第3話

あゆむが担ぎ込まれそのままお世話になった病院は海の側にあり、車寄せにはわざとらしい棕櫚の木が植わっていて、日射しを受けて勢いよく空へ向かって伸びていた。




細い路地を抜ければ向こうはすぐに小さな砂浜になっているが、そこは遊泳禁止区域になっている。線路が海沿いを縫うように敷かれ、病室にいても潮風と電車の音が聞こえてくるので、あゆむはここは天国ではないはずなのに天国のようにひなびたのどかさに溢れていると思っていた。無論、あゆむは天国がどのようなところであるかは知らないのだけれど、もしあるならばこんな風に静かな、遠い場所なのではないかと思えた。




 あゆむが汗を拭きながら受付で診察券を示すと、受付の事務員は「おや?」という顔をした。事故で担ぎ込まれ新聞にまで載ってしまい、尚且つ顔に傷を残したことからあゆむは自分がいかに有名になっているかを知っていた。




 事務員はパソコンのモニターを見ながら、


「今日は予約が入ってないけど……具合でも悪いの? 担当は外科の田辺先生よね?」


「いえ、今日は違うんです」


「え?」


「予約はしてないけど……、心療内科を……」


「ええ?」


 事務員は驚いて顔をあげた。


「予約がないと駄目ですか?」


「……ちょっと待ってね」




 この時あゆむは真剣な顔をしていたのだろう。制服のまま汗だくになってやってきたことも尋常を欠いていて、事務員は気圧されるように席を立って内線電話をかけにいった。




 あゆむは縋るように受付のカウンターにしがみつき、俯いていた。




 待ち合いロビーに並ぶソファは老人がほとんどの席を占め、備え付けのテレビからはNHKのお昼の番組が流れていた。




 事務員はすぐに戻って来ると、あゆむにことさら優しくにっこり微笑んだ。


「今ちょうど心療内科の田中先生が手が空いてるそうだから、話しは聞いてくれるって言ってるけど。カウンセリングみたいなものね」


「……」


「お部屋は3階。心療内科5番ね」


「はい」




 カウンセリングという言葉にあゆむは白けた気持ちになった。最近なにかというと学校にカウンセラーだのなんだのが派遣されてきて、生徒の悩みを聞いたり不安を取り除いたり、心の傷とやらを癒したり守ったりしようとする傾向にあるが、自分のはそんな甘っちょろいものではないと内心むっとした。




 あゆむの学校にもいじめによる心の傷だの、地震などの天変地異による不安感だのを緩和または改善するためにカウンセラーがやってくることがある。それらは放課後の保健室で行われ、当人の希望で相談することができる。しかし、あゆむはこれまでそういった相談を安易に受けてさも救われたような、安心を授けられるような、または癒されたり、ましてや理解者を得て喜ぶようなそういった輩を軽蔑していた。心の傷だなんて言葉を口にするのは簡単すぎる。しかもそれを見ず知らずの他人に打ち明けて安心を得るなどあゆむには考えられない。あゆむだって傷つくこともあれば辛いこともある。学校生活に問題のない生徒など、本当は一人としていない。でもそれが一体どうして部外者である、しかも「大人」に分かるというのか。




 それでも話せば楽になるというのは本当かもしれないが、あゆむは今話すことよりも本質的な「治療」を求めていた。即ち、猫と言葉が通じるという妄想を払う治療を。その為の心療内科であって、必要なのは処方箋であり「相談者」ではないと思った。




 あゆむは階段をあがって指定された部屋の扉を叩いた。すぐに中から男の人の声で「どうぞ」と返事があった。




 するするとスライド式の扉を開けると、そこには思ったよりも若い医者が白衣を着て座っていて、あゆむを見ると「こんにちは」と会釈をした。あゆむも反射的に頭を下げ「こんにちは」と小さく返した。




 先生は机に広げたカルテをクリアファイルに戻し、それから、パソコンをかたかたと操作した。




「えーと……鈴木あゆむちゃん?」


「はい」


「外科の担当は田辺先生だね。怪我の具合はどう? 体調でも悪いの?」


「……いえ、体は大丈夫です」


 あゆむは静かに答えながら、子供扱いされているなと思った。でも仕方ないとも思った。自分が子供なのは事実なのだから。


「心療内科を受けたいそうだけど、なにか心配ごとでもあるの?」


「……」


「今日は学校の帰り? もうすぐ夏休みだね」


「……」


「なんでも話してくれていいんだよ」


「……」




 ……だめだ。あゆむはこのカウンセリングをすでに後悔していた。


 若い医者は親切そうに笑っているが、あゆむの目にはそれがおためごかしにしか思えなかった。




「あの」


「うん」


「そういうんじゃないんです」


「え?」


「心配とかそういうんじゃなくて。私、幻聴が聞こえるんです」


「……え」


 医者はあゆむの言葉が意外だったのか、よほど突拍子もなく聞こえたのか、きょとんとした顔であゆむを見つめた。


「頭を打ったせいだと思うんですけど、この前退院して家に帰ったら猫が喋るんです」


「……」


「……信じてもらえます?」




 あゆむはもう目の前の医者に縋りたい気持ちは失せていた。




 年若い心療内科医は経験こそ不足していたもののその分だけ熱意は持ち合わせていて、目の前の女子高生の言葉を神妙に聞くだけの気概はあった。受付から連絡を受けた時は顔に傷を負った少女の嘆きを聞くものと思っていたのでその為の言葉は用意していた。が、実際に現れた女子高生は難しい顔をして真剣な口調で幻聴が聞こえると言う。それも、猫が喋るのだ、と。




 彼は大きく息を吐き椅子の背にもたれ腕組みをした。さて、どうしたものだろう。彼女がわざわざ嘘をつきにここまで来ているとは考えにくかった。なぜなら彼女はすでに充分な時間をこの病院で費やしている。怪我の痛み以上に精神的苦痛も味わっている。その場所へ舞い戻って来てなんの楽しいことがあるだろう。




 心療内科医は考えを改めることにした。これは本当に「診察」の域である、と。


「家で猫を飼ってるんだね。一匹?」


「はい」


「いつから飼ってるの?」


「一年ぐらい前から。前は姉のところにいたんだけど、アメリカに行っちゃったから、それで」


「それまでに動物を飼ったことは?」


「ありません」


「初めてのペットなわけだね」




 ペット。その言葉にあゆむは違和感を覚えた。板橋が飼い猫であるのは間違いないのだが、ペットというのはもっと愛玩動物とでも言おうか、可愛がられているものに対する言葉に思える。板橋がそうではないとは言わないのだが、それでもあゆむにとって板橋はペットなどという愛らしいものではなかった。




「で、猫は君になんて話しかけるの」


「……なに、その顔って」


「……」


「痕が残るのかって」


「……それから?」


「運が悪かったなって。日頃の行いが悪いんじゃないのかって」


「……」




 質問に答えながらあゆむは怒りが再燃してきて、声が震えるのを止めることができなかった。




 日頃の行いだって? なにが悪くてこんな目にあうというのか。こんな大きなバッドラックに見舞われるほどの悪事を働いた覚えはない。もしも「補習があったから」と言って嘘をついて帰宅が遅くなったことや、参考書を買うはずのお金で新しい靴を買ったりしたことの代償がこの事故だというなら、世間にのさばる詐欺だの横領だの、殺人だの放火だのは法が裁くより先に強烈な罰で死んでいるはずだ。


 事故は、事故だ。過失割合があるにしてもそれは偶然のはずだ。あゆむは膝の上で拳を固く握りしめた。




 その様子を見ていた心療内科医はこの痛ましい怪我を負った女子高生が泣きだすのではないかと身構えていた。




 彼の診断は、こうだった。猫ではないのではないか。イマドキの女子高生がどんなものかというのを医学的に説明することはできないが、系統立てることはできる。口さがない年頃の少女たちが集まって彼女の顔の傷についてなにか言ったのだろう。それがこの女子高生の精神を傷つけないはずはない。即ち、彼女の言うのは同級生の意地悪な発言を猫になぞらえて、苦しい現実から目を背けたいが故に自分の頭がおかしくなったのだと言うのではないだろうか。




 無論それは彼の仮説にすぎない。精神という分野に断定はないのだ。彼は注意深く女子高生を見守った。




 しかしあゆむは泣かなかった。その代わり真剣な目で、


「治りますか?」


 と尋ねた。


「……治るよ」


「本当ですか?!」


「うん。心配ないよ。時間はかかるかもしれないけど、大丈夫。ちょっと落ち着いて整理してみようか」


「はい」


「退院して、家に帰ったら猫が喋りかけてくるんだね?」


「はい」


「それは何度も? ずっと?」


「いえ、一度だけ……。うちの猫、しょっちゅう出かけてるから。あ、でも今日来る途中でも学校の近くの猫が喋ってて……」


「ということは、家の猫だけじゃなくて他の猫も喋るんだね?」


「はい」


「猫だけ? 犬は?」


「犬には会ってないから分からないです」


「退院したのは……」


「一昨日です」


「そう。まだ二日だ」


「はい」


「今、君に必要なのは休息だよ」


「え?」


「退院したばかりだし、疲れてる。心配ごとも色々あるだろ。それだけで君の頭がおかしいとは言えないよ。もうちょっと様子を見て判断した方がいい。猫が喋るならそれもいいじゃないか。無視していればいいよ」


「……」


「それがあまりに頻繁になるとか深刻になるとかしたらまた手段を考えよう」


「信じてないんですね」




 あゆむは顔に傷が残ると告げられた時よりも絶望的な気持ちになり「来るんじゃなかった」と一言呟いた。




 突然さっきまでまるで気にならなかった医者の前髪が額に落ちる様子が鬱陶しく眼につき、消毒薬の匂いが鼻をさした。窓の外ではわずかな命を全力で燃やして蝉が鳴き叫んでいる。




 あゆむは立ちあがり、医者に向かってくっきりと言い放った。




「医者はなんでも様子を見ましょうばかりで、治療もしないでお金をとるって死んだおばあちゃんが言ってたわ。本当にそうよね」




 若い心療内科医は少女の目が怒りに燃えるのをなかば呆然と見つめていた。そんなにはっきりと言われるとは思いもよらなかった。自分は医者として、また、大人として順当と思われる回答をしたつもりだったのだが。




 医者のその考え方は傲岸だが、確かに常識的な発言ともいえた。しかし今自らが少女を傷つけたとは考えもしなかった。でもそれも無理からぬことだった。いかんせんあゆむの告白は唐突すぎた。いや、荒唐無稽と言ってもいい。無論、心療内科を受診する患者の中にはもっと突飛なことを言う者も多いし明らかに「神経に異常をきたしている」状態なのだが、「猫が喋る」と言う少女の瞳の中には狂気はなかった。彼は医者として、自分の診断を信じたに過ぎない。ただ読み違えたのは、彼が思うよりも少女が聡明で冷静だということだった。




あゆむは乱暴に扉を開け、荒い足取りで病院を後にした。

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