第5話  古書堂

 これは齊歴9069年霜月のことであった。 ※齊歴とは世界共通暦(世界一齊歴)のこと。  


 イースはイラフを見やり、感情をあまり表わさない悲愴の顔をしみじみ眺める。小さくうなずきながら、改めて言った。

「しかしよくここまで無事に来られたな。しかも独りで」

 イラフは苦しさも辛さも表情に出さず、遠い眼をした。さまざまなことを思い出しつつもそれを顔に出さないのだ。

「幸運だったと思います。しかし同じ道で帰ろうとは思いません」

「やはり相当危険だったか・・・」

「はい。南ルートで海を渡って来ましたが、考えることは同じ、誰しも海上を、南ルートを行く。帝国に近い北ルートは誰もが避けます。北は山岳や渓谷や寒冷地など、難所も多いですから。

 しかし皆が南を行くので、南はシルヴィエ情報部の監視もきついのです。

 何度も危険な目に遭いました。剣を交えたことも数度。それゆえ、恐らくわたしの行動と目的とは相手に知られていると思う方が自然でしょう。

 帰路はあえてシルヴィエ帝国領を横切って帰ってやろうかと思っています。もはやお伝えすべきはお伝えしたし、国への報告はメールでも電話でもできます。万が一、死んでも任務に支障はない」


「シルヴィエ横断か。大胆だな」

 そう言いながらイースもまた驚いた表情は見せず、淡々と応えただけだった。同様にイラフも、

「数学的な計算上のリスクも、統計学的に推測し得るリスクも同じ結果を示します、すなわち南も北も同じだと」

「わかった。馬車などの手配をしよう。秘密の任務をしていることがバレない準備をしよう。力の及ぶ限りでね。

 我が国の鉄道や馬車の特に良いものを用意しよう」

「素直に好意に甘えさせていただきます。旅の商人に見えるものが望みです」

「それも了解した。しかし見た目はともかく、実力も商用なみでは速く走れない。

 外見が商人の馬でも、いざとなれば龍馬のごとく速いものがよかろう」

「しかし龍馬を商用の馬に似せたとしても、すぐに見破られてしまうのでは」

「龍と馬を掛け合わせたものが龍馬で、飛ぶがごとくに、足を地に着けぬよう疾走し、嶮しい山も駈け登るが、見た目が大きく、普通の馬に比べればとても魁偉なので、そんなものに乗っていれば、すぐに偽の商人だとバレてしまう。商人が高価な龍馬など使うはずもないからね。

 ところが、龍馬と麒麟を掛け合わせて、さらに龍と羊を掛け合わせた龍羊と掛け合わせると、ふしぎなことに脚の太い農耕馬の子馬にしか見えない馬が出来上がるのだが、実際は龍馬と同じ特性を持つ。

 僕らはそれをヨウクUrcと呼んでいる」


「ヨウク・・・」

「大いなる発見でまだ知られてはいない。

 シルヴィエ帝国は科学の発達した国ではあるけど、こういう方面のことにはうとくて、彼の国では知見がないらしい。だからこれはトップ・シークレットのうちの一つなんだ」

「お借りできるのですか、そんな貴重なものが」

「むろんだ。受け渡し場所を後で細かくメールで指示する。 

実は、その場所は我が国の中ではないんだ。何しろ、ここは諸国の中でもどちらかと言えば北寄りで、シルヴィエに近いからね。

 秘密の牧場はここからずうっと南へ行った国の中になのだ。距離だけの問題じゃない、その国は我が国よりも大きな国で、帝国も簡単には諜報活動ができない。

 実際、我がクラウドは卓越した精神のある国だが、機密が守り切れるかどうかという意味に於いては心もとない部分がなくもないのさ」

 そう言って笑う。

「ほんとうにお借りしてよいのでしょうか。途中で捕縛されて機密がバレる可能性があります。やはり危険です」


「どうせ、いつかは知られてしまうのだ。すべて時間の問題だ。ならば是非、君の役に立てたい。正義のためには失うことを怖れてはならない。さような執著は悪だ。

 自己のために損失をせぬよう躍起になる人間は魂に苦しみの轍を刻むものだ」

「イース殿・・・ありがとうございます。ありがたくご厚意を頂戴します」 

「幸運を祈るよ」


 イースは去った。振り返ることもなかった。

 少し間を置いてイラフも席を立ち、オリーブ色のマントを羽織る。勘定を払って雨の闇に出た。さらに激しい横殴りになっている。


 ハラヒも未だ窓から道を眺めていた。イラフが出て行く後姿が見える。それが見えなくなると、また想いに耽った。


 イラフはフードを深くかぶり、襟を寄せる。それでも水色の髪から次々と雫が垂れ落ちていった。右手は剣の柄に彫られた紋章の彫を撫でながら、とっさのときにすかさず抜剣できるように握っている。


 気温は下がっていた。しかし、尾行を確認するため、わざわざ回り道をしている。宿までの道を歩きながら、周辺を睨み、ペパーミント・グリーンの双眸の眼光鋭く、入念に探りを入れていた。

 行為とは別に、頭はさまざまなことを考えている。想うほどに想いは深まり、やがて何を考えているかすら定かではなくなっていった。心はさようなときに働くのか、あるいは働くために人を想いの底へと沈め込むのか。


 だからなぜそれが眼に附いたのかわからなかった。しかし眼に附いたのである。

 雨にけぶるさなか、立ち止まった。


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