第11話 ユグスト辺境伯の都ストリントベリイのバルパルス駅
焼き立てのパンのよい香りがし、ソーセージとポテトが運ばれ、スクランブル・エッグにサラダが美しい染附の皿に乗り、重たいクリスタル・グラスに入った濃厚そうなリンゴ・ジュースが置かれた。ペパーミント・グリーンの双眸で運ばれて来る食事を射抜くように凝視していたイラフが、
「大丈夫そうだけど」
と言うと、チヒラは、
「え?」
「いや、毒の話さ」
「あ、そっちのことか。しかし印象だけでは何とも言えまい。毒には気配なんかないからな」
「そうかなあ」
「え?」
「だって、すべては情報生命でしょう。解釈しようとすれば、きっとできるんじゃないかなあ」
「まあ、確かに。だけど、あまりにも何もかもを〝解釈〟してしまうことは神の領域を侵すことになるよ」
「そうかな。手も使わずに、気で敵を斃すよりかは、よほど自然だけれどもね。
それに、正しいことをするのに神が裁くはずがない」
「正しいとどうして断言できる。この世のことはすべて複雑で知り難い。神慮は計り難いよ」
「神は正義をなすために人間に理性を授けた。正義を望みながら理性に基づいて行動するならば、それは必ず人を正義に導くはずだ」
「そうとも限らない。
正義を望んでいると自ら信じて疑わない者も、実はその下に自分自身でも気が附かない矮小な利己的欲望を抱いているものさ。結局、人間はなかなか利己主義から逃れられない」
「そうだね。君の言うとおりだと思う。だからと言って、悪を為そうと思ってしまえば、さらに悪くなる。最初は純粋な正義でなくとも、心掛ければ正義に目覚めるはずだ。ともかく今はこれをやってみようよ」
モス・グリーンのまつ毛を下ろし、イラフは瞑目した。
正義を心掛ける。想いを静め、意(こころ)を清めた。炎が鎮まり、寂滅が訪れる。清んだ広やかな気分になる。そもそも神に抗うなどということがあり得ようかという疑念も湧く。
神は完全にして万能である。神の御心に副わぬことなど起こりようがない、すべては神の意のまゝであり、神の為された一部分に過ぎないから。すべては神である。
いやいや、そうだろうか。神とは、いったい、人間が定義できるような存在だろうか。そもそも〝考え〟って何だ。人間のあれやこれや推考する諸考概など、いったい、何であろうか。
『ン・・・・・・・・・・・・・』
だが考概を否定してしまうと、一切の考えのやりようがなくなり、どちらの方角に進むこともできなくなってしまう。
逝くべき方向を決める根拠がなくなってしまう。
『どうすればよい』
心の働きのまゝ、心に導かれるまゝにするしかない。いよいよ心を清まし、浄める。清浄たらしめる。
清まると執著が失せる。好きな物と嫌いな物との差別が撤廃される。
毒と毒でないものの境界線が消える。区別ができなくなる? しかしそうではなかった。むしろ逆であった。
ふしぎな働きによって、万象が差異のない、識別のないそのまゝで、〝識別〟された。これを表現するに識別という言葉以外に言葉がないので、あえて識別と言うが、これは識別ではない。言葉がないから仕方なく識別と言うが、このニュアンスを伝えるために〝〟附きで表現する。仏教でいうところの無分別知とも言うべきか。
チヒラは息を呑んでこれを見守っていた。
ようやくイラフが言う、
「わかったよ。大丈夫だ。毒はない」
「気が附いていないかもしれないが、君はどうやら千年に一度の天才らしい。
ぼくに触発されて、その才能を大きく開花させたのだろうが、しかしその上達ぶりは遥かに、ぼくを凌いでいる」
「わたしは気の力だけで敵を斃せない」
「じきにもっと凄いことができるようになるさ。君の才能を見抜いた師の炯眼は確かなものだ。
さ、ともかく食べよう。腹ペコだ」
そう言うと、脚を組んでミュールをプラプラさせながら、本を開き、読み耽りつつナイフやフォークを片手で扱い、食事をする。
「行儀が悪いと思うかもしれないが、ぼくは一時も無駄にしたくないのさ」
食事を終えて立ち上がるとき、白い人物の姿はなかった。反対の車両に帰ったのであろう。そうでなければ、イラフたちの脇を通って気が附くはずだ。
「やはり少しふしぎな感じだ」
「そうだね。だが、ぼくは敵意を感じない」
「わたしもそう思った」
「じゃ、行こうか」
部屋に戻るとチヒラは再び読書を始める。
列車は午後9時に国境を超えた。ヴォルフ国、傭兵王と呼ばれたヴォルフ大公が創った国である。荒涼たる岩と枯れた短い草にまばらな灌木があるだけの小さな平地が突如墜落するかのような断崖絶壁の大亀裂になり、それがまたわずかな平地になり、そしてまた亀裂が現れて地を裂くという風景が繰り返された。
ルーム・サービスで軽い夜食を摂る。
ストラングラーから5百キロ、最初の停車駅に着いた。午前5時。ヴォルフの北端をなすユグスト辺境伯の都ストリントベリイのバルパルス駅であった。
いく人かが乗り、いく人かが降りた。まるでそうすることがルールであるかのように、皆一様に厳粛な表情であった。
「ふしぎな感じだ」
イラフはそうつぶやく。
駅から見る黎明の街は幻想のように峻酷だった。窓の少ない鋭利な建物群は玄武岩のように黒く、無表情で森厳だった。
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