第4話
帰宅するとあゆむはまず最初に部屋中をまわって板橋の姿を探した。
以前は応接間のガラス戸や縁側の障子、和室の襖も居間の扉もきちんと閉めてあったのに、板橋が来てからというもの母親が「自由に行き来できるように」とわずかに隙間を開ける習慣になっていた。板橋はそのおかげで家中のどこへでも自由に出入りすることができるた。無論、勝手口の扉には猫ドアが取り付けられ、外出だって自在だ。
あゆむはすべての扉が少しずつ中途半端に開けてあるのをだらしなく思っていたし、母親がそこまでして板橋を優遇する理由が分からなかった。そもそも板橋は姉と暮らしていた時は狭い1LDKの「家猫」だったはずなのに。
板橋が来てからというもの母親は板橋を積極的に可愛がり、面倒をみている。それはほとんど「献身」といってもいい。母親がそんなに猫を好きだなんてあゆむは知らなかった。そう言うと母親は笑いながら「まあ、いいじゃないの」と笑うだけだった。
部屋中を順番に見て回りながらあゆむは小声で「板橋」とその名を呼んだ。返事があったらどうしようと思いながら。
しかし板橋は留守らしかった。あゆむは安心したような、残念なような気持ちで二階の自分の部屋にあがった。そこだけはドアがぴっちりと閉じられていて、板橋が勝手に入れないようになっていた。
部屋に入ると熱気が籠りむうっとした空気が押し寄せてきて、瞬時に全身に汗を噴き出させる。
窓を一度大きく開けてからエアコンのスイッチをいれる。低い動作音。その後に訪れる奇妙な静寂。あゆむは鞄を放り出してベッドに腰を下ろした。
課題やレポートのせいではなく、暑さのせいでもなく、ひどく疲れていた。まだ身体が本当ではないせいもあるのだろうけれど、ため息ばかりがこぼれる。
携帯電話にメールの着信音。たぶん友達からだろう。心配してくれているのは分かっている。でもメールを見る元気もなければ、返信する気力もない。なにもかもがどうでもいいような気さえする。
あゆむはゆっくりとそのままベッドに横になった。すると、閉め切ったドアをがりがりとひっかく音がするのに気がついた。
板橋だ。はっとしてあゆむは起き上がり、ドアを開けた。
而して板橋はそこにいた。ちんまりと足元に鎮座し、あゆむを見上げている。
「……なんか、呼んでなかった?」
「……」
聞こえる。やっぱり。
あゆむは壁にもたれて腕組みをした。今日二度目の絶望感。
「なんの用?」
「……あんたと言葉が通じるかどうか、確認したかったのよ」
「……ああ」
「でももう分かった」
「なにが」
「やっぱり私の頭がおかしくなってるってこと」
言いながらじわじわと涙が滲んできて、目の前の板橋が歪んで見えた。
そら見たことか。そうあの医者に言ってやりたかった。様子を見たところで聞こえるものは聞こえるし、話すものは話すのだ。だから言ったのに。それを子供と思って馬鹿にして。
涙の粒が足元に落ちた。ぱたっと大袈裟な音で。板橋はその滴の匂いを嗅いだ。あゆむは手の甲で涙と洟水を拭った。
板橋は涙にくれるあゆむをしばらく見守ると、ついぞ入ることのなかったあゆむの部屋にすたすたと入って来た。それを潮にあゆむも部屋の中に入り、ベッドに腰をおろしてティッシュで洟をかんだ。
「お母さんに言った?」
「言えるわけないでしょ!」
「……」
「顔に怪我して、その上頭までおかしくなったなんて……」
板橋はあゆむの足元に座り何事か思案するように黙った。それはわずかな時間だったがあゆむが落ち着くには充分な時間だった。
「まあ言ってもどうせ信じてくれないだろうしな……」
板橋は小さく笑うように、労るように、呟いた。
その通りだった。少なくとも心療内科医もまるっきりあゆむの言葉を信じず、頓珍漢な診断を下した。
奇妙なことに、今、自分はこの小さな生き物と言葉が通じているだけでなく、気持ちまで通じている。そのことに気付いたあゆむは俄かに慰められた気持ちになった。
「ああ、明日も補習だわ……」
呟くとあゆむはベッドにごろりと横になった。
携帯電話が鳴っている。あゆむは心の中で夏休みなんてクソ食らえと思った。
翌日も馬鹿馬鹿しいほどの青天で玄関を出るなり日射しに眩暈がした。
「いってらっしゃい」
振り向くと塀の上に板橋がいた。
もう驚く気力もない。あゆむは「いってきます」と返してバス停へと歩き出した。
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