第14話 若者と乞食

 イーストリートのフェデリッチ通り。

 警官のウィップスはある男と並んで歩いていた。

 男は闇組織ナピスの使い、タグラ・ピンブルという。

 彼から報酬を受け取った後のウィップスは上機嫌だ。

 出世よりもナピスのメンバーになることを望んでいた。


「……ということでピンブルさん。何卒よろしく。ささっ、どうぞ常備薬を」

 と言って彼のワイシャツの胸ポケットにすかさず押し込む。それはヤクの売人から押収した白い粉袋。

「ホントに悪いヤツだなお前は。わかったウィップス、また口利きしてやる」

「お願いいたしやす」



 そこで彼ら二人は一人の男とすれ違う。

 男は黒縁眼鏡に灰色髪を後ろに撫でつけた、英国紳士風のすらりとした長身。

 ウィップスは無性に気になった。

 鼻をクンクンさせ、男の後を追った。

 角を曲がり角を曲がり、行き交う通行人を縫って足早に離れるその長身を、ウィップスはやがて見失った。

 ふと、そこはチェンバースアパートの前。

 チッと舌打ちした後、ウィップスは頭を掻きながらまたピンブルの横に戻り、帰り道を案内した……。


 ****


 午後四時、路地裏には若者と乞食。

 リーゼントで反抗と誇りプライドを示した一人の若者。

 シュロボウキのような髭が胸元まで伸びた一人の乞食。

 いつもの時間とき、いつもの場所ところで。


 メインディッシュのフライドチキンにしゃぶりつきながら、老いた乞食は若者に声をかけた。

「若ぇの……歳はいくつだ?」

 数ヶ月前にも同じように訊かれたが、今日はその時とは違う数を答えた。

「十七だ」



 レンガの壁にもたれ、若者はショートホープにマッチで火を着け、ささやかな休息を味わう。

 八月の日差しと虫の音を睨みつつ、今度は若者から老人に話しかけた。


「ぽけーっとして……爺ちゃん聞いてる? 俺今日で十七歳にな・る・ん・だ」

 壁を背にだらりと腰を下ろしている老人はくちゃくちゃと口に含んだままニカッと笑った。

「ほぉ。もうそんなになるんかい」

「ああ。爺ちゃんは? いくつくらい? 六十とか?」

「……わしゃあ、二百歳くらいかの」

「はは。んなわけないでしょ。んで爺ちゃんいつからイーストリートここにいるの? 住処すみかは? ……家族は?」

「わしゃ独りもんじゃて。じゃが住処はあるぞ。いつだって」

「えっ?」と若者は身を起こし向き直り、横に並ぶ老人の目の前にすっとしゃがみ込んだ。

 老人は油脂あぶらで汚れた指を膝で拭い、チュッチュと口を鳴らして食事をやめた。


「わしが今いるここ。こそがわしの住処じゃ。時には公園〜、時には駅〜、時にはホテルの裏口〜、時には港……イーストリートの町全部がわしの寝ぐらじゃ」

「……なぁんだ。そういうことか」


 乞食の爺さんのしわがれ声。

 若者は微笑んでみせ、その虚ろな目を凝視した。

「わしの顔になにか?」

「ずっといるもんな、爺ちゃん。この町に」

「わしを覚えてくれとるか。嬉しいのぉ」

「昔からいるだろ。リンゴもあげたじゃん。みんなも知ってるし」と言ってクンクンとジャックは鼻の穴を広げた。

「でも爺ちゃん全然臭くねえよな。なんかいい、潮の香りがする」

「……若者よ。名前はなんてんだ?」

「ジャックだ」

「おぉ。ジャックか。良き名じゃな」

「めっちゃ平凡だし」

「お前さん、たとえば夢などはあるのか?」

「は? ……ゆ、夢?」

「若者は夢を見る生き物じゃて」

「はあ……」と肩をすぼめるジャック。

 そして「そんなもん。ねえよ。なんもねえ」と薄ら笑いを浮かべると急に一瞬目を鋭く光らせた。

「夢なんてねえが……しなきゃなんねえことはある。果たすべきものがな」


 乞食は下水に痰を吐き捨てるとゆらりと立ち上がった。

「チキンは美味かったぞジャック。気に入った」

「だろ? いつでも来なよ。また持ってくるぜ」

「お前さんは情が深い。目の色も、執念も。とても気に入ったよ」

 と言ったその時、落雷のような怒鳴り声が路地裏に響き渡った。



「こらあぁ! このドブネズミめえ、まぁた現れやがったなあ!」

 それはウィップス。ジャックが嫌う、暴力警官のウィップスだ。

「病原菌ヤロウめ! 今日こそ摘み出してやる!」


 ウィップスはゴリラのように肩をいからせ歩み寄ってきた。

 その横暴な毛むくじゃらな手が老乞食のボロの胸ぐらを掴み雑巾のように絞り上げた。

「キサマは疫病神だ。町から追い出してやる」

 それからウィップスはニヤリとジャックに視線を投げた。

 これをジャックが黙って見過ごすはずはないと、ウィップスはわかっていた。


「……お巡りさん。爺ちゃんの喉、絞めてるよ。殺す気か。放してやれよ」

 ウィップスの首筋の血管が波打った。

「……なにかほざいたか? ジャック」

 ウィップスがニヤついているのは挑発だと、ジャックもわかっていた。

 昔から彼を目の敵にしているこの警官。


「このジジイのかたを持つのか? そうか薄汚い者同士、類は友を呼ぶものだな」

「なにぃ?」

 ウィップスは爺さんを突き放し、歯向かうジャックと向き合った。

「ジャック。てめえのことはいつも調べてる。何もかも。今はこの表のイタ飯屋で働いてるそうだな。だが大した稼ぎにはならんだろう」

 ジャックの舌打ち。のしかかるようにウィップスは詰め寄った。

「あの四人組に金をせびって、てめえは学校へ行きやがれ」

「はあ? ……何言って」

「時折訪ねてくるあの四人だよ。金髪に白帽子、黒髭に元ボクサーもよく来るなあ。奴らチームだろ。何者かは知らんが親しくしてるよな? ……俺はお前のためを思って言ってやってんだジャック。これからは学歴社会だ。学がなけりゃろくな人間にはならん。世の中に蹴落とされて野垂れ死だ。このジジイのような乞食になる」

「余計なお世話だ。警官がそんな偉いのか?」

 ジャックの握りしめる拳をウィップスはガシリと掴んだ。

「ふふ……そう、お前の親父と一緒だ。いつかきっとお前も野垂れ死ぬ」

 その拳をウィップスは引っ張り寄せ自らの頬に当てがい、煽った。

 ジャックは怒りに震えた。


「おい何だこの拳は、殴りたいか? 俺を」

「……クッソ! てめえ……」

「警官は偉い? そう、当たり前だ。俺たちがイーストリートを統治してる。クソゴミは排除せねばな」

「も、もう許さねえ!」

 ウィップスは顔を突き出し目を見開いた。

「さあ殴れ。これでいよいよお前を刑務所ブタバコにぶち込める……ワハハ」

「ああ! うるせえんだよ!!」

 ウィップスの手を振り払い、目を真っ赤に腫らしたジャックの右拳が飛んだ!

 岩のようなウィップスの頬を目がけて――!


 烈火の怒り。許せなかった。ズタボロに傷つけられた。

 決して自分から手を出すな、時に足元をすくわれると、リッチーは喧嘩っ早いジャックに言っていた。

 我慢も覚えろ、抑えなければならない相手もいると。

 しかし今回ばかりは限界を越えた。

 ウィップスは父ジョージの事を口に出し罵った。

 その下劣で醜悪な頬骨を一刻も早くぶち砕いてやらねばと。

 悪しき者への鉄槌。これは反抗ではない、この男はあまりにも度が過ぎた。

 しかし、ジャックの紅蓮の拳を受けたのはウィップスの左頬ではなく、枯れ枝のような乞食の爺さんの手のひらだった。


「爺ちゃん!」ジャックの拳を押さえ込む恐ろしく力強い老乞食の手。

「いかん! 耐えるんじゃ!」

 一瞬の出来事にウィップスも動揺した。

 老人はジャックの手を取り彼を全身で覆うように場を制した。

「な、何なんだよ爺ちゃん、放せよ!」

「駄目じゃ堪えろ! あやつの思うツボじゃ」

「悪いのは奴だぁ放せ、クソッ! おいコラ、ウィップス! てめえのそのツラ叩きのめしてやる!!」

 ジャックの体を一気に壁に押しやる老人。

「今暴走しては終わりじゃ! 頼むジャック」

 凶暴な目つきで激しく抵抗するジャック。

「邪魔すんなああ!」


 ウィップスは腰に吊るした警棒を手に取り路面に唾を吐き捨てた。

「本気で生意気なガキだ。喝を入れてやる」

 そう言って足を一歩踏み入れたその時、ウィップスの背後からその手が置かれた。

「お巡りさん。そんな物振りかざしてどうしたんです?」

「ああ? 誰だキサマ……」


 振り向くとそこには彼の言う四人組がいた。

 掴むその手はリッチー。そしてルカ、ホウリン、ジミーが並んで現れた。

 ジャックが叫ぶ。

「リ、リッチーー!」

「ジャック。何があったんだ? 教えてくれ」

 リッチーの鋭い眼差しと続く言葉にジャックは気圧けおされ思い留まった。

「クールになれ。ジャック」


 リッチーはそう言って彼を鎮めた。

 ウィップスは顔をしかめ、隙を見計らいながら退いた。


「どうやら救われたなあジャック。だが俺を甘く見るんじゃないぞ。いつかお前をここから追い出してやる」

 そう捨て台詞を吐き、ニタリと笑って去っていった。

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