第6話  千毘羅(チヒラ)

 ぼんやりした灯りに照らされたその店は古本屋のようである。古びてくすんでいながらも、心癒す落ち着きがあった。古い活字の紙印刷や羊皮紙手書きのさまざまな書籍がある。既に一人の客がいて立ち読みをしていた。


 少し変わった少女であった。濃いクリムゾン・レッドとボルドー・カラーの色が交互に入り組んだような髪が濡れ艶を持って絡まり乱れつつ、鎖骨に垂れている。双眸は桃色で、瞳を翳すような藤色の睫毛の下で強い光を放っている。眉は薄い桜色だった。

 着ている服は、その髪の色に似合わないクリーム色の短いトレンチ・コートの下に、チュニックをワンピースのように着て、そこから伸びる細い脚は白いタイツに、ショッキング・ピンクのミュール(こんな雨なのに!)で、キャスターの附いた唐紅のキャリア・バッグを傍らに置いている。


 碧き眉が緩む。イラフにとってこの光景の全体が、すべてのフォルムが、繋がった一つの何かのフォルムをなすかのように想える。

 一つのふかしぎな、古代の叡智を記録する神聖文字のように、深く遠く、しかしながら懐かしい感じを、覚えさせた。名状し難い気持ちになる。


 そして、その一部または半ばは明らかにその少女の存在から来るものでもあった。彼女に最初から、或る種の懐かしさや親しみのような情感を抱いたのだ。


 ペパーミント・グリーンの双眸が遠いまなざしになる。イラフは半ば夢遊病者のように無意識的に、属するところへ帰るように、故郷へと戻るかのように、戦士が戦場へ還るように、真理を求める者が知の殿堂に入って行かずにはいられぬように、自然と古書堂へ入った。

 心機(こころのはたらき)のまゝに。


 灯りはあるが古色蒼然たる厳格さが漂って影が濃く、とても暗い。周囲を見廻した。幽玄なるランプの光によって、照らされるというよりは陰翳に深く沈み込まされるかのような典籍の数々は、興味深いものばかりであった。


 羊皮紙製本の『饗宴』(これはとても皮肉なことに想えた。プラトンの著作だが、その師であったソクラテスは「生きた思想を死んだ羊の皮に載せるべきではない」と言っていたのに)、『法華経義疏』、奇門遁甲の巻子本、ロシア文学全集、パピルス紙の『死者の書』、粘土板のギルガメッシュ英雄伝、ウパニシャッドの数々、『龍脈太図』、古代ギリシャのオルギア秘儀書、『神気天真義書』、貝多羅に記された『スッタニパータ』、神仙箴言集、『老子』、『荘子』、稀覯なる『グラン・グリモワール』の初版本、『碧巌録』、『無門関』、『和漢朗詠集』、『徒然草』の嵯峨本、光悦の自筆写本等々・・・・・・


 さて、こんな古文書の中で、この少女は何を見ているのかと、引き寄せられ、その先客が開いているページに視線が行く。近附くと、芳しい香水の馨がした。彼女のすべてからオーラのように漂っている。


 書かれているものは単純ですぐに読み取れたが、意味はわからなかった。

『正円と逆円、って何だ?』

 そう心でつぶやく。

 二つのまったく同じ円が左右のページに対象に描かれて、右に正円と記され、左の逆円と記されていたのだ。しかし違いはわからない。


 思わず凝視してしまっていた。ボルドーとクリムゾンの髪の少女が振り向く。桃色の眸の表面をゆらゆらとしていた光がくるくる激しく動き出す。ミュールのヒールがかつん!と鳴る。

「何か?」


 その双眸はいぶかしがると同時に、面白がっているようでもあった。

「いえ、その」

「ふふん」

「逆円というのは、あまり聞き慣れないかな、と思いまして」

「ああ、これか」

 見下すような言い方が少しカチンとくる。

「円を描くときに右回りか左回りかということだ」

「そうですか。どちらが正円なのでしょう」

「どちらでも。右回りを先に描けばそれが正円で、左回りが逆円。左が先なら右が逆だ」

「はあ」

 身もふたもない話のように思えた。

「ふふん」

 またも蔑むような笑み。

 イラフは相手にしないことにした。このようなことで憤慨するのは浅はかだし、怒りで心気を消耗するのも虚しい。モス・グリーンのまつ毛を翳しながら思う、無駄だと。それに今は隠密で行動をしなければならないとき、諍(いさか)いなどすれば、人の印象に残ってしまうではないか、と。


 去ろうとするその瞬間、その少女の視線の動きに気が附いた。その眼はわずかに捲くれたマントの隙間から見えるイラフの剣の柄の紋章に集中している。その桃色の眼の光り方で、彼女がこの紋章を理解していることを察知した。『何奴!』


 イラフは碧き眉を顰(しか)め、少し探りを入れる気になった。 

「あなたはかなり博学なお方とお見受けしましたが」

 そう切り出した。

「いいや。君ほどではない」

 皮肉な口調であった。

「そのようなことはないと思いますが。

 わたしも武の心得あるがゆえに、学も少々修めはするも、それは『武に学なくば、暴にしかず』という先人の教えに準じたまで。

 学などとは言っても、しょせん武人のなすことに過ぎません」

「ふん。理想主義だな。学とは机上のものではない。実践の道具だ。

 ぼくは、むしろ、智慧が武力たるべきと思う。だから多くの知を学び、それを蓄えて融合し、力とする。

 力なき叡智は机上の空論にしかず」


 この女(ひと)はもまた、自身を〝ぼく〟と称するのであった。

「なるほど。一理あります」

「一理も二理もあるさ。むしろ物理的力たるを智慧と呼ぶべきとも思う」

「或る意味その方が理想論的では。

 というよりは妄想かと」

「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度し難きかな」

「わたしも士道を精進する者なれば、気脈を読み、人の言葉ではないそれらの言語を解し、勝つために、大いに活かすこともありますから、あなたの言うこともわからないわけではありませんが。

あなたの論理で言えば、精神に聖なる炎を点火する叡知は智慧にあらず、投石機や大砲などが叡知であると言わんばかりです。さような論に堕ちてしまう」

「それが悪いか」

「理不尽と言ったまで」

「さればそのお点前、拝見しようか」


 そう言うなりその少女は雨も水溜りも厭わず、降り頻る路上に、白いタイツのミュールの足で出た。髪をひるがえし、振り返る。イラフも用心深く出るが、途端に、

「あっ」

 水しぶきを上げて倒れてしまった。倒されたのだ。彼女はイラフに指の一本も触れていないのに。

「ぅうっ!」

 急いで起き上がる。何の力だったのだろう。相手は微動だにしていない。〝気〟のようなものか。立ち上がっても、心が整わない。〝いき〟がまとまらず、不安定で、未だ隙がある刹那、またもや力が迫るのを感じた。


 予測していたにもかかわらず、受け切れない。再び突き倒された。巧みだ。けして力でゴリ押しではない。理に適って、妙を得ている。〝呼吸〟をつかんでいる。

未だ少女と言ってもおかしくない年齢(イラフ自身もそうだが)に相違ないのに、既に匠(たくみ)の領域であった。イラフは感心する。

「うぐ、っつ・・・」

 うめきながら立ち上がった。


 暗い路地、弱い光を半身に浴びて、半分を深い闇に浸して彼女が立っている。その双眸はこちらを睥睨し、ピンクダイヤのように爛々と輝いていた。

「これが〝叡智〟だ。現実を革命する。実際の真理だ。真実の智慧だ。脳裏で同義反復(トートロジー)を繰り返すだけの論説とは違う。非現実的で、実のない、カタチでしかない思考や言語による論理は智慧ではない」

「お見逸れしました」


 降参の言葉を言ってイラフは水色の髪をはらりと垂らして頭を下げる。相手は反って顔を顰めた。

「そうではあるまい。剣を抜け。そこからが君の〝本質〟たる領域だ」

「それには及びません」

 しばし沈黙。

「ちぇっ。してやられたか! ぼくだけが本質を顕現させ、君は自己を隠蔽したままというわけだ。抜かったよ。無手勝流(戦わずして敵に勝つということ)というわけだね」

「そのようなものではありません。感服しました」


 桃色の双眸は眼光を和らげて、今度は好奇心でくるくるしながらイラフをまじまじと見つめ、

「いや、ぼくの負けだ。

 しかし君が東大陸の人間であることぐらいは見抜いたよ。龍梁劉禅、すなわち大華厳龍國の軍に属する者だな」

「そういうあなたこそ」

「いかにも。ぼくらは同志というわけだ」

「ならば立ち話を人に聞かせる必要はないでしょう」

「しかり。

 しかもこの雨だ。さあ、どこかカフェにでも入ろう」


 二人は暗く、陰隠滅滅たる雰囲気の、客のいない、寂しい老舗のカフェに入る。

 とは言え、けして地味ではなかった。むしろロココ調で派手である。

 繻子張りの椅子や房飾りのついたクッション、明るい楓材でつややかな猫脚の円テーブル、寄木細工の箪笥、ドレープのたっぷりとあるカーテン、ペルシャ絨毯。

 そのクラシカルなスタイルが反って憂鬱な気味の悪さを醸し出しているに相違ない。


 彼女が切り出した。

「むろん、互いに密命を受けた身、何をしているか話すわけにはいかないだろうね。名乗ることも」

 碧き眉を寄せてイラフは少し考えたが、

「そうです」

「君はこれからどっち方面へ」

「帰国します」

「ぼくもだ。ルートは?」

「奇想と思われるかもしれませんが」


 イラフは双眸を緑の薔薇のように瞠(みひら)いて燦めかせながら説明した。

静かに聞き入っていたチヒラはクリムゾン・レッドの髪を指でひねりながら、

「人の考えとは似通うものだ。ぼくも同じように考えた。まだ馬の用意はできていないが」

「意外でした。自分以外にさように考える方がいようとは」

「互いの安全のため同道するも一案かと思うが」

「そうですね。

 幸いわたしの方は馬車の用意が約束されています。ここではありませんが、一緒に来てください。場所に案内します」

「その場所は、まだ詳しくは話せない。って感じかな。わかったよ。

 しかたない」

「これからは、何とお呼びすればよいでしょう」

「ちひら(千毘羅)。

 ぼくは君にぼくのなまえを教えよう。チヒラというのだ。これから運命をともにするかもしれないのに、隠しても虚しいし、既に君はぼくの素性を見抜いている。

 今さら秘しても意味があるだろうか。それに、君が裏切るとは思えない。そういう気配がまったく感じられない」

「光栄です。

 わたしは聞いたことがあります。我が大華厳龍國の精鋭部隊には、意(こころ)を物的な力として使うことのできる者たちがいるというのを」

「存在の一切は情報生命体だ。

 あとはその〝龍脈〟を読んで、自らの知と波動を合わせて絡め取って制御すれば、その者のスキルに応じて、攻撃や防御として使うことができる」

「あなたは簡単に言いますが、容易なことではないはず。古来少数の達人しか理解しない神技です」

「すべては運命なのかもしれない。

 天才は自分の力で天才に生まれたわけではないからね。努力家だって自分の力で努力家に生まれたわけではない。ただ、それをあまり言うと、努力しなくなる愚か者がいるので、公に言われないだけだ。努力しなければ損するのは、自分でしかない。自分の行為のすべては自分に帰ってくる。

 これは逃れようのない現実だ」


 二人の宿泊先は近かった。明日、同じ駅から出ようとするのだか、それもふしぎはない。同じ列車の切符を買うように図ることを決めた。

 雨の路地を二人ならんで歩む。イラフはオリーブ色のフードを深くかぶり、チヒラはクリーム色のトレンチ・コートの襟を立てて寄せた。『オシアンの歌』を歌う。

 人気はない。すべてが陰翳に塗りつぶされ、そちこちの隅には濃い黒しかない。雨が降るのみだ。


 それまで気配はなかった。だが既に数人に囲まれていた。

 イラフが尋ねる。

「何かご用でしょうか」


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