ニコラス・フラメル

「そもそも、全てを可能にした男がなぜ『不可能』をわざわざ創り給うたのか?」

ニコラス・フラメルは連日連夜、キーボードを打つ手を休める度に問うた。彼は国の通信インフラを担う大手企業のエンジニアで、日に何十万行ものソースコードを記述する。時に白日の下で額に汗して同軸ケーブルの接続やスイッチングハブの交換を行う。が、本業はソフトウェアを製造する職人だ。

毎日、太陽が中天にさしかかる頃に観葉植物が生い茂る個室に出勤し、日が昇る前に退社する。そして、個配された夕食兼朝食を腹に入れて泥のように眠る。

こうした変則ではあるが規律正しい生活を続けて25年になる。歳を取るにつれてディスプレイのフォントサイズも拡大した。その反面、肩にかかる仕事もズシリと重みを増した。

今ではサイバーセキュリティーの最前線にいる。表現の自由戦士を名乗るテロリストどもはあの手この手でネットワークを寸断し、自分たちの居場所を確保しようと暗躍する。

ニコラスはその陣取り合戦の矢面でなく、防御を支援する立場にいた。もっとも彼自身、切った張ったの争いは好きではない。どちらかと言えば世俗の時間軸から遊離した自由を遊泳したい。

ニコラス・フラメルは実際のところ、イラストレーターや3Dデザイナーに無償で作品保管場所を提供する企業の雇われエンジニアだった。それがあろうことか同志と敵対する側についた。

あのネットワーク犯罪史上最悪といわれたボブキャット襲撃事件だ。ニコラスの属するデータノース社はエヴァーらスティングガーデンにオンラインストレージを提供していた。彼自身も会員としてプレイヤーキャラクターを操る遊びはしないものの、その営みを愛でる楽しみに興じていた。ニコラス・フラメルは根っからの平和主義者なのだ。

それが一夜にして暗転した。社のデータセンターはことごとくサーバーダウンさせられ、顧客から預かった分身――文字通り各人の命ともいえる――は揮発した。その中に夭折した恋人のアカウントもあった。

永遠の庭は故人の会員情報を抹消しない。たとえ遺族の要請があったとしても、公益と第三者の権益を著しく侵害しない限り登録データは有効だ。

恋人――サヴィヤヴァはインド人数学者だ。二人の馴れ初めを語ると数冊の恋愛小説が綴れる。

なぜって、睦言は数式で交わされたから。

量子暗号、群論、対角線論法。データノースのサーバーに夜討ち朝駆けで襲い来る侵入者。それが彼女だった。

ニコラスが巧妙にしかけたトラップの幾つかに引っかかり、彼女が吸い出す営業秘密にメッセージを流し込んだ。

「サヴィヤヴァ」

心を開くまでに22ギガバイトの転送量、愛を育むまでに8テラバイトのストリームを消費した。

そして病魔が二人を永遠に分かった。

コロナウイルスだ。中国大陸の深部で発生した未曾有の肺炎が彼女の命を奪った。運動不足、糖尿病、高脂血症、高血圧、どれも抵抗力を減じる。


サヴィヤヴァとの間に生まれた8テラと22ギガバイトのデータストリーム。ニコラスは誕生日プレゼントがわりにバックアップを贈った。

恋人の装身具など買いに出た事も無い朴念仁に出来る精一杯の愛情表現といえば、どうしてもコンピューター関連にたどり着く。


「まるでわたしたちの子どもみたいね」

サヴィヤヴァは喜んで認証コードを受け取ってくれた。


「2つあるんだよ。念には念を入れてね」

「まるで指輪を贈るみたいな言い草ね」

「そうだよ。気づいてくれてうれしいよ。サヴィヤヴァ」

「じゃあ、この子たちに名前をつけましょう」

「な、なま、この子たちだって? 冗談だろう?」

「あたしは本気よ」

「だって、データだぞ! 僕たちはこれから式の日取りを決めて」

「挙式って…まだ、あたしたちはオフラインで逢ってないのよ」

「だったら、さっさと済ませてしまおう。僕の力を使えばムンバイ行きのスペースXスターシップを確保できるよ。明日の便、ケープカナベラル発の席を取ろう。いや、もう押さえた!」

「ごめんなさい。ニコラス」

「どうして君が謝る必要がある? 旅費も宿泊費も僕の自腹だ。何なら君を迎えに行ってもいい。ムンバイのウーバーを寄越そうか」

「ちがうの。ちがうのよ。ニコラス…あたし」


この時、彼女の潜伏期間はとうに終わっていた。


ストリーミングで彼女の家族葬を見届ける勇気は無かった。そのかわり、ニコラスはサヴィヤヴァ・チャンドラセカールの遺児をオンラインではぐくむ決意を固める。


「僕はできなかった。僕にはあまたの数式を操る力がある。数字は情報だ。この世のありとあらゆる事象は単純明快かつ美しいたった一つの数式で記述できる。ものみな全てデータ、情報とさえいえる。けれども僕はサヴィヤヴァを救えなかった。全能者はなぜ、わざわざ不可能を創り給うたのか」



ニコラス・フラメルはその答えを純粋数学にもとめた。



局所最適解はみつからなかった。






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