第29話  ハラヒ(爬蠡非)

 薄い金色の髪を腰まで垂らし、氷柱のように冷厳なる容貌の大枢機卿イヴィルは大雪原を蹴散らして奔る特別列車の豪華な特別室でソファに坐している。


 まるで書斎のような部屋だ。贅を凝らしたクラシカルな広い部屋は帝国そのものである。モチーフはフランス第二帝政様式だった。車輛一つを使ったその部屋の№は至高を意味する999である。


「猊下におかれましては、さぞかしご落胆のことと思っておりましたが」

 彼の補佐官であるヴィザールは黒髪の玲瓏な若者だ。意外であったという表情でそう言った。無理もない。

 大華厳龍國との電撃的な和睦を結んだのはイヴィルの功績であった。しかし彼は帰

国の途上で、龍國が裏切って進撃して来たことを知ったのである。


 落胆し、憤るのが当然だ。


 ところがせせら笑ってさえいる。

「ふふふ。何を驚いている」

「しかし猊下」

「私は、むしろ、皇帝陛下のお褒めに与かれるであろう。皇帝の真意を見抜き、それを的確に実現したのだから。 

 だが」


「だが?」


「いや。おまえにさえもそれだけは言えない。ふふふ。それよりも指示したことはどうした」


「古文書の写しは見つけました」

「最近の閲覧履歴は」

「実は」

「ふふふ。どうした、さあ、言ってみよ」


「すべて削除されておりまして」

「思ったとおりだ。もうよい。

 見せてもらおうか。内容は既にわかっているが」


 イヴィルは『聖ルシアの録』という巻物を受け取ると、ヴィザールに背を向けた。

巻物を広げて眺める。

「ふむ」


 その文書は神聖シルヴィエ帝国がスールの古王国コプトエジャにある原本を書き写して、帝国の古文書館で保存し、特別非公開文書として取り扱っていたものであった。その部屋は地下にあり、一個の鉄鋼の方形を刳り抜いて造った部屋で、分厚い鉄の壁に囲まれ、周囲をさらにオリハルコンで覆われていた。


 金庫のようなその部屋の前には常に機甲の戦士が護り、毎日一回の確認が為されている。これほどまでに守護された文書に記されたものとは、世界の奥に秘められた奥義であり、聖にして真奥な真理であった。


 その文書には、齊歴99年にコプトエジャの預言者ルシアが岩山の洞窟に籠もって修行中、声に呼ばれて山上に登って神に遭い、神言を預かったという伝説が錄されている。


 ちなみに齊歴とは世界最古の王国であるコプトエジャを基準にして作られた世界共通暦で、0年は古王国コプトエジャの最初の王朝が始まった年である。世界最初の国はスール(南大陸)の西北岸部に興ったのだ。


 従がって、歴史の始まりは今から9081年前となる。有史以来続くイクノヴィン王の系譜が今も続いている万世一系のコプトエジャ、人々はその永遠不変を崇敬して古王国コプトエジャと呼ぶ。


 強い日射し、緩やかに水嵩の増す長期の洪水によって上流より滋味に富んだ土砂が運ばれ、土地は常に肥沃で農業に適し、またその土地は平らかで広大で、爆発的な人口の増加が起こり、他を圧して最初の王国となった。


 王は智慧の長であり、哲学の長であり、卜筮の長であり、天文学の長であり、祭祀の長であり、神が地上に天降りたもうたときの仮象でもあった。


 暦を定め、官を用いて法による中央集権制度を布いた。山脈のように巨大なジグラッドを造り、その頂に永遠の真理の象徴を置いて宇宙世界を照射し、大地を安寧し、天空を荘厳し、神の眼を癒し、慰めた。


 王都にして神都なるイ・クノは学問と道徳を以て長い間、世界の頂点であった。

 その王都を離れ、ルシアは海を前に聳え、樹木のない厳つい山の洞窟に入った。

「ほんとうの現実をつかみたい」

 そう言って僧院を旅立ったのだ。


 眼の前に広がる碧き海はマル・メディテラーノである。彼は自らの思想のたどった道程を振り返り、感慨深げに言う、


「すべての理は懐疑され、思考はその精緻の極みを超え、論は極限まで解析され尽くされた」


 これが今から9000年近くも昔の人間が発した言葉であった。髪も鬚も白く、海風に吹かれるままに乱れて伸び尽くし、わずかに海藻を食べて命を繋ぐ身は痩せ細り皺だらけに干乾び、生きているのかどうかさえ定かではない。


『聖ルシアの録』には左のごとく記される。


               *

「あゝ、肉体は悲しい。神よ、私はかつて求めた。そうです。若き頃は、世界の原理を、現実の実体を、真実を、究極の奥義を、神の真理を解き明かしたいと希っておりました。

 しかしもはやさような言辞に疲れ、さようなものはかたちに過ぎぬと明らめ、かたちあるものはカタチにしかざるという理をわきまえています。

とは言え、神よ、さような悟りもまた、一つのかたちを持ち、それゆえカタチにしかざるを知っているのです。そしてさような明察もまた。無際限なるループのごとき遁走曲」


 ルシアは日々呻吟し、祈り、瞑想に耽った。

「概念による思考はいずこへも着かず。カタチを超えて、生成の世界へ、我が魂魄の奥底より求めるものを我は求めん。

 現実が求むべき真理なり」


 ルシアは心を無にした。


 彼は現実そのものになった。


 心機(こころのはたらき)によって覚醒する。

「諸悪莫作(あらゆるあくをなすなかれ)。

衆善奉行(こころをこめてもろもろのよきことをせよ)。

自浄其意(みずからのこころをきよめよ)。

世界は戦いと邪悪に満ち、民と民とが民族を異にして憎しみ合い、諍い、宗教を異にして争い、互いに無辜の者を殺し合い、権力を簒奪し、利益利権を奪い合っている。この飢えた狼のごとき修羅の世界を是正することこそが真の魂魄の欣求する理である」

 聖者はかく考える。


 苦行者の前に神は竟に降臨し、こう述べた。

「ルシアよ、汝は意識の新たな地平に到達し、天啓を授かるべき者となった。

 よって余は汝に言葉を預ける。神の言葉を預かるがよい。

 世界には精髄とも言うべき原理(アルケーαρχη)がある。その一つのものにすべての本質が収斂し、極まる。それが究竟である。世界の心臓とも言うべきもの、聖典の内の最も深いところに秘められた尊い真言(陀羅尼)のように。

 大いなる宇宙曼荼羅の円の御(み)中(なか)なす神髄とも言うべき究竟の本質なり。これによって円環は回転を為し得る。これによりて世界は活命す。歴史は流れ、世界は生成なり。

 それはありふれた場所にある。求める者に理は理自らに於いて理を晰らめる」 


「しかしありふれた場所とはどこでしょうか」

 ルシアは問うた。


 神はこう言った。

「海を渡り、北の緑の草靡(なび)く豊かなる平原。アクアティアἈκυατίαにある」


「世を革めるにはいかにすべきでしょうか」

 ルシアはさらに問う。


 神は応えた。

「円環は日時計(ダイヤル)のごとし。世を革めんと為す者は、正逆の交互を以てその代象を為せ」

               *


 文書はそこで終わる。


 巻物を再び丸めると、イヴィルはヴィザールを振り返った。

「思ったとおりだった。

 もういい。どこかに仕舞っておけ」


 そして深々と坐り、まぶたを閉じて両手を組み、瞑想に入る。しばし後に再び口を開き、次のように言った。

「皇帝の動きを知りたい。これからの予定を」


「本日から四週間、瞑想に入るため、聖大聖殿中央祭壇の真奥部屋の真奥にある真奥義室に籠られるとのことです」


「ふふ。以前からそのようなスケジュールであったか」


「お待ちください、私の記憶にはありません。そうです、記憶に間違いありませんでした。以前のものには記載がありません。最近、急に決まったようです」


「ふふふ。大いに結構。最近どこかへ使者を出したということはないか」


「勅使は」

「勅使に限らずともよい」


「とすれば、どこまでを範囲とするかで膨大な数になりますが」

「それは知っている。たとえば我が国の公務に関係なさそうな場所への使者だ。外国も含む。いや、特に外国だ」


「調べます。お時間をください」

「わかった。しかし急ぐのだぞ、ヴィザール。ふふ。下がってよろしい」


 補佐官が部屋を出た後、イヴィルは再び独り瞑想に耽る。

「私が解らないのは、ジニイ・ムイがいかにしてこれに気が附いたかだ。どうやってこれを発見したのか。

 ふふん。それこそ彼がよく言うように、人知考概を超越した解脱者の智慧なのか」


 その頃、ジニイ・ムイは巨大神聖都市の中枢なる神殿の中央なる聖の聖なる中枢で甚深なる三昧に入っていた。坐して瞑目し、微動すらしない。呼吸は静かで息をしていないかのように見える。


 彼は真奥義室に入る前に既に命じていた。


 その命令により、屈強なる戦士ダドン、ムーガル、ジョン・ドンの三人とその配下が非公式に皇帝専用機に搭乗して南へ向かっていた。空港のある都市に着くと、その後は特別専用列車を使い、鉄道のない場所は装甲車で進んだ。


 その頃、イラフたちは険しい山脈に差しかかっていた。途方もない巨人が造った壁のような銀嶺が聳えてこちらを見下ろし、それがどこまでも遥かに続いている。蒼穹にまばゆく、頂上にある雪の舞うのが微かに確認できた。ハラヒは『きよかみ』の刃を点検している。


 ストランドが報告に来た。

「斥候隊からです。上の方はかなり激しい吹雪になりそうとのことです。偵察隊は周囲に危険がないか確認しています。調査隊は野営できそうな場所を確認しています。今晩は山頂近くで夜を明かすことになるからです。先遣隊は野営地の候補となる場所の警護をする場所を探しています」


 ペパーミント・グリーンの眼をパチクリさせてイラフが感心し、

「へー、そんなことをしていたんだ。未だに彼らの役割の違いがよくわからない。

じゃ、後衛隊は?」


「調達隊が貯めた食糧や薪を持って、いざというときに、すぐに補給活動に入ることができるように用意しています。

 援護隊は通常業務で、後ろから突かれるのを防ぎますが、事後検査隊はまだこれから終結する大華厳龍國の陸・海軍の特殊部隊を案内誘導しています。セフイの数は既に百を超えました。

 しんがり隊も追参加者の道案内を兼ねています」


「あまり散らずにまとまろう」

 チヒラがそう言った。ユーカレも賛同し、

「吹雪のような激烈な環境はアグールのような悪魔の女にとっては、むしろ、好機だ。必ず来る。それにあれを聴け」


 もの凄い遠吠えが轟いた。


 ストランドの表情が引きつる。

「あれは、いったい」 


「ワーグだ。しかも群れている」

 ノーズティカをピクリともさせず、ユーカレは静かにそう言った。ワーグとは大型で獰猛な狼で、言語を解する。


「だが近くはない。反響が遠い」

 碧き眉を顰めつつもイラフがなるべく楽観的になろうとそう言ったが、チヒラは藤色のまつ毛を翳して桃色の双眸を曇らせ、

「だがそれにしても時間の問題だ。急いで隊を収斂せよ」


 そのように実行される。


 後から参加して来た者たちの中に、ハラヒ(爬蠡非(はらひ):「祓ひ」の意)という者がいた。海軍の特殊部隊の超精鋭部隊に属する。しかしその肩書から推定される強剛冷徹なイメージとはまったく異なり、緑の髪に白い双眸で、どこか儚い、薄い感じの無表情な少女であった。彼女は『きよかみ』という片刃の刀を使う。


 変わった経歴の持ち主で、純然たる龍梁劉禅=大華厳龍國の龍民族ながら、一族は祖父の代にノルテに渡って放浪し、中央南部西側のヴォゼヘルゴ(クラウドの隣国に当たる)に定住した。


 ヴォゼヘルゴは民族や宗教が複雑で、おもな民族だけでも(人口の多い順に)ヴォル人、ゼェリ人、ロゴ人、レオン人、ドラゴ人、アッシーラ人、セリヴィド人などが住み、宗教は(同じく信徒の多い順に)ヴァルゴ教、ジゼルス教、ゾドア教、シルヴィエ聖教などがあった。少数ではあったが、オエステの民族や宗教もある。 


 それゆえにハラヒの一族も住み着いたわけだが、民族間宗教間の抗争が絶えず、すべての民族・宗教を満足させることは不可能であった。民族や宗教、国家の蓑をかぶって人は自己の承認を廻る争いをしているに過ぎないのである。


 当時、強硬な一民族優先主義が急浮上したのはそういう経緯である。


 それを体現したのは、当時の大統領、デヴォキサ・シロワテル・ボダシェヴィであった。


 彼はその思想を強弁し、V(ヴ)A(ァ)V(ヴ)(ヴォル人正統ヴァルゴ教徒党)に入党してからわずか1年での党首となり、さらにその2年後の大統領選挙で圧勝して最高権力の座に就く。


 ボダシェヴィ自身が多数派のヴォル人で、かつヴァルゴ教正統派原理主義者であったため、ヴォル人ヴァルゴ教徒を優遇して他を排斥する政策を次々と強行した。


 土地を奪われた人々は、ボダシェヴィを恨み、抗議運動を起こしましたが、大統領は激しくこれを罵り、武力で鎮圧し、死者は30万人を超えるも、ボダシェヴィはヴォル人以外の民族の主張を受け容れず、言論や活動の自由を制限する。学問や芸術のすべてについても同様であった。


 抵抗運動は地下に潜伏し、他国と通じて武装する。


 以来ヴォゼヘルゴではテロが頻発(ひんぱつ)し、ついに虐殺と報復の連鎖から武力闘争が勃発、内戦が起こり、戦火と政府の拷問と大虐殺とを逃れるため、ヴォル人以外の人々は難民となって、近隣諸国にあふれるようになる。


 ハラヒの一族はセリヴィド人の多い、シュッドレヒト(北大陸最大ともいわれる塩湖があることで有名)に住んだが、そこは徹底的な弾圧に遭い、数十万の人々が祖国を離れ、難民となった。


 そしてあの史上悪名高いハン・グアリス平原の大虐殺が起こるのである。風を避けるものとてない寒冷の平原で食糧も防寒具もない着の身着のままの難民二十万人が風雨に晒されていた悲惨な場所に軍隊がやって来て全員が、女こどもも容赦なく、虐殺されたのである。


 当時八歳のハラヒはその中にいて、軍の中に密かに混ざって内乱を煽動していたシルヴィエ帝国軍人に連れ去られ、神聖シルヴィエ帝国で過酷な訓練を受けさせられ、超特殊部隊『屍(しかばね)の軍団』に入った。


 大華厳龍國の『非』に相当する部隊で、聖教のために命を捧げ、生きながら死人となり、死をも恐れぬ非情の軍団である。


 彼女は虐殺のショックによって記憶を喪っていたが、頬に刺青された一族の紋と同じ刀を古武具屋で偶然見かけ、それを買い求め、記憶を取り戻した。それこそが武人であった祖父、イシュレイ(異咒令)の剣『きよかみ』だったのである。


 ハラヒは脱奔してオエステに渡った。父祖の道に還ったのである。


「わたくしが皆様のお力になれることを願っております」

 そう言って丁寧にお辞儀する。


 イラフは肩に手を置いて言う、

「君は自分自身を弱く見せようとしているが、ただ者ではない。相当な達人と見た。しかし、わたしが言うのもおかしいが、まだ幼く見える。歳はいくつなんだ」


「十三です」

「やはり年下か」 


 数時間進むと森林限界が近附き、樹木は低く、まばらになってきた。雲に覆われると空気に氷が混ざり、榛松が凍る。やがて猛烈な吹雪となった。烈しい風と氷礫のような雪が機関銃のように間隙なく彼女らを襲った。パウルは歯を食いしばって手綱をにぎる。


 寒さが厳しくなってくることが予想されたので、防寒のために、幌の上に(あらかじめ積んであった)帆船用の帆をかぶせて、二重にしていた。


 さらに出入口の扉となっている幕は四重にしている。だが四枚の幕をめくって、外を見ようとしたユーカレはすぐに閉じた。

「ぅぷっ、ふわっ。凄い雪だ。息もできない」


「隊は集まったか」

 幕をゆっくりと少しだけめくってチヒラがストランドに訊く。


「はい。もはや人目を気にする必要もないので、周囲に百五十近い混合軍を呼び寄せています。※混合軍・・・ガリア・コマータと大華厳龍國陸・海軍の混合軍。

追って参加する兵もまだ来る予定なので、我がガリア・コマータの事後調査隊三名及びしんがり隊二名は後方に点在したままですが」


 イラフも首を出した。身を斬る風が頬を刺す。雪が口の中に入る。


 風雪に耐え、騎乗する兵の姿が薄っすらと見えた。どことなく幻想的だ。風景は白く塗りつぶされて、ほとんど確認できない。


 再びユーカレも顔を出して訊いた。ノーズティカが風に引っ張られて鼻が痛いようだ。

「具体的にどのくらいだ」


「ガリア・コマータは変わらず五十四名、ただし、申し上げたとおり事後調査隊としんがり隊の計五名は案内のため、この近くにはいません。

 陸軍特殊部隊は四十名、海軍特殊部隊も四十名、外国傭兵部隊二十名です」


 そのときである。

 

 角笛が聴こえた。烈しい風をも劈(つんざ)くような太くて乾いた音だ。


「あれは」

 イラフが眉をひそめた。ストランドの喉が動く。

「我が隊ではありません」


 皆剣を抜く。


 イラフは外に出た。誰もが停止している。水色の髪が激しく風にはためく。


 100mほど先に、人のようなシルエットが見える気がした。しかし100m先が見えるはずがない。見えているというよりは、吹雪の白い壁を貫いて、人型のオーラがシルエットを誇示しているのであった。


 明らかに独りの人物を画いている。兜からはみ出た黄金の髪のなびくさままでもわかる。2mを超える身の丈。


 後から出てきたユーカレがうなった。

「ジン・メタルハート・・・」

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