第9話  霧深い朝

 午前4時の少し前。起床した。


 イラフの動く音に目を覚まし、チヒラは乱れたクリムゾン&ボルドーの髪を振り、ベッドから身体をもぎ取って奪い返すように上半身を起こす。もの凄く眠たかった。〝気(叡智)〟を使うことはかなりの疲労を肉体に与えるのだ。


 それに引き換え、イラフは剣を構えて入念に型の確認をしていた。その眼は集中している。チヒラが目覚めたことに気が附くと、汗をぬぐい、微笑しながら挨拶する。


「おはようございます」 

「あゝ、おはよう。素振りか。朝から元気だな」

「準備運動です。精神が充実するまで時間を要しますから、早起きしてウォームアップしておかないと、出立の時に気力は充実しません」

「間違いない。寝坊したな」

「あなたは遅くまで読書されていたから」

「そうでもない。意の力を使うといつもこうなんだよ」

「結構負担がかかるのですね」

「〝まったく以て自然なこと〟とは言い難いからね」

「お腹が空きました。さあ、食事をしましょう」


 早朝の出立なので、前の晩、特別注文でサンドウィッチなどお弁当を包んでもらっていた。暖炉に吊るしてあった薬缶で湯を沸かし、お茶を飲んだ。チヒラは寝癖でさらにくしゃくしゃに絡んだ深い緋色と濃い葡萄酒色の髪を散々苦心してブラシで梳かしながら、


「君もコーヒーは飲まないんだな」

「何で飲まないとわかるのですか」

「紅茶に手を附けたからさ。コーヒーだってあるのに。言ってしまうとバカバカしいね」

「成長期は控えた方がよいと言われたことがあったので。飲まないというわけではありません」

「ぼくもだ。さあ、着替えて行こうか。つまらないことを言った」


 支度が終わると、羽織って扉を開ける。地味なイラフと白やピンク系で派手なチヒラの格好は対照的だった。また足音を忍ばすイラフと、ミュールをカツカツと鳴らしてキャリア・バッグをガラガラ引くチヒラも対照的である。


 さて、ともかくも、エントランスを出ると、古き街は黎明前の霧に埋もれていた。十九世紀のロンドンのように。遠くに蹄の音が聞こえる。


「うわ、凄いな。見えないよ。馬車が待っていても見えないんじゃないか」

 チヒラが手で霧をかき分けようとするが、それで先が見えるわけもない。

「大丈夫です。・・・・あっ!」

 イラフは両眼を光らせる。殺気を感じた。鬼神のような凄まじい念を。あえて凄まじさを見せつけるようにぎろりと睥睨している。同時に、白いトーガを来た人物の幻影が微かに過るような気がした・・・それらが一つのものなのか、別件なのかは定かではなかった。


 イラフははっきりとは見えない周囲に鋭いペパーミント・グリーンの眼光を投じ、警戒する。心を研ぎ澄ました。眼に見えないものを見ようとするように。チヒラもぐるりと周りを見廻し、

「感じたよ、ぼくも」

「でも」

 イラフは剣の柄に置いた手を離す。


「今は消えました。確かに先ほど感じたのですが」

「そうだね。消えたようだ。敵がいたとしても、彼らにもぼくらの姿は見えないだろう。或る意味、この霧は幸運だよ。

 さあ、行こうか。で、どうすればいいんだ?」


「まず駅に行きます。駅までは普通の辻馬車に乗りましょう」

「あれ? 列車で行くのか」

「馬車のあるところまで、です」

 チヒラは微笑し、

「ずいぶんと、もったいぶるじゃないか。さぞかしもの凄い馬車なんだな。わかったよ。君を信頼しよう。

 ところで、イラフ、もう敬語はいいよ。ぼくらは同じくらいの年齢だろう。たぶん」


 二人とも十四歳であった。

「わかりました。そうしましょう。・・・いや、わかった。そうしようよ」

「さあ、早く辻馬車を探そう。そして早く行こうよ」 

「探すために気を読む、っていうのはどうかな。視覚が当てにならない状況で、気を読むしかないと思う。まさか嗅覚っていうわけにもいかないし」

「あはは。それはそうだけど。でもどうかなあ。辻馬車以外の馬車も走っているし。技術的にムリかなって思うんだけど。・・・まあ、試しにやってみるか。うーん」

 そう言うが早いか、藤色のまつ毛を下ろし、チヒラは心を澄ます。

「ムリと言いながら、もう始めてるんだね。そうそう、案ずるより産むが易し、さ」

 イラフもまたまぶたを下ろしてペパーミント・グリーンの眸(ひとみ)を閉じた。


 まずは自分の経験の範囲内で、剣を構えるときのように心に静寂を呼び覚ます。存在が情報生命体ならばその情報が読み込めないだろうか、と思ったのだ。殺気を読むときのように。


 考えてみれば、同じような原理のような気がした。できるんだと想うこと。剣の修業もそうではないか。なぜ望んで意志するとそれは近附くのか、理由はわからないが、経験則に合致する。


 むろん、そんな簡単なことではあるまい。

 だがそういう傾向があるような気がしていた。理屈を超えた微かな手応えのようなものを感じる。薄っすらとした可能性のようなものを仄かにつかんでいた。このように感じ易い人ほど、そのように起こり易い気もする。

「わかった!」


 二人が同時に言った。たぶんお互いに顔を見合せたであろうが、霧で見えない。それでも意思の疎通を感じ、今度は同時に歩み出した。

 確かに向かう方に二人乗り馬車が待っている。霧にぼうっとするカンテラを吊るし下げて。


 イラフは武人ゆえに気を読む力を既に持っていたとは言え、チヒラの些細なヒントを基にして、たちまちに情報生命の理論を体得してしまったのである。


「呑み込みが早いな」

 馬車の乗り上がろうとするとき、チヒラがイラフを振り返って言った。

「師が良いからさ」

 そう言って微笑む。


 出発した。チヒラはポケットから本を出し、髪を弄りながらミュールをぶらぶらさせて読み始める。

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