。それでもみんなに謝って、肋骨がくっついたら遊べると言い、みんなも口々に残念がって、でもまた絶対遊ぼうと約束し、電話すると言って別れた時には心の底から安堵した。
あゆむは更衣室のロッカーから置きっぱなしになっていた体操服や幾冊かの教科書を取り出し鞄に入れた。途端に鞄は重くなり、同時にあゆむの気持ちも重くさせる。
自転車、欲しいな。あゆむは心の中で呟いた。事故でぶっ壊れた赤い自転車はとっくにゴミになってしまった。自転車があれば鞄が重くても平気だし、学校に来るのにわざわざ遠回りになる不便なバスなんかに乗らなくてもいい。しかしあゆむは少なくとも今の時点で親に自転車が欲しいなどとは言えないのを分かっていた。
なにも電動アシストだの、ブランドの馬鹿高い自転車を買ってくれというわけではない。ホームセンターの安売りで、一万円もしないようなのでいい。なんなら、貯金していたお年玉。あれを崩してもいい。そうすれば自分の買い物だから親に断る必要もないのだけれど、あゆむは今、両親に「自転車を買う」なんてことがどれほど心配の種かと思うととても言い出すことはできなかった。
この顔の怪我。ガーゼを取り替えてくれる母親の手が小さく震えるのもあゆむは知っている。自転車に罪はなかったと分かっていても、自転車にさえ乗っていなければ。あゆむでさえもそう思うのだ。親が思うのは当然のことだった。
あゆむは肩に鞄を担いだ。と、その時だった。更衣室の前の廊下を女の子たちが賑やかに、それはもう結構なボリュームでお喋りしながら歩いて来るのが聞こえてきた。
「そりゃ、遊べないよねえ」
「顔の傷、ひどいんでしょ」
「あれ、ガーゼの下ってどうなってんの」
「あー、なんか、めちゃめちゃなんでしょ。肉がえぐれたらしいよ」
「なにそれ、マジで。グロい」
「なんで知ってんの」
「目撃情報、あんた、知らないの?」
「知らないよー」
「そういう噂、聞いたなあ」
あ、私のこと。あゆむは咄嗟にロッカーの影に身を潜めた。声はどんどん近くなってくる。
「てゆーか、ほんと、遊べないよ。そりゃ」
「藤井くん、まだ意識ないってほんと?」
「らしいね」
「それってやばくない?」
「やばいよ、そりゃあ。だって、もうあのまま植物かもしれないんだよ」
「マジで」
「それ、ほんとキツいわ」
「重すぎる」
「自分だけ助かるのもねえ……」
「そういう意味ではさ、あの子、よく学校来れたね。アタシだったら無理」
声が早苗たちであるのは分かっていた。もう、疑う余地もないほどにくっきりと。だってさっきまで一緒にいただけでなく、これまでずっと一緒だったのだから間違うわけがないのだ。
自分のいないところで噂されるのは仕方ないと思っていた。するなという方が無理なのだ、と。特に事故にあってからは自分の名前が、存在がいかに独り歩きしてしまったかをあゆむは知っている。実際、補習の時も図書室でも、誰もがあゆむを見てひそひそと囁きを交わしていたではないか。
声が遠ざかって行くとあゆむはおもむろに更衣室の窓を開けた。窓は一階の中庭に面していて、窓の下は花壇になっている。あゆむはそのまま窓によじ登るとまず鞄を先に地面に放り投げ、それから花壇めがけて飛び降りた。
ローファーで花を踏みつぶしたまま、あゆむは数秒その場にしゃがんでいた。大した高さでもないのに着地の衝撃が肋骨にじんと響いていた。が、それよりもさっきの言葉が体中を駆け巡って、今にも嘔吐してしまいそうだった。
泣いてはいけない。あゆむは自分を奮い立たせると鞄を拾い上げた。そして速やかに学校を出ると、まだバス停でうじゃうじゃとバスを待つ制服の群れから一秒でも早く離れるために、行き先も確かめないで一番最初にきたバスに乗り込んだ。
バスは海岸沿いを通る路線で、狭いシートに腰をおろすとあゆむは窓から陽炎の揺れる通りを眺めた。
ジブンダケタスカルノモネ。口の中で飴玉のように転がしてみる。海沿いの国道と電車の線路が馬鹿馬鹿しいほどなだらかに伸び、どこまでも行けるような錯覚を起こす。今は夏の日差しに焼かれて海がぎらぎらと光って見える。
岬が見えたらそこには灯台。海釣りをする人の影がぽつりぽつり。浜に面したお洒落なカフェの冷たいココア。ガラス窓から見える、夏の景色。水着の色。自分にとって慕わしく身近なものであったはずが、今は車窓から眺めるだけのまるで絵ハガキのような風景だった。
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