第5話

昨日からしつこく着信があったのは、同じクラスの山元綾子や本田美香といった仲のいい友達からだった。




 補習のない彼女達はすでに夏休み気分で、あゆむを気遣いつつもそうとは知らず無神経に楽しい空気を振りまいてあゆむを疲れさせた。




 彼女たちが補習を受けるあゆむを取り残さないために遊びに誘ってくれたり、報告してくれたりする気持ちは分かる。それが彼女たちの友情なのだということも。でも夏休みの話題など今のあゆむには無用だし聞きたくもなかった。




 けれどそれは彼女たちのせいではなかった。ただあゆむから精気が抜かれてしまって、かつては自分も同じように持っていて共有しあっていたはずの明るさも健康も、無邪気さもあゆむには今はうっとうしいばかりで電話に出るのも面倒だし、絵文字だらけのメールに同じくデコって返す気力もなかった。




 携帯電話の小さな画面から否応なく放出される好奇心の塊。なぜそれを素直に善意と思えないのか。あゆむは自分を卑屈だと思うし、まさかとも思うけれど彼女たちが「心配」という言葉を隠れ蓑にしてあゆむの心に踏み込んでくるような気がしてならない。




 放っておいてほしいと思う。でも、そう思ってしまうことも申し訳なくて自分がいやになる。綾子も美香も、早苗もゆかりも、みんな病室であゆむの為に泣いてくれた友人たちだ。あゆむが生きていたことを喜び、泣いてくれた。なのにどうして自分には対岸の火事のようにしか感じられないのだろう。




 学校に着くと、あゆむはこれといって親しい子のいない教室で補習を受けるべく席についた。




 昨日の図書室がそうであったように、ここでもあゆむは好奇の視線に晒されていた。




 窓の外では野球部が声を張り上げている。バットがボールをぶっ飛ばす小気味よい音が時折響く。




 あてがわれたプリントを埋めながら、世界が平和であることに思いを馳せる。少なくともあゆむ一人残してこんなにも世界は健やかで、中庭の日向葵も伸びやかに空に向かっている。




 夏休みが本格的に始まっても自分には夏休みなんてものはなくて、虫ピンで留めつけられたように一つ所に留まっていなければならない。それはつまらないとか、自分だって休みたいとかいう我儘を言う気も起きないほど強い力だ。




 あゆむは補習のことを考えているのではなかった。この憂鬱な物思いとあの事故の瞬間。自分の時間はそこで止まってしまっている。明日の終業式には嫌でもみんなに会わなければいけない。猫が喋ると言えば彼女たちは信じてくれるだろうか。頭の隅を「友達なら信じてくれるかも」などという痴れごとがよぎったが、すぐに掻き消えた。




 そういえば板橋には友達はいるのだろうか。あゆむは考えた。自由に外へ出かけて喧嘩傷を作ったり近所の猫といるのを見かけたことはあるけれど、彼らの関係は友達とかカノジョだったりするのだろうか。もしそうなら板橋も誰かに話しているんだろうか。人間と言葉が通じるようになった、と。それともそんなこと誰に話しても信じて貰えないから黙っているだろうか。




 小柄な板橋は近所の大きな猫とも喚きながら取っ組み合いの喧嘩をする。あの大声はいつもなにを怒鳴り合っているんだろう。




 プリントを提出するとあゆむは速やかに教室を出て中庭のベンチに行き、そこから順番にメールの返事を返し始めた。




 レス遅、ごめーん。補習マジ疲れる。やばい。帰ったら速攻で寝ちゃってた。今もまた補習。まー、しょーがないんだけどさー。これ全部片付かないと夏休みがこないよー。とりあえず、明日。




 風のない真昼だった。あゆむは自販機で紙コップで出てくるコーラを買うと、氷をがりがりと噛み砕きこのまま時間が止まればいいのにと思った。




 生死の境を彷徨った三日間。そして覚醒。あの時最初に見たのはICUの天井とものものしい機械の類いと、看護師。担当医を呼ぶ声。「あゆむちゃん、分かる? 聞こえる?」そう言われてあゆむは頷いた。「手、動く? ちょっとでいいよ。指は? うん、そう。動くね。じゃあ、足。そうそう。うん、大丈夫。もう大丈夫だよ」言われるままにあゆむは指先を動かしたりし、「すぐにお母さんたち来るからね」って一体なにが大丈夫なのかまるで分からず、ひたすら三日間の記憶を探るのに必死だった。




 なにも覚えていない。当然だがそれはあゆむをひどく不安にさせた。




「あの……」


「なに、どうしたの?」


「今日、何日……」




 担当医がベッドの脇に腰かけ、あゆむの手を握りながら事故にあったこと、その後三日間眠っていたことを簡単に教えてくれた。その時も医者は「でも、もう、大丈夫。心配ないからね」と言った。




 それから両親が到着し、二人はあゆむを見るなりそれはもう筆舌に尽くし難いほど号泣した。




あゆむは父親が泣くのを生まれて初めて見た。姉の玲奈が結婚する時だって泣かなかったのに。父親は「よかった…よかった…」と何度も嗚咽まじりに唸るように言った。




 あゆむは両親が自分のために、いや、自分のせいで泣くことに気恥ずかしさや有り難さよりも罪悪感が勝って、ただ悪いことをしてしまったと思った。だから、彼らに向かって最初に発したのは「ごめんなさい」だった。




 それからICUを出て一般病棟に移るまでの間。あゆむはその治療室の特殊性と、緊急性と、まさに命の現場といえる場面に晒されていた。




 実際あゆむのいる間にそこで二人の人が亡くなった。あゆむはそれを見たわけではないのだが、ベッドに横たわりながらすべてを感じていたし、また、見ずとも消えて行く命の気配は怖いぐらいに鋭敏に感じられた。




 死ななくてよかった。あゆむは、他の患者が死ぬと心の底から自分の奇跡に感謝できた。そういう自分をあさましいと思ったけれど、それが真実だった。誰だって他人の命よりは自分の命に価値を置いている。それだけのことだ。でもそう思う事がひどく悲しい。




 あゆむは紙コップを握り潰すとゴミ箱に投げ込んだ。空っぽのゴミ箱に軽く乾いた音。退院してからのあゆむはため息ばかりだった。




 翌日の終業式、あゆむは何度も行くのをやめようかとためらった。友達たちに「行く」と言ってしまった手前、行かなくてはいけないと思うのだが、この顔を、いや、自分の存在そのものを晒すことに抵抗があった。




 そういうあゆむの物思いを母親は素早く察知するのか、朝食の目玉焼きを焼きながら、問題の深刻さをそうとは感じさせない気遣いでくるみこんですんなりとした調子で言った。




「あゆむ、どうせ毎日補習なんだから、今日ぐらいサボってもいいんじゃないの? 通知簿だって明日行けばくれるんだしねえ」


「……まあね」


「だいたい試験休みもなかったわけだしね」


「まあね。てゆーか、試験受けてないんだけどさ」


「それは仕方ないでしょ」




 まあね。事故じゃあね。命の重さに比べたら試験如きがなんだっていうのよね。でも、だからといって助かって、試験を受けなかったことがチャラになるかというとそうでもないんだから、学校って私よりも試験が大事なのかもよ。




 あゆむは母親に反抗する気など毛頭ないのだが、わざわざそんな皮肉を言いそうになって、それを堪えるべくコーヒーを啜った。




 板橋が台所の隅で餌を食べている。その後ろ姿のちんまりと丸い姿は綿埃のかたまりのようでもあり、毛糸玉のようでもあった。母親が立てる物音にかき消されてはいるが、カリカリぽりぽりと口を動かし肩を揺らすのが分かる。




 目玉焼きとトースト。ヨーグルト。その後に病院で貰った薬を何種類も。朝食をすませるとやっぱりサボること自体も気が滅入るのでとりあえず登校することにした。普段なら絶対にサボったらなどと言わない母親にそんなことを提案されるのがいかにも過保護でわざとらしくて嫌だと思ったせいもあった。




 あゆむは友達の涙を他人事のように思ったことに罪悪感を感じていた。でもあの時は尋常ならざる事態だったわけだし、それに今なら素直にみんなと会って、明るく朗らかな空気に接して自分を取り戻すことができるかもしれない。




 あゆむは出がけにリビングのソファに寝転んで丹念に毛づくろいをしている板橋に声をかけた。


「板橋」


「なに」


「……なんでもない。いってきます」


「いってらっしゃい」


 板橋はちょっと体を起してあゆむを見上げている。あゆむはそっと近づいて、恐る恐る手を伸ばした。


「なに」


「……」


 板橋は一瞬怪訝な険しい顔をしたけれど、あゆむの手がびくびくしながら不器用にその頭を撫でるとぷっと小さく笑った。しかし、笑った分だけもう一度、今度はひどく優しい口調で言った。


「いってらっしゃい」


「うん」




 あゆむは板橋が自分の気持ちを察していることが、言葉が通じることよりもよほど不思議だった。母親もあゆむを気遣っているけれど、板橋の方があゆむの心を見透かしている。その小さな体で、毛皮で、あゆむの指先から放たれる不安と混沌を感じている。




 板橋の毛皮は滑らかで、ふんわり柔らかだった。あゆむはほとんど初めて板橋に触れたような気がした。この家に来てから互いに反目しあっていたような暮らしだったけれど、言葉が通じればなんのことはない。通じさえすれば、理解できるのだ。なんと単純なことなのだろう。それなのに人間同士では言葉を駆使しても通じない。こんな馬鹿なことってあるだろうか。あゆむは海辺の病院の心療内科医を思い出していた。目下、もっとも「通じなかった」人。


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