第38話  悪の起源

 その頃、ベンとサムは追われていることも知らず、応龍の背で酒盛り。


「あははは、ざまあみやがれって気分だぜ、うまくいったなあ、おい、ベンよ」

「首尾は上々、上出来だ。最高だ。これで褒賞も栄誉も昇進も思うがままだな。サム」


「なあ、ベンよ、俺らもしかしたら騎士になれるのかな」

「おうともよ、これからの立ち振る舞い次第よ、いいか、いかにも萎(しお)らしく『褒美も何もいりません、お役に立てれば、幸せの極みでございます。崇敬し、我が魂のあくがれである聖騎士様、大枢機卿様のお役にたてれば、幸せの極み。お国のためになるのであれば、女一人をさらうくらい、何でもありません、これでかような凡夫も天国に行けますでしょうか』ってな。どうだい、相棒」


「ぎゃははは、ガラじゃねや」

「笑いごとじゃねえ、ここが肝心なんだ。国じゃ、俺らみたいに欲望を剥き出しは蔑まれるんだ。俺の言ったとおりにすりゃなあ、殊勝殊勝と褒められて、ひょっとして上手くいけば、騎士様に昇進も夢じゃねえのさ」


「ほんとうかよ、ほんとうだろうな、へへ、すっかりいい気分だ。酔いも回って来ちまった。

 この女、きれいだなあ、えっへへへっ」

「あゝ、俺もさっきから堪んねえんだ」


 さっきまで驚きと恐怖で言葉も出なかったマリアも眼を丸くし、遂(つい)に必死に叫ぶ。

「あなたたちは何者です。何でこんなことを。わたしをどうするつもりですか」


「まあ、そう叫ぶな、エオレアちゃん、仲良くしようぜ、俺はサムって言うんだぜ」


「あゝ! あなた方の勘違いです。誤解です! わたしはエオレア様ではありません!」


「すっとぼけったってムダだぜ、お嬢ちゃんよ、ああ、ベン、俺あ、堪んなくなってきた!この可愛らしさったらないぜ。ちょっとだけだよ、なあ、ベン、いいだろ? なあ」


「あゝ、そうさな。ここが思案のしどころさ」


「おお! 止めてください、間違いです、あなた方は見当違いをしています! 帰してください、エオレア様のお世話をしなくてはなりません。助けて!」


 だが、そのとき彼女はふと思い至った。

 自分がエオレア様でないことがわかると、今度はエオレア様がさらわれてしまうと。口をつぐむ。


「めんどくせえな、うだうだ言うな。あれ、急におとなしくなっちまったい。どうやらくだらねえ嘘で騙そうなんて諦めて、観念したらしいな。

 ところで、よお、ベンよ、おい、おまえ、いつまでも何考えてやがるんだい」


「いつまでだってさ。何考えてるって、いろいろ考えてんだぜ。物事はな、思いも寄らない事態ってのがいつもあるんだ。どんでん返しだ。まずよく考えなくっちゃなんねえ」


「くそっ、辛気くせえ」


 さて、イラフたちはと言えば、平原の北辺に至る。


 皓々たる月の下、北の山脈の雄大なるシルエットが見え始めていた。ヨウクで越えられるルートを選び、いくらか遠回りをしなければならない。


「応龍はストレートに山を越えただろう。しかしヨウクや龍馬ではそうはいかない」

 レオンは自らに言い聞かせるようにそう独りごちする。そして眉を寄せて悩み、思案する。そんな姿を見て、その夜、イラフはチヒラにぽつりと語った。


「シルヴィエは悪の帝国だと単純に思っていた。

 いや、もちろん、いろんな人がいて、いい人もいることはわかっていた。当たり前過ぎることだけれども、国民や民族が皆同じ人格ということは、絶対にあり得ないこともわかっていた。

 でも、やはり帝国は悪だという感覚はぬぐえなかった。何となくシルヴィエの国民は概ね同じような考え方をしているように感じていた。帝国軍のやることに反対しないのだし、兵士となって一緒に行動しているのだから同じだと、そんなふうに、心のどこかで単純に考えていた。

 まあ、よい方に考えるときであっても、たとえば、庶民は純粋に信仰しているつもりかもしれないけれど、洗脳されて正しい道が見えていなくて実際には彼らのやっていることは純粋な信仰などではなく、悪の道だ、なんてね。

 そんなふうに簡単に考えていた」


「どこの誰もがそんなもんさ。気が附いただけでも幸せだよ。誰もが自己を超越できているというわけではない。

 人は国家や民族に少なからず自己の尊厳を投影している。国家や民族の尊厳や財産に損害が与えられれば、その国や国民を丸ごと憎悪したくなるものさ。

 とは言え、客観的認識のない者は不幸だ。夢の中を勝手に妄想して生きているようなものだ。愚昧の闇に封ぜられているようなものである。何も知らず、空も海も花も知らない。精神の地下牢に繋がれている。ほんとうの感動もない。

 すべて事実(または真実)というものは常に個別的だ。物的にも、時間的にもね。それぞれに、その都度その都度で、まったく事情や内容が異なるのが普通で、決して一様ではない。一様であるはずがない。

 当たり前だ。

物事を国家や民族や宗教単位で悪と見做したり、憎んだりするような、一様なものとして認識することはこの世の大きな悪だ。

そのような妄想によって当事者でもないのに復讐され、殺されたら、やられた方の気持ちはいかようなものであろうか。その遺族の感情は。その恨みの炎たるや、いかほどであろうか。恐らくは天をも焦すであろう。

想像に難くない、彼らも無差別に殺すだろう。恐るべき憎悪と復讐の連鎖が起こる。

だから裁かれる者は当事者のみでなくてはならない。訴え、責める者も当事者か、その正当で直接的で(つまり最少範囲の中から選ばれた)代理人でなければならない。

漠然と同じ宗派だからとか、同じ民族だからではだめだ。復讐の連鎖を生む」


 ユーカレが冷めた口調で言葉をはさんだ。

「当事者という定義が難しいな。

 同じ宗教を信奉して反対しないなら、その精神を共有していると主張する者もいる。同じ国にいて反対しないなら関与していると考える者もいる。

 我々はそれを殺されるほどの関与ではないと考えるが、そう考えない者もいる。同じ考えを強要することはどこまで許されるのだろうか。

 自分や他人の生命や自由な言動や財産などの権利を損なう行為は、制限されて当然とは思うが、実際はケース・バイ・ケースでかなり難しい場合がある」


「そうだね。すべてはケース・バイ・ケースだ。

 だからすべては個別に判断すべきで、一様に、単純に、十把一絡げ的に攻撃すべきではない。客観的な事実に反しているからだ。すべては事実に基づき、科学的であるべきだ。それが真実だし、つまりは正義だ。これは絶対に間違いのない真理だ。

 私利私欲を妄りに貪ることが悪だというが、自己を超越すればそれは滅する。自己超越のために人は真の客観性を体得しなければならない。

 客観性の缺如、これが悪の起源だ」

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