第34話 美しきアクティア
イラフは風が優しくさやかであると感じた。
草は冬も枯れない種類のものらしい。カーペットのように美しく輝き、長さが整っている。彼らは馬や馬車を草でカモフラージュし、平原の中に入り、並足で進んだ。道がないのだ。
平原を二日進むと、唐突に草原の真ん中に農家と水車が見えてきた。煙突のある母屋も納屋も水車小屋も質素な藁葺き屋根だ。
「いったい、人が住んでいるのだろうか。
あれでは、これからの季節、寒くて住めないのではないか」
近附くと、母屋は煉瓦造りであることがわかる。よく見れば屋根は下地に板葺をしていた。
「誰が住んでいるんですか」
チヒラがレオンに訊いた。
「実は私も初めて来るのだ。いや、シルヴィエの人間であっても、ここまで来たことのある人間は極めて少ない」
「なぜ? どういうことなんだ」
イラフの問いに、レオンは厳かに、
「ここは聖域なのだ。不可侵の土地だ」
「え! では」
イラフが声を上げ、ユーカレも、
「じぶんらは入ってもよかったのか」
レオンは遥かなまなざしで、さらに厳かに、こう言った。
「ここに住むのはエオレア。神と人との間に生まれた娘だ。イヰリヤの魂の娘だ」
チヒラが思わず驚きの声を上げ、
「イヰリヤだって!」
「イヰリヤって、いったい、誰? 人なのか? どういう人なのか」
イラフがユーカレとハラヒにそのように問う。チヒラは驚嘆に魂を捉われていて話しかけられないから。
しかしユーカレが首を横に振る。ハラヒも。
「残念ながら、じぶんもまったく知らない」
「わたくしも、わかりません」
レオンが馬車を降りた。
「さあ、本来、この平原は禁足地だ。入ってはいけない場所だ。既に足を踏み入れて数日経ってはいるが、せめて家に近附く今このときぐらいは馬や乗物から降りて崇敬の念を表わそう」
「しかし、ここに住む人はどうやって生活しているんですか。水はあるようですが、食べ物は? 畑もないし、誰とも交流できなくては物にも不自由するのでは」
イラフの問いにレオンが、
「彼女は神の子だ。不死で、食べものも飲み物もいらない」
「不死!」
「そして世界究竟の真理でもある」
「究竟の真理?」
「究竟の真理だって?」
「真理というものは、物的存在ではなく、理念や精神や知性だと思っていた。あるいは神のような霊的な、光のような、超越的なものだと」
イラフがいぶかしげな面持ちでそう言うと、レオンは速やかに反論した。
「それは先入観だ。平凡な物質が宇宙一切の原理をなす真奥義であっても何らおかしくはない。
彼女は生きている真理なのだ。実存する真理、実在する真理であり、世界の本質の精髄であり、世界の存在を支える原理なのだ」
「そんなことって・・・・」
イラフには理解不能であった。
チヒラがうつむいて語る、
「そういう話を聞いたことがある。
確か、ぼくがかつて聞いた話では、
『パスタリャ家の支配する海鳥島(エル・パッハロ・デル・マル)にイヰリヤ(彝巸璃亞)という少女がいた。
人間を超越した、そのあまりの美しさは、神の真理そのものが顕現したと人々が信じたほどだった。〈太陽の薔薇の紋章〉という詩にも歌われている。
彼女はイタルという少年と親しい仲であったが、それを横恋慕した聖職者ラヴィドゥが無実の罪でイヰリヤを火炙りの刑で処刑した』と。
齊暦9067年のことだ」
「何という酷い」
「恐ろしいことを」
「火炙りというのがどれほど残酷な処刑かわかっていたのだろうか、それを無実の少女にするとは」
ユーカレもうめいた。イラフは憤怒し、
「生きていれば、ラヴィドゥをなぶり殺しにしたい」
「今では所在不明で、生きているか、死んでいるかもわからない。ヴァルゴ教の聖職者らしい」
「それで」
イラフの問いには、レオンがこう応えた。
「それからが奇跡の始まりだった。
大宇宙の中枢である神の真理を生まれながら備えたイヰリヤの非業の死を憐れんだ神が彼女を愛し、愛によってこどもが生まれたのだ。娘だった。
それがエオレアだ」
「凄い話だが、聞いたこともなかった」
「実はほとんど知られていない」
チヒラがそう言うと、レオンもうなずきながら、
「そのとおりだ。シルヴィエ人でも知らない者の方が圧倒的に多い」
「しかし、レオン殿、このことが我々の旅とどういう関係があるのですか」
「まずはエオレアに逢おう。すべてはそれからだ」
誰もが馬を引いて歩いた。パウルは馬車を牽く馬を引いた。
小川が流れていた。川は環を作って敷地を囲んでいる。円環で永劫に水は廻り続けていた。水車は永劫に廻り続けている。
苔の生えた、手すりのない小さな木の橋があった。
「我々はここで待ちます」
二人の少尉と、傭兵隊長と、ガリア・コマータ隊長のストランドは言った。
「わかった」
チヒラが応える。
レオンを先頭に四人の戦士は橋を渡った。素地のまゝの明るい胡桃材(ウォールナット)の扉は開いている。
レオンが入った。四人は続く。
室内は質素だった。床には藁が敷いてあり、暖炉に赤かと炎が燃えている。小さな食事用の木のテーブルと、羊の毛を詰めた袋に布を敷いただけのソファがあった。暖かい。清々しい気が満ちている。
「ようこそいらっしゃいました」
エオレアはいた。陶酔感を覚えさせる清らかな声であった。その顔も胸も四肢も光り輝くようで、それを見る者は魂が洗われ、新しく瑞々しい力が、すうっと、自然に静かに、体に、魂に染み入っていくのを感じる。イラフはここに来るまで思い詰めていた心の呪縛が解かれたかのような気がした。改めてエオレアを見る。
イラフは驚いた。ミラレセ大聖堂で見たあの女性と同じだったからだ。レオンがなぜ記憶にとどめろと言ったのかがわかった。恐らくはレオンも会ったことがないから事前に確認しておきたかったに相違ない。しかしこの環境で人違いもないのでは、とイラフは思うのであった。他人の身体生命を脅かすほどの意味があったのかどうか・・・・・・
エオレアを改めて観察する。イヰリヤの死から14年しか経っていない。エオレアは普通なら十三歳、神の子ゆえに胎内にいた期間がなかったとしても、十四歳のはずだ。未だ青い林檎のような少女であるはずだが、いや、確かにそのような、危うい、瑞々しい、不安定で、どこか病的でさえある繊細さ、儚さ、痩せた未熟な硬さ、萌え始めの初芽のような初々しさがあるものの、圧倒的な、神々しい美が厳然として強く燦めいている。その輝くような美しさは神に由来するものだった。何よりもその燦めく双眸だ。
それは詩に歌われたイヰリヤの眸(ひとみ)にそっくりであった。
『瞳孔の開きを調整する筋肉の一種である虹彩が放射状の縞目の文様を做すが、Brilliantにカットされたダイヤモンドのように美しい。
彼女の虹彩は青蒼碧藍紺紫サファイア群青コバルトブルー土耳古石ラピス・ラズリが鏤められて爛々と燦抜するモザイクであった。その一つ一つがコロナの炎を随えて瞭かに熾り燿く。
煥(ひか)り為す青碧。蒼燐が紺碧に燦々と烱(きら)めく。碧蒼なる燠火の如く炮烙し、奥になるにつれ炳焉(あきら)かとなるその奥に、燠(おき)せる青蒼を赫奕と太陽のごとき燎(あき)らかさで爍(きらめ)かせる。
虹彩の亂反射の捉えられぬまばゆさの原因は虹彩を蔽う角膜と、角膜と虹彩との間の前眼房を満たす眼房水とが、尋常ならざる晰らかさで、クリスタル・グラスのよう透けているからである。
その透明度は湖面から水深100mの底にある砂粒の表面の凹凸の一々をも精緻な解析度で明晰にし、めまいを起こさせるほど瞭かにして睿らかに晰らかなるきよらな水をも遙かに彼方無限の果てまでも超える。
大聖堂の光燦たる薔薇窓だ。
聖なる天上のステンドグラスを嵌めて無際限なる光焔輪の紋を耀かす。言葉にならぬ永劫の真実。人間が一秒たりとても呼吸することのできない、高純度の鮮烈な空気。人は虹彩の尖熾に射抜かれる』
イラフは激しい感情に魂を奪われた。これが神の力だ。これが神なのだ。到底、人間には及ぶべくもない。
崇高で神聖で荘厳で、きよらかな、言いようのない凄まじいまでのまぶしき光輝、燦めくまばゆい熱のない炎、太陽よりも遙かに遙かに強烈だ。宇宙開闢の炎をも超える。
1兆光年も遙かの彼方も超え、一切の平行宇宙をも充たして凌駕し、十一次元の時空を遙かに突き破っている。真理そのもの、善のイデアそれ自体だ。
イラフは全身に光の潮のようなものが漲るのを感じた。
「凄い」
彼女が世界の精髄にして宇宙の中枢なる原理、究竟の真理であるという言葉が初めて理解できた。体で強制的に理解された。
レオンが深々とお辞儀してから片膝を突いてひざまずく。神聖帝国で最も高貴な家柄の者すらもひざまずかねばならないのだ。
「まずはお詫び申し上げます。禁足地に入ったことをお赦しください」
「構いません。自然なことです。歴史的な運命の上にあります」
「聖の聖なるエオレア様のつつがなきことをお伺いさせてください」
「ええ。まったくの安泰、平穏無事です。何事もありません。すべてはとても健やかです。静かです。
マリア、客人にお茶をお出ししてください」
イラフがそれを制し、
「あ、いえ、お構いなく」
「そうです。我らは禁を犯した者」
チヒラが儀礼的に首を垂れる。
ハラヒも、
「客として扱っていただくことなどできません」
「気になさらないように。私はあなた方が来ることを知っていました。ハーブ茶も昨日のうちから葉を択んで用意していたのです」
「しかし」
「マリア、こちらへ持って来て。さあ、皆さん、お茶をどうぞ」
素朴な素焼きの陶器に爽やかな香りの茶が淹れられ、運ばれた。
一つ一つ形が微妙に異なる碗は何の変哲もないのに、なぜかそれゆえに味わい深く、優しくて繊細微妙なる素焼きの土色をしている。
マリアはエオレアにとてもよく似た美しい少女だった。優しさと親切と暖かみが柔らかな円のよう、ほんのりしたオーラで体現されている。誰もが親しみを持たずにいられない、愛らしい少女であった。
輝くばかりに健やかなのに、繊細で、可憐で、儚い美しさ。人間であろうか、神の眷属であろうか、イラフはじっと見て考えた。
「彼女はエルフです。私の生活を助けてくれています」
マリアはお辞儀した。
茶を含む。きよらさやかな味がした。精神が清められるようであった。
「エオレア様、またハーブを採りに行ってもよろしいでしょうか」
「ええ。あなたはほんとうにハーブを摘むのが大好きですね。いいですよ。お願いします。いってらっしゃい」
マリアはうれしそうに微笑み軽やかに舞うように草原へ出て行った。
レオンが尋ねる。
「ここ数年で外部の者が何者かここを訪れませんでしたか」
「ええ、来ました」
「何者でしょうか」
「神聖皇帝ジニイ・ムイ」
激しい衝撃が脳髄に走った。戦慄を覚える。
「絶対神聖皇帝がここを訪れたのですか、彼自身が!」
イラフが驚愕の声を上げる。
「そうです」
「驚いた」
「信じられない」
「いや、あり得ない」
「彼は一人でしたか」
そう問うレオンだけが冷静であった。
「ここに入ったときは一人でした」
「いつでしょうか」
「5年前です」
「彼は。
彼は何をしに来たのでしょうか」
「求愛です」
「求愛!」
ハラヒが珍しく声を上げる。
「これは驚いた」
イラフも瞠目した。
「何ということだ。イラフよ、ぼくはもう死にそうだ」
「それで、断ったのですか」
レオンは動ずることなく、重ねて尋ねる。
「むろんです。永遠の命がある者が死すべき人間と結ばれることはありません。世界の秩序が崩れるでしょう。すべてが狂うでしょう」
「そのとき、彼は何か言いましたか」
「ケーレKehreを起こす。そう言っていました」
「ケーレ!」
チヒラが驚きの声を上げた。
「いったい、どうやって?」
レオンも今度は表情を変えて尋ねる。
「それについては何も言いませんでした」
「そうですか。わかりました」
残念そうにそう言ってから、しばらく考え込んでいたが、レオンは再び次のようにエオレアに問うた。
「彼の随行者に大枢機卿イヴィルはいましたか」
「いいえ。彼はいませんでした」
「誰がいましたか」
「聖教の巫女リリア、カッサドール・デ・ドラゴーネスの聖殉教騎士アヴアロキとその従者アムト、セトン、ミハル、『屍の軍団』のロキ少佐、ザンキ中尉、グロヴィス少尉、ヨギ少尉です」
「なるほど。狂信的な心酔者のみを連れてきたというわけですね。侍従長ですら信頼されていないのだ、皇帝は」
そのとき、エオレアは突如、双眸を燦めかせ、こう言った。
「レオン・フランシスコ・デ・シルヴィエよ、汝に永遠なる栄光のあらんことを。私はあなたを祝福します」
あまりに唐突だったので、驚いた顔のレオンはすぐに気を取り戻して胸に手を当て深い辞儀をし、再びひざまずく。
「有り難き幸せの極みです。
生きて再び光輝あるシルヴィエ家の座に帰ることがあれば、神聖のうちにも最も聖なる祝祭を挙げることをお誓い申し上げます」
「すべては最高神カム・イアレズヲの意のまゝに」
「エオレアが祝福した」
チヒラが眼を丸くする。
「どういうこと」
イラフが問うた。
「王権が承認されたんだ。神の祝福だ。彼は皇帝にならなければならない。ぼくらは今、未来の皇帝を眼の前にしているんだ」
「でも互選によって指名されるのでは」
白き双眸の眼を瞠(みひら)いてハラヒもそのように問う。
「神の決定に逆らう互選など行われるはずがない」
チヒラはミュールをかつんと鳴らし、そんなこともわからないのかという顔で言い放つ。
イラフは困った顔をし、
「わからないことだらけだ。後で教えてくれよ」
「ではエオレア様、これにて失礼いたします」
興奮した面持ちでレオンはそう言い、一同に眼差しで退室の合図を送る。
「幸いあれ。
戦士たちに最高の祝福を与えます。神の息吹とともにあらんことを」
エオレアは言祝いだ。イラフたちは全身に激しい生命を感じた。心気が充溢する。
こうして会見は終わった。馬車に戻ってから皆それぞれに坐る。チヒラはイラフに話した。
「エル・パッハロ・デル・マルは世界の臍(へそ)と言われ、世界の中心地にある。神秘学的にも神学的にも呪術的にも大いに意味のある場所なんだ。
そこでは時々、世界の根幹に関わるようなことが起こる。世界現象解釈学的に言えば、イヰリヤの悲劇もその一つなんだ」
「凄い話だ」
イラフは感嘆した。
「エオレアもそこで生まれた」
チヒラがそう附け加えると、ハラヒは怪訝な顔をし、
「では、なぜ今はシルヴィエに」
「はっきりはわからない。神慮は計り難いのさ。
ただ、特別な場所ではなく、最も平凡な場所に、平凡に暮らすというコンセプトらしいとは聞いたことがある」
「どういう意味があるんだ」
イラフが問うも、チヒラは肩をすくめ、
「つまり意味なんかない、っていうことさ。当たり前で、ありふれたものこそが世界の奥義なのさ。
ちなみに、皇帝ジニイ・ムイのムイ(無為)はそのことを意味しているということらしい」
「ありふれた場所なら、シルヴィエ以外にもありそうだが」
ユーカレも問うた。
「どこにでもあるさ。だから、どこにもないのだ」
「何だ、それ」
イラフが憤慨する。
「つまりシルヴィエでいいってことさ」
「禅問答だな。ちんぷんかんぷんだ」
「そういうことなのさ」
そう言ってチヒラは笑った。唇を舐めて、たくらみで満たし光らせて。
はっとした。その言葉によって心機の何かが啓く。
イラフは自分の中に何だかのことが熾ったと微かに感じた。それはスイッチのようでもあり、何かの紐を解いて放つような感じだ。
静かに体内に広がって消えた。
消えると同時に体と外の区分が曖昧になり、入り交るような、入我我入の境地のごとき円寂を迎え、生命は金剛(ダイヤモンド)のように輝き、充たされ、満足し、生に納得する。
必然的に死への畏れが消え、生を納得したので死を受け入れる気持ちが生じ、生命を終りのある美しい塊と観ずる。
ダイヤモンドのような耀き。
エオレアの双眸の燦めきのようでもあった。
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