第2話

期末試験の終わった学校は試験休みに入っていたが、あゆむは補習を受けるために登校しなければならず、試験休み中に各教科担任からレポートなどの指示を受けて、少しでも試験の穴埋めをすることになっていた。




 本来なら試験を受けていないのだから評価は0なのだが、レポートをこなすことで試験に相当するような「見込み点」を採点してくれるというのが学校の温情なのだけれど、あゆむは成績がどうなろうと本当はどうでもよかった。




 制服を着て家を出ると夏の太陽が容赦なくあゆむの脳天を焼く。玄関を出る時あゆむは自然な動きで門柱の脇に停めた自転車に乗ろうとしたが、ポケットの鍵を探って初めて自分の自転車が事故で「廃車」になったのを思い出した。




 自転車はあゆむが高校入学の時に通学用に買って貰ったものだった。あゆむはため息をおさえることができず、暗く沈んだ顔でバス停へと歩いて行った。




 バスを待つ間、あゆむは人々の視線が自分に注がれていることが叫び出しそうになるほど苦しく、悲しいよりは怒りにも似た感情で痛いほどだった。




 無理もない。実際あゆむの顔に貼られたガーゼは清潔に白いが、白さの分だけ怪我のひどさを暴露しているようなもので、結果、視線は顔のみならず手足の痣や絆創膏などにも順に移行していった。




 あゆむは怪我のことはもはやさほど気にはしていなかった。ただ、ひどく孤独な気持ちだった。




 季節はあゆむが意識を失っている間に梅雨明けし夏へと替わっていたし、自転車は失い、友達はみんな試験をすませて休暇への期待とのびやかな気持ちで今頃は遊ぶ計画でも立てているだろう。




 無論あゆむだって補習さえ受ければみんなの元へ行くことができるし、いくらでも遊ぶことができる。自転車だってまた買えばいい。けれど、なぜだろう。あゆむにはもう二度とあの呑気でなんの悩みもなかった幸福な自分には戻れないように思えた。




 まるでやる気がでない。あゆむは自分がずいぶん遠くへ来てしまったような、もしくはあの事故の瞬間に取り残され、そこから一秒たりとも時間が進んでいないような気がしている。




 意識が戻ってICUを出て一般病棟へ移ると、仲のいい友達がすぐに見舞いに駆けつけてくれた。




 彼女達はあゆむの枕元で、あゆむの為に号泣した。あゆむの生還を喜び、安堵で泣いた。




 しかしあゆむはどんなに泣かれても、喜ばれても、それがまるで他人事のように思えてならなかった。




 こんなにも親身になってくれる友達がありがたかったし、嬉しかったのだけれど、どうしても対岸の火事を見るような気持ちを拭うことができなかった。


 誰も嘘など言っていないのに、言葉はすべて予定調和のシナリオのように感じられ、涙は安っぽいドラマのようだった。




 そう思った自分をあゆむは恥じた。そして思った。自分は奇跡的に命をとりとめたかもしれないが、精神的には死んでしまったのだ、と。




 少なくともかつてのあゆむは人の親切や好意を素直に受け取るだけの明るさを持っていたし、こんなにも愛されている自分を知れば感謝や感激できる謙虚さを持っていた。




 助かってよかったと口々に言われ、泣かれながら、あゆむはぽつりとつぶやいた。「ごめん」と。それは何も感じないことの申し訳なさによる謝罪だった。




 学校へ着くとあゆむは職員室へ行き、先生の間をまわっていちいち大丈夫かとか無理するなとか調子はどうだとか言われながらレポートの指示を聞いた。




 ある先生は教科書を何十ページも丸写ししてこいと言い、ある先生は問題集のコピーを渡してそれをやって来るようにと言い、またある先生は指示されたテーマで何か書いてくるようにと言った。




 校内には人気がなく、グラウンドでは野球部が練習する声が高く響いていた。


 あゆむは大量の「課題」を抱えて図書室へ向かった。




 図書室は渡り廊下を挟んで本校舎の向かいの建物にある。中庭には園芸部が植えたひまわりがバカバカしいほど派手な色彩を振りまいて咲き誇っていて、あゆむはその黄色を憎たらしく思った。今のあゆむには世界のどんな美しいものも白々しく感じるだけで、心を動かしはしなかった。




 図書室の引き戸をがらりと開けると、勉強したり暇つぶしに友達と集まったりしていた生徒たちが不躾な視線を入口へ走らせ、そしてあゆむを見るとぎょっとした顔になった。




 あゆむはまっすぐに空いている席へ向かい、腰を下ろした。無遠慮な視線とひそひそと囁かれる声が背中へ波のように押し寄せてくる。あゆむはつんと取り澄ました顔で鞄からノートや教科書を取り出して机に広げた。




 見たければ見ればいい。いっそこのガーゼを取りはらって傷を見せてやってもいい。見れば黙るというのならば、見ればいいのだ。血を流すということがどういうことか、その目で知ればいいのだ。そうしたらもう二度とくだらないゲームやドラマに熱中する気はしなくなるだろうし、精神的にも肉体的にも他人を傷つけたりできなくなるだろうから。




 あゆむはペンを握り一心不乱に指示された課題を遂行していった。文字を書けば書くほど、計算をすればするほど、心は静かに凪いでいく。あゆむは集中することですべての物思いを頭から追い出そうとしていた。




 板橋にリモコンを投げつけたことを母親は叱らなかった。と同時に、何があったのかを問うこともしなかった。




 板橋は食器棚を飛び降りて廊下へ駆けだして行き、どこへ行ったのか夜になっても戻ってこなかった。




 あゆむは姉が板橋を連れてきた時のことを思い出していた。




 姉の自転車の前かごに捨てられていた板橋。まだ眼も開かないぐんなりした生温かい塊が全部で4匹。病院に運び込み、助かったのは板橋一匹だけだったこと。




姉は板橋を育て、共に暮らしてきた二年間を泣きながら語り、アメリカに連れて行くことができないことを話してさらに泣いた。板橋がいかにかしこく、いかに可愛く、どれだけ良い猫か、幼い頃の写真を見せては自慢し、その後にまた泣いた。




 東京からキャリーにいれて連れて来られた板橋は生意気な顔をしていて、そのくせ姉にだけは甘えた声でにゃあんと鳴いて擦り寄っていき自分の主が姉一人であることを主張するかのように誰にも手を触れさせず、敵意さえ剥き出しにした。




 こんな調子でここで飼うことなどできるのだろうかと母親はひどく不安がったけれど、他に方法があるでなし、板橋は「うちの猫」になった。




 あゆむも最初は板橋に慣れて貰おうと腐心した。言いかえれば手なずけようとおもちゃを買い、文字通りの猫撫で声で板橋を呼んでは遊んでやろうとしたり、煮干しを与えたりもしたのだが、板橋はあゆむに呼ばれてもちらっとそちらを見るだけでおもちゃなどには目もくれず、むしろ馬鹿にするような顔をし、煮干しはひったくるようにして咥えて逃げて野良猫のように圭角だった。




 一度あゆむは板橋を可愛がろうとしてとっ捕まえて抱き上げたことがあるが、強烈な攻撃をくらって思わず悲鳴をあげてしまった。




 腕に滲んだ血を見ながらあゆむはその時思った。もうこいつと慣れ親しむことは無理だ、と。以来、あゆむは板橋に近寄ることを諦めた。




その後母親だけが、その母親としての役割のせいか熱心かつ根気強く板橋に歩み寄り続け、板橋を征服した。




今では呼べばやって来るし、時折台所に立つ母の足元に顔を擦りつけたりする。あゆむはそれが羨ましくはなかったし、嫉妬する気もなかった。ちょっとばかり「なにさ」という気持ちになりはしたが、すぐに「こいつは私の猫じゃないから」と言い訳のようなことを考え、もはやその存在さえも「ああ、そういえば猫がいましたっけね」ぐらい無関心に成り下がっていた。




 実際、小動物が嫌いなわけではないのだがあゆむには猫にかまけるより他に関心事が沢山あり、学校生活という社交で忙しかった。それで結局同じ家にいながら顔もあわせないような、互いに無関心を決め込んだ「冷えた関係」で今日まで来たのだった。




 その板橋が。あゆむはぱたっとペンを置き大きくため息をついた。すでにいくらか埋められた問題集に視線を落としながら思った。馬鹿になったわけではないのよね、と。あゆむはそんなに成績の悪い生徒ではないのだ。だからこその「見込み点」という恩情だし、できると思われているからこそのレポートだった。




 集中することをやめたあゆむの耳に図書室の隅のひそひそ話しがその静けさの分だけ強調されて聞こえてきた。




「あの子? 事故の?」


「そうそう」


「マジで。あの顔、かわいそー」


「だよね。でも、助かったんだからいいじゃん」


「それはそうだけど……」


「まあ、確かにかわいそうだけど」


「けどよく学校来れたね。私だったら無理」


「ねー」




 来なくてすむなら、来ないわよ。あゆむは心の中で呟く。助かったからいいだなんて、他人事も甚だしい。確かに自分だってそう思いはしたけれど、それは自分のことだからこそそう言えるのだ。他の誰にもそんなことは口にして欲しくない。ましてや傷一つなく、頭がおかしくなったわけでもなく、今もこうして呑気に図書館で暇つぶしにエアコンで涼みながらこっそり本に隠してお菓子を食べるようなくだらない平和の中にいる奴らになんて、それこそ死んだって言われたくはなかった。




 あゆむは壁の時計をちらと見上げた。ひどく疲れていた。思えば昨夜はほとんど寝ていない。




 無理もない。猫が人間の言葉を話すなんて妄想。幻覚。あゆむはそっと自分の頭に触れてみた。




 あんなにも地面に叩きつけられたのに、あゆむの頭部に外傷はなかった。外傷がない方が危ないということで、検査は精密なものだったし、それはもう念入りに行われた。脳の機能のすべて。神経から運動能力から、なにもかも。その結果「どうもない」ということだった。




 医者も驚く奇跡の「無傷」だった。あゆむは病院のベッドで担当医から自分がいかに幸運かを聞かされた。「君が助かったことよりも、死ななかったことが奇跡なんだよ」と。助かる確率よりも死ぬ確率の方が高かったことから、あゆむは初めて自分の空白の三日間がどれほど重い時間であったかを知った。




 意識不明の三日間はあゆむには電源をオフにしたようなものでしかなかったのだけれど、実際には生死の境を彷徨った三日間であり、三途の川を渡る寸前だったのだ。といっても、彼の岸でまだ来るなと誰かが言ったとか向こう岸が花畑とかそういった夢は見なかったけれど。




 しかし、あゆむはもはや「助かった」とは思えなかったし、「死ななかった」とも思えなかった。一体、誰に事実を打ち明ければいいのだろうか。顔の傷はもちろん、肋骨も折れたままだ。まだ何度も病院に通わなければいけない。あゆむはその治療の他に精神科とか心療内科とかいった診察を受けなければと思った。




 時計を見ると針は昼食時を指していた。あゆむは本やノートを鞄にしまうと、静かに席を立ち図書室を出た。




 職員室へ寄って担任に帰宅することを伝えるとあゆむは学校を後にした。


 炎天下のバス停は色褪せた日除けと陽に焼けたベンチが侘しく、埃っぽい空気に晒されていた。




 これまでバスなど利用したことがないだけに、あゆむにはバスを待つ時間がひどく長く感じられた。昼間のバス停には人気がなく、道行く人もなければ目の前の道路も車一台通りはしない。




 不意にあゆむは鼻の奥がつんとして涙がぽろりと零れた。世界中が死に絶えてしまったかのように、自分は一人きりだ。そんなわけはないのだけれどそう思えてならない。もう自分は誰とも分かりあうことはできない。永遠に一人なのだ。




 なぜそんな風に思ったのだろう。あゆむは厭世的で孤独で、やりきれなかった。自転車を失ったこと。顔の傷。両親を号泣させてしまったこと。他の生徒の噂話。板橋。一体どうしてこんなにも背負いこんで、どうやって自分の中で処理すればいいというのか。




 あゆむは決して心弱い女の子ではなかったけれど、やはり自分が思う以上にダメージを受けていて、ベンチに座って太陽にじりじり焼かれるアスファルトの照り返しを浴びながら汗を掻き、しくしくと一人泣いた。泣いている間も汗が首筋を流れ、スカートの下で腿がじんわり濡れるのを感じていた。




 どのぐらい泣いただろうか。あゆむは泣き疲れ……というよりは、泣くことにも飽きてポケットからハンカチを取り出し、汗と涙を拭って大きく息を吐いた。


 と、そこへ背後にある民家の塀から、猫がしゅるんと出てきてベンチのあゆむを見るとびっくりしたようにぴたりと動きを止めた。あゆむは無視して洟水までハンカチでぐいぐい拭ってポケットに戻した。




「あら、ひっどい顔」




あゆむはぎくっとしてハンカチをおさめた手をポケットにいれたまま猫を省みた。


 猫は赤い首輪をしていて、茶トラで、すでに充分成育しきったような大きさで、あゆむを見て怪訝な顔でもう一度言った。




「眼が真っ赤よ」




 返事をするべきだろうか。あゆむは一瞬悩んだ。




 が、問題はそこじゃないとすぐに思い直し、やおら立ち上がるとバス停を離れて大通りへ向かって歩き出した。




 病院へ行こう。今すぐ。今すぐだ。とにかくなんでもいいから、病院へ行ってみてもらおう。こうなったら恥も外聞もあるものか。




 さっきまで気弱に流れていた涙はもう乾ききっていて、あゆむの胸には「死ななかった」ことのみが渦巻いていた。




 少し歩いてからそっとバス停を振り返ると、猫は通りの向こう側へ歩いて行くところだった。

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