第28話  絶対神聖皇帝の哲学

 聖大神殿は皇帝の城でもあり、聖イヰ教の聖地大本山である。高さ4㎞の尖塔の最上階に皇帝は坐し、世界を睥睨していた。


 塔の下には百万人を収容できる壮麗な大広間があり、絶対皇帝はそこで謁見をするが、それ以外はほとんど塔の上にいる。


 遥か遠い蒼穹を眺め、背の高い痩身に10mのマントを引き、沈鬱な容貌に長鬚を蓄え、銀色の巻き毛のかつらをかぶった絶対神聖皇帝ジニイ・ムイ(自爾彝無爲)は侍従長にして名誉大司教なるセバトトメス(釵鳩留栖)にこう言った。なお、名誉大司教とは司教区を持たない名誉上の大司教で、シルヴィエ帝国独特の制度である。


「朕はまさに世界を真義に於いて貫徹し、世界を真実へと還さんと企てる。大いなる曼荼羅、神聖革命、絶対真理の完成だ。神より授かった天与の才を持つ朕にしかできぬ。

 理論や思料を超越し、言葉では説明できない、実存する永劫の真理よ。それは行為に於いてしか現象しない。朕は歴代教祖の考え抜いた真理をさらに考えに考え、修練し、実践し、旅し、研鑽した。

 朕は大いなる解脱に到達した。言説不能な真理に到達した。今まさにこれを世に現前させんとするのだ。現実してこそ真理なりと朕は惟う。

見ておるがよい、朕の偉業は歴史の波瀾のまにまに揉まれ呑まれ翻弄されて消えてしまう人の営みの中で、ひときわ強く美しく永久に光り輝くであろう。熾えるように。

この功徳ゆえに神聖帝国は永劫の栄光を誇らかに謳歌するのだ」


「偉大なるかな、陛下の御業(みわざ)」


「我が世の革命など言う者は永遠に滅びよ」


「昨今また性懲りもなく人民解放軍が動き始めましたな」


「笑止千万。我が第二神聖革命を超える革命はない。この大転回を超えるものは」


「真理に栄光あれ」


「ところで大枢機卿イヴィルだが」

「は」

「よく働いておるようだな」


「はい。皇帝陛下の御意のままに大枢機卿猊下はその天賦の才能を存分に発揮しておられます」

「あやつはまだ若い。・・・・次期皇帝の座を望んでおろうな」

「恐らくは」


「しかし、あやつは真理の側にいるとは言い難い。朕同様に伝統を引き継ぎ、実践主義ではあるが、天地と時代を超越して道を選ぶ皇帝の器ではない」

「御意。他の大枢機卿もよくご存じであられましょう」


 皇帝は五人の大枢機卿の互選によって決定するのだ。大枢機卿たちが認めなければ絶対神聖皇帝にはなれない。


「ところで戦線のことだが」

「はは。我が軍に永遠の勝利あらんことを」


「オエステ(東大陸)状勢だ。大華厳龍國の龍皇帝は五千隻の軍艦で海を渡っている。汝も承知のとおりだ。よいか、すべてを上陸させよ」


「陛下、何と仰せられる。迎撃しないのですか。敵は和平の約定を反故にし、停戦の協定を破ったのですぞ」


「ふはは。おまえもさような小人のセリフを言うか。捨て置けい、世俗の価値は」


「しかし多くの将兵は命懸けで戦っております」


「正義と真理のために死すことは無為ではない」


「しかし」


「いや。無為こそが義しい。さあ、もはや問うな。

 朕は今宵も勅命する、聖なる宴をせよ」


 饗応の間は大理石の彫像とイオニア式の列柱と壮麗に荘厳された巨大なスペースであった。


 その中心は、宗教劇の演じられる演舞劇場で、その全周を囲むように傾斜のある階段状の席があり、その全体はアレーナarenaと呼ばれた。


 ちなみに、アレーナとは元来、「アンフィテアトルム(古代ローマの円形闘技場)のような施設」のことで、すなわち流血を吸収するために砂を撒いた闘技場のことを指し、言葉の元々の意味は「砂」である。


 ここでは饗宴の楽しみとして歴代皇帝が聖典の物語を解釈して創作した神劇や哲学者の哲学講義が行われた。また奴隷戦士による生死を賭けた闘技も催される。それはときには罪ある者が潔白を示すために為された。ただしその場合は生存不可能な対戦相手が選ばれ、神の奇蹟としか言いようのない状況でなければ赦されなかった。


 アレーナの前後左右の壁面は構造物を持ち、下から大列柱を大アーチで繋いだ大アーケード、二階部分を構成するトリヴューン、トリヴューンの屋根裏的な通廊をなすトリフォニウム、ステンドグラスの嵌められたクリアストリーという構造になっている。


 また内部構造の中に内部構造を持つように、トリヴューンには小祭室がいくつもあり、聖なる絵画や聖剣、神槍や聖なる杯が安置されていた。それ以外にも壁面や柱に出窓のように張り出して附属する桟敷席がいくつもある。それらは荘厳に飾られていた。


 皇帝は宴の席に着くと、側近の者に指示する。

「今宵は闘技だ」

 厳粛な面持ちで侍従は去った。


 聖なる吹奏管楽器のファンファーレとともに宴は開始する。


 白い衣装の若い女性や黒い戦闘衣の若い男性が次々と料理や飲み物を運んだ。大きな銀の皿に溢れんばかり豪華な食べ物、肉や魚貝や果物の数々。大甕から惜しみなく注がれる美しきあらゆる種類の酒。


 弦奏楽団の神聖で麗しい音楽が演奏され、雨のごとく花びらがまかれる。


 宴もたけなわの頃、侍従長にして名誉大司教のセバトトメスが立ち上がる。

「皇帝に栄光あれ!」


 引き出されたのは革命家ボレイノであった。彼は自らが正義であることを示すためにあえて闘技を択んだのだ。闘う相手が何者かは彼には知らされていない。武技に自信のある彼は愛用の剣を再び手に戻され、闘気に満ちながらも緊張した鋭い眼差しをしている。


「対戦相手は」

 セバトトメスは大音声で告げた。

「女性だ」


 笑いが起こった。ボレイノは奇妙に歪んだ笑みを浮かべた。どう受け止めていいかわからなかったのだ。だが決して笑って済ませられるような結果が待っているわけがないことだけは理解していた。


「ジン・メタルハート」

 笑いが凍りつく。人々は自らが屠られる家畜のように震え上がった。


 ボレイノは蒼白になった。叫んだ。

「バカな。ムリだ。不可能だ。獅子十頭と闘えと言われた方がましだ! そもそもなぜ彼女がここにいるのだ。いるはずがない」


 だがセバトトメスは冷たく言い放った。

「これが決まりだ。勝てば神が汝の正義を保証したことになる」


 東側のゲートが開く。風もないのに全身の闘気で黄金の髪をゆらゆらとなびかせる長身の武者が現れた。

「おお!」


 すべての人々が畏怖の声を洩らす。


 兜をかぶり、焔のような異様な殺気に満ちて鋼鉄で装甲した女戦闘士、身長は2m以上あった。双眸には殺戮の炎が燃え上がっている。しかも冷厳で、鷹の眼のようであった。


「た、助けてくれ」

 ボレイノが悲鳴を上げる。


 メタルハートは剣を抜いた。漆塗りのように黒く艶光りする剣。聖なる文字の象嵌があり、唐紅の炎を上げて燃えている。刀身は2mあり、刃渡りの最も広い部分が50㎝であった。


「く、くそうっ」

 ボレイノは自暴自棄になって振りかぶった。渾身の気魄を込めて振り下ろす。ジンは剣を使わず、籠手で軽々と弾き返す。

「ぅわっ」


 革命家は顛倒した。立ち上がって飛び退き、距離をおいて再び剣を構えるも、もはや戦う気力はない。勝てるわけがないのだ。誰も勝てないのだ。


「これは不正だ」

 革命家は必死に叫んだ。

「これでは神の意思を伺うことにならない」


 メタルハートが誰もいない空間を斬るように剣を振り下ろす。刃は大理石の床を裂き、刀身が深くめり込んだ。

「ぅわあ」


 その振動でボレイノは再び倒れた。

 ゆっくり歩み寄ったジンが見下ろし、言った。

「終わりだ」

 立ち上がりかけたボレイノを縦裂両断する。


 沈黙。そして悲鳴と歓声。皇帝が立ち上がった。

「ここに神の正義は示された。

 この世に尊ぶべきはただ真理と真実のみ。神聖シルヴィエ聖教の偉大さはただ真理であること、真実であることである。

 我々は日々これを確かめる。聖者は言われた、『批判されぬ者は腐敗する』と。これぞ我が帝国の万世の繁栄のいわれなり。

 神聖シルヴィエ教の真理に未来永劫の栄光あれ」


 すべての人々が立ち上がった。

「皇帝万歳! 皇帝万歳! シルヴィエは正義なり、真実なり!」


 その頃、イラフたちはシルヴィエ国境を越えていた。


 レオンが彼の〝部屋〟から出て来て、感慨深げに遥かな山脈を眺める。その表情には翳りを帯びてはいるものの、感動があふれていた。熱く凝視するまなざしは深刻そのものであったが、希望と喜びとが感じられる。


 イラフはそれを見て心に満ちるものを感じた。これからが本番である。


「いよいよだな」

 彼女はそう言った。


 険しい山脈を越えるための道なき道の始まりだった。

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