猫と死神(分冊版)
三村小稲
第1話
あゆむが自転車に乗っていて車と激突し、頭を強打して入院したのは一学期の期末試験の始まる少し前のことだった。
怪我は右側頭部の強打とこめかみから右頬にかけての大きな擦過傷。打撲と肋骨の骨折などいろいろあり、意識不明は三日間続いた。
信号のない交差点での出会い頭の事故で、あゆむの体は映画のワンシーンのように空中を吹っ飛びアスファルトに叩きつけられたけれど、その瞬間まで意識ははっきりしていた。
スローモーションのように世界がゆっくり回転し、車を運転していた男の人の青ざめた表情も、自分の赤い自転車のホイールがひんまがって転がるのも、たまたま犬を散歩させていた通りすがりのおばさんの悲鳴もすべてが鮮明だった。
あ、死ぬ。あゆむは直感的にそう思った。
それから救急車が来て病院に担ぎ込まれたわけだが、そこから先の記憶はなかった。まさに空白の三日間である。
目が覚めるとベッドに寝ていて腕やら鼻やら色んなところから管が突っ込まれ、身動きはとれず、全身がひどい痛みに晒され、頭の中ではヘビメタが熱演しているようだった。
しかし、それでもあゆむは死ななかったし、数々の検査の結果、頭の中身も「異状なし」ということで二週間後にはもう退院することができた。
そうして肋骨にはサポーター、顔には仰々しいガーゼを貼り付け「奇跡の生還」を果たして帰宅したあゆむに、飼い猫の板橋が言ったのだった。
「なに、その顔」
と。
板橋は東京に就職した姉がその居住区であった板橋区で拾った猫だった。灰色に黒い縞でよく光る丸い目をしていて、鼻先はいつも生意気そうに「ふふん」と笑っているような格好をしていた。
板橋は東京で姉と二年暮らしたが、姉が結婚し夫の転勤についてアメリカへ行ってしまった為、あゆむのうちへやってきたのだった。
当初、板橋は見知らぬ人間と新しい環境に怯えていたのか家族の誰にもなつかず、呼びかけるといつも物影に走って行き一定の距離をとりつつこちらを窺うような、警戒心剥き出しの猫だった。
けれど次第に慣れてくると今度は我がもの顔で家中を闊歩し、勝手に外へ出て行っては町内を歩き回り一丁前に縄張り争いに参戦したりしていた。
生意気そうだと思った顔にはますます拍車がかかって、あゆむは鴨居の上や塀の上からこちらを見下ろしてくる板橋にいつも馬鹿にされているような気にさせられていた。
見た目はかわいい小さな、いたいけない生き物だ。けれどあゆむの前を行き過ぎる時、板橋は必ずと言っていいほどあゆむにちらりと一瞥を加える。物言いたげな顔とはまさに板橋のことを言うのだと、思う。
気がつくとあゆむは板橋と目があうと「なによ。なんか言いたいことでもあるの」と睨みかえす癖がついていた。
あゆむは居間のソファに座っている板橋をまじまじと見つめた。板橋が自分の顔を見て喋った。それも怪訝な顔で。
自分の顔の傷は痕が残るだろうことを、あゆむはすでに知らされていた。
怖くて自分では傷の様子をまともに見ていないのだが、「骨が飛び出そう」なほど深い傷で「皮がずる剥け」になったというから、確かにそれでは痕が残るのは避けられないだろうことは想像できた。
その事実はあゆむの心を顔の傷同様に傷つけた。病院のベッドであゆむはまだたったの一七歳で、特別綺麗でも可愛くもない容貌ではあるけれど飛び抜けたブスでもないと自負する自分の将来を思いやり、密かに泣いた。
それでもあゆむは「顔の傷がなんだというのだ、死ぬよりマシではないか」と思うことで自分を鼓舞しようとしていた。死んだり、頭がおかしくなったりするよりは、いい。顔の傷なんて整形するという手もある。だから気にしないでおこう、と。でも、これでは話しが違う。
あゆむは板橋と対峙する格好で立ち尽くしていた。
「それ、痕が残るって?」
板橋がまた言った。
母親が台所でお茶をいれている。事故の連絡を受けてアメリカの姉も電話をかけてきた。あゆむは今回のことで家族に、恐らく生まれてから最大の「心配」をかけてしまったことや、そして今目の前で猫に話しかけられているということでさらなる心配をかけなければいけないと思うとじわじわと涙が滲んできた。
娘の顔に傷が残るだけでも残酷なことだというのに、頭までおかしくなったとあっては母親はきっと泣くだろう。
好物のエクレアを冷蔵庫から取り出している母親の気遣い。あゆむは唇を噛んだ。
「運が悪かったな。日頃の行いが悪かったんじゃね?」
言われた途端あゆむはいきなりテーブルの上にあったテレビのリモコンを掴み、板橋に向かって力一杯投げつけた。
「日頃の行いって、なによ!」
しかし相手はなんといっても獣である。板橋はあゆむの攻撃を敏捷にかわし、ソファから食器棚の上に一連の動きで飛び上がった。
あゆむは尚も攻撃の手を休めようとせず今度はクッションを掴んだ。
驚いたのは母親で、一人で猫を相手に暴れているあゆむに、
「どうしたの?!」
と、飛んできた。
あゆむは怒りのあまり肩を震わせ、拳を握りしめて部屋の真ん中に仁王立ちになり返事をすることもできずに板橋と睨みあっていた。
その光景は母親からしてみれば単なるヒステリー。ただの動物虐待である。が、板橋がいつもの生意気そうな目を丸く、それはもう丸く大きく見開き、
「……なんで言葉通じてんの」
と呟いた時、あゆむはとうとう堪えていた涙を溢れさせてしまった。
あゆむが投げたリモコンはその怒りの度合いを表すかのように、ばらばらになって部屋の真ん中に転がっていた。
ああ、もう、自分は本当に頭がおかしくなってしまったのだ。それは十七歳のあゆむには死を意味するも同然のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます